第9話 諏訪やしろⅡ

「頼んでもないのに……どうして私なんかに構うの」

 口に出す。届かない言葉でも口に出すことに意味がある。言葉は、必ずしも誰かに向けられたものじゃなくたって、いいはずだから。

「わかんないよ。私なんかの世話焼いたって何もいいことないのに。何もあげられるものなんてないのに」

 恨み言みたいだ、と我ながら思う。そして、それはとことん筋違いなのだ。恨み言ならば、彼女が私に言うべきものであって、私が彼女に言っていいことなんかでは決してない。だから、私は彼女に向けてじゃなくて、誰にも向けない透明な言葉として、こんなことを垂れ流している。とことん小さくて、どこまでもみっともない奴だ。

「私は悪くない……私は悪くない……私のせいで私が怪我するはずだったのに、あなたが──」

 違う、これじゃ本当に彼女に向けた言葉になってしまう。寸前で私は思い止まって、口を噤んだ。

「どうしてなの。私はただ、静かに過ごしたいだけなのに……誰とも関わらずに生きていたいだけなのに」

 クーラーの効いた保健室に響くのは、こんなどうしようもない奴のどうしようもない言い訳であるべきはずもない。自己嫌悪。

 結局、中途半端な奴だ。逃げて逃げて、逃げ切れないまま、つまづいた自分を許せない。自分を正当化できない。それは、自分が正しくないと知っているからだ。そのくせ臆病だから、どうあっても正しくあろうとはできないのだ。

「私は……、私は……」

 何度となく繰り返した、そして失敗した、自己正当化の決まり文句も、もはや何の意味も成さない。私はどうしようもない人間だ。

「気持ち、悪い……」

 私は不意に嘔吐感を覚えて、保健室前の水道を目指して部屋を出た。唐突な吐き気に少しだけ慌てた。

 何度か嘔吐えずいても、喉のつかえをうまく吐き出すことさえ出来なかった。


      ◯


「ふぁ……涼しぃ……」

 彼女を背負ってようやく保健室に入ると、あまりの涼しさに思わず声を上げてしまった。それを聞き咎めてか養護教諭のなんとか先生が近付いてきて、私は事の顛末を極力簡潔に伝えた。彼女はひとまず納得したのか、ひととおり鼻血の処理を済ませると、ジャージちゃんをベッドに寝かせるよう私に言いつけた。

 どうやら私を、ジャージちゃんと仲のいい友達か何かだと勘違いしているらしい。まあ、このまま保健室に連れてきただけで自分は授業に戻るのは忍びないしあえてバレーに戻ってあの教師にしごかれるのもつまらない。このままサボっちゃおうかなんて考えていた私にとってはジャージちゃんの世話を言いつけられたのは僥倖と言えた。しかし、別の理由からこれ以上ジャージちゃんを見ているのは面白くなかった。

 私は、彼女に説教されたのだ。きまりが悪いのは当然だと思う。母親に叱られたばかりの子供のようなものだ。自分でそう例えて、自分の幼稚さに気が付いて嫌になるけれど。

「診る限りは重症じゃなさそうね。打ったのが頭って聞いたから心配してたけど、一度弾かれたボールならそこまで勢いもないでしょうし……倒れた原因は熱中症ってところでしょう。根津先生には女子の授業であまり無理な運動をさせないように何度もお願いしてるんだけどね」

 なんとか先生はそんなことを言っていた。スパルタバレー部顧問は根津先生って言うのか。私は上の空でそれを聞き流しながら、それでもジャージちゃんから目を離せずにいた。

 それから先生は、どうしてもこの時間のうちに備品を整理しなくちゃいけないから、と言って保健室を出て行った。何かあったら倉庫まで来て、とか言い残して。がっかりして、けれど少しだけわくわくした。

 私はベッドにジャージちゃんを横たえて、私自身もベッドの傍の椅子に腰を下ろした。涼しいクーラーの風が定期的に首の後ろを通り抜けるたびに、夏を見返してやったような気分になって心地好かった。

 ふとジャージちゃんに目を向けると、彼女はさっきまでの荒い息からようやく落ち着いたようで、穏やかそうに胸を上下させている。けっこう大きい。正直、羨ましい。

 いや、胸の大きさなんてどうでもよくて、大切なのはとりあえずジャージちゃんの様子が落ち着いたってことだ。ジャージちゃんを見ていると、不意に気が付いた。ジャージジャージと言っていたそのジャージそのものに名前が書いてあるのだ。どうして今まで気が付かなかったんだろう。

 それはいかにも几帳面そうで、しかし女の子らしさもほんの少し感じられる丸みを帯びた文字。油性ペンの太字で書くには少し難しい漢字だけど、「諏訪」と書いてある。平仮名でないあたりがそれっぽい。

 ──それっぽい、なんて。まるで彼女を知っているみたいな、彼女を理解しているとでも言いたげな自分の思考に気が付いて、途端に嫌気がさした。

 自惚れるな。お前は何も知らないじゃないか。

「ん……ぅ……」

 と、彼女が僅かに声を漏らした。眉宇を少しだけ歪めている。嫌な夢でも見ているのかな。額に冷たい汗が浮かんでいるのに気が付いた私は、先生から渡されていたタオルでそれを何度か拭った。

 彼女は、一向に目を覚まさなかった。一時間ほど、適当に時間を潰すつもりで世話を焼いてみたものの、彼女はじっと眠ったまま。二度と目を覚まさないんじゃないかとさえ思えて、私は少し怖くなった。

「……ねえ、諏訪さん」

 戯れに、名前を呼んでみる。それは、届いていなくてもこそばゆくて、私にとっては酷く久し振りの感覚だった。両親や圭一以外の人の名前を呼ぶのなんて、いつ振りだろう。

 ベッドに身を乗り出しての顔をじっと見つめてみた。少し広めの額から筋の通った鼻に、細く揃った睫毛の僅かな水滴が光る。頬に差した丹朱に、草の陰のように薄い群青。その艶にそぐわない幼さを湛えた薄い唇と、短い前髪が気を引いた。

「諏訪さん、起きて」

 何度か声をかけて肩を揺すってみたりもした。しかしそれでも起きない諏訪さんは、相変わらず穏やかに寝息を立てている。

「……呑気なもんだね」

 皮肉ってみる。私がこんなに気を揉んでるのに。当の彼女は御構い無しに眠っているのだ。でも、私がこんなことを言うのは違うって、私が一番知っている。

 ──だんだん、嫌な気分になってきた。


      ◯


 興醒めしたから、教室に帰ろうと思った。そもそも私がここに長居する理由なんてないのだ。無理矢理、保健の先生に世話を押し付けられただけで、しかもそれだって直接頼まれたわけじゃない。なんとなくしなきゃならないような気がして、しばらく気まぐれにやっていただけ。

 初めから義理なんてないし、ましてや義務もあるはずない。私を助けようとしてくれたことだって、この一時間の余計なお世話で十分に返せただろう。

「……あーあ、つまんない」

 口に出して初めて気が付いた。つまらない、って。何を今更、そんなことは今に始まったことじゃない。私は何かに期待していたのか。それとも何かを面白いと思っていたのか。

 それも、どうでもいいことだ。

 教室に戻ってしまえばもう、この人と関わることはないだろう。それこそ二度と、会話するきっかけさえ無いかもしれない。それでいい。それがいい。

 胸焼けするような胃の違和感に胸をさすって、私は保健室を出た。時間割通りなら、教室は数学の授業が始まっているはずだった。


      ◯


「ねえ聞いた? あの話」

「なになに、早く教えてよ」

「A組の芝村がさあ──」

「てか、そんなことより昨日のテレビがね?」

「うわーなにそのアクセ、羨ましい!」

「この前、駅前のモールで買ったんだよねー」

「え、今度教えてよ」

「いいよー、じゃあ一緒に行こう」

「ねーねー次の授業ってなんだっけ?」

「どうでもいーよ、つか昨日のテレビの話聞いてよ」

「体育じゃね? あ、着替えなきゃ」

「やだやだ、マラソンめんどくさ」

「サボっちゃう?」

「ねー、スマホの充電切れちゃった。誰か充電器!」

「てか今日お気にのスニーカーなんですけど」

「なんで体育の日に履いてくるよ」

「うわ、それウケる! 何やってんだよ芝村」

「なんだよー、誰か充電器もってないの」

「知らねーよ自分で持ってこいよ」

「……しょーがないかあ、我慢しよ」

「テキトーに流してればよくね?」

「あーね、どうせ先生もちゃんと見てないし」

「靴汚れないように気をつけて走んなきゃ」

「行かないと遅れちゃうよー」

「あ、待って今行く!」

「走りたくねー」

「グダグダ言ってもしょーがないよ」

「そーだけどさー」

「ねー、それ芝村に言ってやんなよ!」

「えーやだよ、ウチべつに」


 友達じゃないし。


      ◯


 ずっと、気持ち悪い、と思っていた。

 自分と同い年の女の子たちが、固執するようにグループを作って行動することを。彼女たちがみなひとつの群れの歯車として個性を制限されることを。選ばれた一人や二人の強い個性に淘汰されて誰も自分を保っていられないことを。

 どうして誰も、仮面を被りたがるんだ。

 自分の顔を覆い隠したがるんだ。

 人間であろうとしないんだ。

 人と違わない人なんて人間じゃない。大量生産のロボットだ。彼女たちがお互いを呼び合う短くされたあだ名は、互いを識別するのに最適化されたロットナンバーと変わらない。

 みんなちがって、みんないい。耳触りのいい言葉をいくら並べ立てたって、大人が求めているのは子供たちの画一化だ。決められた道徳という手本に沿って、「良い人」と呼ばれる、周囲と、そして自分たちと、まったく同じ人間を作り上げようと躍起になる。

 個性を伸ばせ、独創的な人間になれ、と宣いながら集団の不利益になる個性は平気で圧し潰す。そのありかたがおぞましい。人間工場だ。私たちはみんな、家畜なんだって。

 家畜どうし、ぶうぶう鳴き合うことに意味なんてないから。そう気が付いた。だから、私は口を噤んだ。無意味で無価値で無際限な繰り返しからようやく解放されて、私に残ったのは薄寒い孤独だけだった。

 気持ち悪い。友達なんて必要ない。

 気持ち悪い。人間なんて必要ない。

 気持ち悪い。家畜なんて必要ない。

 気持ち悪い。なにもかも必要ない。

 誰も、私自身を見てくれやしない。

 誰も、自分自身を見ようとしない。

 誰も、一人だけを選んだりしない。

 誰も、一人の孤独に耐えられない。

 私だって、弱かった。だけど気持ち悪かったから。

 求めるのを、期待するのをやめてからは楽だった。私が求めなければ誰も私を求めない。与えられないことが当たり前になれば、与えられない不満も生まれないのだ。これは画期的な転回だった。

 求めよ、さらば与えられん。嘘ばかりつく神様や、大人を蹴っ飛ばして、私は強くなった。

 誰も必要としない私は、誰よりも強いだった。

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