第10話 わくわくお弁当大作戦

 あの感情を、何と呼べばよかったのか。

 今の私にはもうわからない。好き勝手に名前をつけるのが得意な人間という生き物にはかえって、与えられたものの名前を知るのが難しい。まあこれは、いつかの圭一の受け売りなんだけど。

 だから、今の私から戯れに、あの目を背けたくなるほどに輝かしくて、目を逸らせないほど穢らわしいあの感情に、名前をつけるとするならば──

 永遠に喪われたあの感情を、既に結実した、それとも既に徒花となったあの執着を手のひらで転がして、懐かしんでは仕舞い込む。それが、たまらなく愛おしくて、耐えられないほどおぞましい。

 だから──あるいは『恋』なんて、呼んでみたっておかしくないと、そう思えてしまうのだ。


      ◯


「おはよう、みやこちゃん!」

 …………は?

 ぼうっと机の傷を数えていた視線を上げて顔を見てそれから危うく反射的に傷を数え直しそうになってギリギリで思い留まる。眩しすぎる。この感覚、初めてじゃない。

 ものすごい柔かな笑みだった。朝からこんな笑顔を見られるなんて超ラッキーって感じ。話しかけられてるのが、どうやら私であるってこと以外は。

 ──もしも、私が私を俯瞰できたなら、私の頭の上には、いくつものエクスクラメーションマークが浮かび上がっていたと思う。あまりにも予想外すぎて硬直した。そして頭の中でそれらしい心当たりを、何度も何度も検索した。それでもどうしても、私ががまったく思い当たらなくて困った。

「……あれ? 名前、間違えてないよね……突然下の名前で呼ぶのは早まったかな……ああ、やっぱり慣れないことはするものじゃないなあ……」

 私が黙っているうちに、何かぼそぼそ呟いている。何なんだこの人。何がしたいんだ。考えていることがさっぱりわからない。私にはただ、それが怖かった。私を傷付けるため武器を携えて近付いてくる人より、両手を広げて害意がないことを示しながら笑顔で近付いてくる人の方が、よほど怖い。

「というかもしかして……私のこと、覚えてない?」

 いや覚えてるよ。覚えてるから怖いんだよ。今日はジャージ着てないけど。

「何……えっと、何か用?」

 恐る恐る尋ねると、元・ジャージちゃんは気を取り直して、また明るい人当たりのいい笑顔を浮かべて、何でもないことのように言った。

「昨日のお礼、しにきたの。ほら、私熱中症で倒れちゃった、みたいで……保健室に運んでくれたのがみやこちゃんだって、洲崎先生が教えてくれたから」

 わからない。さっきからわからないことばかりだ。お礼ってなんだ。昨日で貸し借りはもう清算したはずなのに。

「……洲崎先生って、誰」

「保健の先生だよ! 保健だよりにいつも名前書いてあるじゃない」

 あれ読んでる人いるんだ……みんな計算用紙に使ってるんだと思ってた。

 いやいや、そんなことよりも元ジャー(略称)ちゃんがお礼をするなんて言い出したことのほうが問題なのだ。職務怠慢の保健教諭はどうでもよくて。私はこれ以上、他人と必要ない関わりを持ちたくない。面倒なことが起きる前に、きっぱりと関係を終わらせなくちゃいけない。

「あのさ……えっと、す、わ、さん」

 詰まる。慣れないことはするもんじゃないってこっちのセリフだって。あの時は名前を呼ぶのなんて何でもないことに思えたけど、実際に眼の前で、本人にそれを聞かれてるのとじゃ大違いだった。

「なに、みやこちゃん?」

 ……ああ、そうだった。まず、何よりも最初にここから直してもらわなくちゃなんだ。早速、嫌な問題にぶち当たって、私はますます憂鬱になった。

「……あの、その名前は、ちょっと」

 我ながら聞き取りづらい話し方で、聞こえるか聞こえないかギリギリくらいに抑えた声で、私は言った。元ジャーちゃんは、それでもちゃんと聞き取ってくれたみたいで、ハッと驚いたような顔をしたけどすぐにそれを気取られないように、穏やかな表情で覆い隠した。ずっと他人を黙って観察してきた私でなきゃ気がつかないような、僅かな変化だったけれど。やっぱりちょっと嫌だなあ、と私は思った。

「……ああ、ごめんね! そうだよね、下の名前で突然呼ばれたら困るよね!」

 わかってくれたみたいでほっとした。そうなのだ。本当に困るのだ。これ以上距離を近付けてしまえば、いずれ問題が起きるに決まってるのだから。

 元ジャーちゃんは少しだけ気落ちしたような、反省したような顔つきをして言う。

「下の名前で呼び合うのは、もう少し仲良くなってからだよね……私たち、まだお話するようになってそんなに経ってないもの。ちょっと私が背伸びしちゃっただけなの、気にしないで」

 全然、わかってなかった。この人、雰囲気を感じる力とか無いのかな。私が薄々拒絶してることは、普通の人なら感じていてもおかしくないと思うんだけど。

「いや、だから、あのね……?」

 私が仕方なくきちんと説明しようとすると、タイミングが悪いことに始業のチャイムが鳴った。席を立っていた有象無象がぞろぞろと自席に帰っていく。例に漏れず元ジャーちゃんも、

「あ、ごめん。時間だからまた昼休みに!」

 とか言って席に戻っていった。ひらひらにこやかに手を振ってくる。かろうじて会釈して見送るけれど、まるで友達にそうしているみたいで、自分がひどく気味悪く思えた。すぐに机の傷に目を戻す。

「はぁ……また昼休みに、じゃないよ……」

 一番後ろの席に座った私のため息は、誰に聞きとがめられることもなく、たくさんの人がいるはずの教室で誰の意識にも留まらない。机に縦横に走った傷を数えるのにもいまいち集中できなくて、私は思わず舌打ちした。

 今度は流石に周りの幾人か、ちらと視線を向けてくる。咳払いして誤魔化して、やがてドアをがらりと開ける音を立てながら、教室に担任が入ってきた。


      ◯


 憂鬱な四時間だった。

 授業内容なんて頭を素通りして、どう昼休みをやり過ごすかばかりに気を取られていた。私はとにかく、あの元ジャー、いや、もうそんな呼び方で呼ぶのも面倒な、まとわりついてくるアレをなんとか引き剝がしたいのである。面倒な人をなんとかするために、また面倒なことを考えなきゃならない。世の中、楽しては生きていけないってことなのかな。

 お礼と言っていたけど、何をしてくれるつもりなんだろう。余計なお世話だというのに。お礼というなら何よりも私から遠ざかってくれるのが一番、私のためになるのに。どうしてそれがわからないんだろう。

 そんなことをグダグダと、恨みがましく考えていたところ、気がつけば午前中の授業は終わっていた。昼休みを告げる予鈴が聞こえて、いよいよ鬱積はクライマックス。声をかけられる前にどこかへ避難するか、いや流石に昼にまた、と言われてしまった手前、黙って姿をくらませるのはまずいか。

「何、落ち込んでんの」

「はっ!? えっ、いや、べつにっ!!」

 不意に話しかけられて驚いて、慌てて声を上げたけれど、顔を確認してほっとした。

「…………なんだ、圭一か」

 私の安堵の声を聴いて、彼はむっと眉宇を顰めた。私の発言が気に入らなかったらしい彼は、空になっていた私の前席──昼休みになると同時に席を立って、群がって食堂に向かったらしい──に抵抗なく腰を下ろすと、不満そうに抗議の声を上げる。

「なんだとはなんだ。お前、メシは?」

「もう食べた」

 私が即答する。圭一は野球部でもないくせに短く坊主というほどじゃないけど刈り上げた頭の後ろに手を回して、わざとらしくため息をついた。

「嘘つけ。机脇の弁当、重いままじゃんか」

「勝手に触らないでよ。私のお弁当あげないからね」

 圭一に持ち上げられたお弁当バッグを奪還する。すると圭一は呆れ気味で言う。

「要らねえよ。俺の持ってきたし」

 そう言って自分の手持ちの菓子パンを見せる。相変わらずの不摂生だ。いつも身体を壊すって言ってるのに、朝はちゃんと食べてるって言って聞かないのだ。

「じゃあ勝手に食べたら。私は食堂で食べるから」

「ちょ、おい……」

 振り切って立ち上がる。適当に行動して、ついでみたいにいま思いついたけど、このまま食堂に行ってしまえばあの人からも逃げられるのだ。まあ、いずれ、というか放課後、またまとわりつかれるのは見えているけれど、それでも束の間ながら昼休みの平穏を保てるのは、私にとって十分魅力的に思えた。

「じゃあね、圭一!」

 と、小走りで食堂に向かおうとすると。

「こんにちは。ごめんね、先生に頼まれた用事を済ませてたら来るのが遅くなっちゃった」

 ──うわ、来た。別に来なくていいのに。

 どうして来なければいいと思うものに限って、忘れずにちゃんと来てしまうのだろう。来てほしいと思っているものは案外、忘れられたりして来ないことさえあるのに。なんか、平安時代の随筆とかに既に書かれていそうだ。それでもなんとか式部は、答えを見つけられていないだろうけど。

「はじめまして。っと、諏訪やしろさんだっけ」

 なんで名前覚えてるんだ。この圭一とかいう男は。

「こちらこそ! 橘圭一くんだよね! よろしく!」

 あんたも知ってるんかい。二人はびしっと手を出し合うと固く握手をした。なんだこの二人。

「えっと、同じクラスだけどこうして話すのは初めてだね。委員長やってるから、名前は知ってもらえてるみたいだけど改めて自己紹介」

 そう言うと小さく咳払いする。えへん、とかそんな感じ。女子かよ。女子だった。

 というかこの人、クラス委員長だったのか。道理で人の仕事を奪ってまでやる女だ。いや、委員長だからといっても働き過ぎだけど。

「諏訪やしろです。諏訪大社のやしろ。本当は社って書くんだけど、そうなるとほんとに人名として読んでもらえなくなっちゃうから、正式なところ以外では、平仮名で書かせてもらってるんだ」

 たいがいどうでもいいことを言い出す。へーとかふーんとかしか言えない。当の圭一も大した反応できないで、黙って頷いている。

「じゃあ俺も、橘圭一です。あまり人には言ってないけどいちおう、寺の息子で……だから他の人には、あまり言ってほしくないんだけど」

「…………へ」

 ちょっと拍子抜けした。それを言うのか、圭一は。ずっと自分の寺生まれをコンプレックスのように感じてきた彼は簡単に人にそれを明かさなかった。況してや会って間もないような人に話すなんてこと、今までじゃありえなかった。どういう風の吹き回しなのか。

「そうなんだ! 話してくれてありがとね、橘くん。それから、もちろん秘密は守るから……大丈夫」

 そうして右手でグーサインを作る。サムズアップ。なんとなく妙に似合っている。眼鏡がきらりと光る。

「秘密ってほど大層なもんじゃないけど……よろしく頼むよ。気持ちがいいもんじゃないからさ」

 圭一もまた後頭部を撫ぜて、なんか軽くはにかんじゃったりしている。なんだこいつ。私はちっとも面白くない。

 なに仲良くなっちゃってんの、と口を挟もうと思って、いや、思いとどまった。この隙に食堂に行こう。しかしそれはやはり、一歩遅かったのだ。

「どうしたの、宮橋さん? 座ったら?」

「…………はい」

 観念して自分の席に戻って、そっと座った。諦めるのもまた、ひとつの選択なのだ。あとはできるだけはやく時が過ぎるように願うばかりである。

「で、諏訪さんは何しにここへ?」

 藪から出た棒でそのまま核心をついた圭一に、私は思わずぎょっとする。しかしまあ、私も聞きたかったことなのでこれ幸いとそのまま聞き流した。

「それがね……なんと、じゃーん!」

「……おお!」

 二人で盛り上がり出したので、仕方なく視線だけちらりと向けると。

「…………何これ。お弁当?」

「そう! よくわかったね宮橋さん」

 いやわかるわ。これを見て時限爆弾を疑う奴がいたらそれは何らかの患者だよ。病院に帰ろう。

 ともあれいつの間にやら勝手に私の机の上に広げた諏訪さんの手荷物は、けっこう大きめの重箱だった。じゃーん、とか言いながら自信満々に開けられただけあって、中には色とりどりの主菜、副菜がぎっしりと詰められている。母親が張り切って作ってきた運動会のためのお弁当よりもともすれば豪華かもしれない。

「これが、お礼なんだ! 昨日、体育で手助けしてもらったときの!」

 そんな単語が出てきて、今までずっと警戒していた単語が不意にまろび出てきて、私は今度こそ拍子抜けしてしまったのである。だから何の気もなくぽろりと言った。

「は……これが、お礼?」

「そう、だけど……足りなかったかな?」

 ちょっと心配そうな顔をされても、むしろきっと食べ切れないくらいの量はある。昼休みだけじゃきっと無理である。それを察したのか圭一が言う。

「十分足りるさ。よければ俺もご相伴に与りたいんだけど、どうかな? この通りパンしかないんだ」

 そう言って自分の菓子パンをまたヒラヒラさせる。私がもっと他に食えって言ってもいつもは無視するくせに、勝手な奴。ほんとに勝手な奴だ。

「もちろん、どうぞ! 私と宮橋さんだけじゃきっと余らせちゃうから、もともとクラスのみんなにお裾分けしようと思ってたんだ」

 その言葉に嫌でも目を開いた。私はじっと見つめて尋ねる。感覚が違いすぎる。

「な……そんな、そんなこと考えてたんだ」

 私にとってはカルチャーショックだった。お弁当を分けるのも与えられるのも、お互いを知らない間柄じゃ絶対にできないし、やりたくない。そんなことを、この人はやろうとしていたのか。正直、平然とそんなことを言えることが、その感覚が心底恐ろしかった。

「みんなで食べたほうが、美味しいじゃない?」

「…………は、ぁ」

 何か言おうと思ったけど、結局口から漏れ出したのは意味を持たない空気だけだった。私は結局、圭一と彼女と一緒にお弁当を食べて、なおかつ彼女が手当たり次第にお菜を配り歩いて交流を深め、しかも実に簡単であるかのように良好な関係を築いていくのを、まざまざと見せつけられたのだった。

 お弁当の味? クラスのみんなには好評だったよ。

 私は……まあ、美味しくないこともなかったかな。

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