第8話 諏訪やしろⅠ
──初めて、諏訪やしろと出会ったのは、私がまだ高校一年生の時だった。
「体育の球技、何にしたー?」
「あたしソフトボール、そっちは?」
「ソフト! 一緒だねー、グラウンド行こっか」
「暑いし外出たくないね……」
「しょーがないよ、夏なんだし」
「てか終わったらアイス食べない?」
「いいねー! あたしバニラ」
「じゃ、あたしはチョコにしよっと!」
各々に着替えを終えた女の子たちがワイワイと騒ぎながら更衣室を出て行く。私は彼女たちより少し前に自分の着替えを終えていたものの、なんとなく一人で出て行くのを躊躇っていた。ブラウスをたたみ直すのはこれで三回目。我ながら何をしているんだろう、と少しあほらしくなる。
高校に入学してから、私は友達作りに悩んでいた。中学からの付き合いである圭一や、他の同窓生とは変わらず話せるものの、彼らも高校で新しい友達を作るのだ。いつまでも古い友達──私とばかり話しているわけにはいかないのは、ちゃんとわかってるつもり。
新しい友達ができないのは、きっと私が怖がっているからだ。私が避ければ、当然彼女たちも避ける。今まで自分が人見知りするタイプだなんて思わなかったけれど、これは多分人見知りとかそういうものじゃないと思う。要するに、余計なことを考えすぎるのだ。
友達って何だろう。
群れになって馴れ合うのが友達?
本当の自分を圧し殺して同調するのが友達?
友達を作るのって、どうすればいいんだっけ。
「はあ…………」
ともかく、私はどうやら面倒な人間で、自分からうまく友達を作ることができなくなってしまっているらしかった。それがいつからなのか、何が原因なのかは私にもさっぱりわからなくて──気が付けばこんなに捻くれた考えを持て余していたのである。
何度ため息を吐いたって足りない。このままじゃ友達がいない灰色の高校生活だ。まあ別に、バラ色やら虹色やらカラフルでビビッドなのを求めてるわけじゃないけどさ。
私は五回目にたたんだブラウスを前にしてとうとう思考停止した。流石に何度もたたみ直しただけあって折り目はきちんと整って、クリーニングに出したばかりみたいに見える。流石に少しのシワは残っているのだけれど。そろそろアイロンかけなきゃ。
と、どうでもいいことを考え込んでいると。
「そろそろ体育館行かないと遅刻するよ。宮橋さん」
声が聴こえた方へ振り向くと、知らない女の子が話しかけてきていた。彼女は既に指定ジャージをぴっちりと崩さずに着こなして(真っ白い体育着みたいなジャージはダサいと評判で生徒のほとんどが買ったきり着ないのだ。かく言う私も体育の授業が始まって間もないその時ですら、クリーム色のポロシャツで代用していた)まじまじとこっちを見ている。
「あ……どうも」
とかなんとか、申し訳程度に頭を下げて、私は体育館に向かったと思う。その時は彼女の顔なんてちっとも目に入っていなかった。興味がなかったし、なによりその時の私にとっては、クラスメートはみんな似たり寄ったりの同じ顔に見えていたのだから。
馬鹿みたいにじりじりと照りつける太陽が熱したグラウンドと違って、体育館の中はいくらかひんやりとした空気に満ちている。それだけがバレー選択の私たちにとっての唯一の救いだった。
競技を選択してしまった後に判明したことだけど、バレーボール担当の体育教師がこれまたものすごい熱血漢なのである。とにかく苛烈なスパルタ指導で、男子バレー部は毎年退部者も多いらしい。その反面、厳しい練習が実っているのか毎年大会でいい成績を残しているからこそ、学校も顧問の好き勝手な狼藉を黙認しているのかもしれない。
本気でバレーをしたいバレー部員にとってはまったくありがたい先生だということも、先生として純粋にいい人だということもわかっている。しかし、私たち授業でバレーを履修する人にとっては、申し訳ないがバレー部顧問のことは都合が悪かった。何故なら、おおかたのバレー選択者がただ『暑いから外に出たくない』というだけの安易な考えで室内競技のバレーを選んだに違いないからである。
こんなことならいくら地味でも卓球選択にしておくべきだったかもしれない。むしろ屋外競技のソフトボールで日に灼かれながらもぼうっとベースを守っている方がよほどマシだとすら思う。それくらいに先生の指導は厳しかったのだ。屋外競技を選んで太陽の
「ほら足止まってるぞ! まだアップだろう、走り込みはすべての基本だから疎かにするなよ!!」
「ひぃ……ひぃ……」
──まさしく、虫の息だった。
もともと運動の得意ではなかった私は、息も絶え絶えになんとか体育館を二十周回走り終えて体育館の隅にへたり込んだ。と言ってもそうした無様を晒しているのは私に限ったことではなく、運動部ガチ勢以外の生徒はだいたいが荒い息を整えるのに精一杯になっていた。男子の授業ならともかく、女子にアップで二十周も走らせるのは流石に非常識だと思う。女の子はか弱いものだって教わらなかったのかな。
とかなんとか、益体もないことを鬱々と思い巡らせていたら、なんだか聞き覚えのある声が響いた。女子の話し声で騒めく広い体育館にもよく通る声だった。
「先生がアップ終えたらボール出してレシーブ練習始めるようにって! カゴは出しておいたからペアでひとつボール取って、お互いに相手の返しやすい場所へレシーブで返す練習しよう!」
声の主は私と同じ体育館二十周の苦行を越えたはずなのにちっとも息を乱していなかった。よく見れば彼女は更衣室で私に声をかけてきたジャージちゃんで、しかも平然と二十周も走り終えたにしては他の脳筋ガールズと違って肌にシミひとつない真っ白である。あえて焦点を合わせない視界の中に彼女をぼうっと捉えていたら、確か体育委員だったと記憶している女の子が走り寄って、何やら申し訳なさそうにしている。それにも涼しげな顔でにこやかに応えている純白ジャージ。おおかたボールカゴを出す仕事を忘れていて、ジャージちゃんに仕事を奪われたのだろう。どうやらあの、肌と同じ真っ白い体操服を着ているせいで未だに中学生にさえ見える女の子は、今のご時世では貴重な、他人の仕事も率先してこなすタイプらしい。
──いやいや待て待て。
どうして私は見ず知らずの他人に対してこんなにいろいろ考えてるんだろう。こんなこと考えていたって何の役にも立たないじゃないか。
私はひとまず気を取り直して、レシーブ練習のペアとやらを作るために周囲をぐるりと見渡した。
が、しかし。
「しまった……出遅れた」
ジャージちゃんの指示を受けたクラスメートはみなそれぞれに好き勝手ペアを組み、好きな人同士で集まっていた。私はと言えば、たった一人できょろきょりしているばかり。いつもなら適当にペアを作りかねている相手をそれとなく誘って飽くまで不干渉の一時同盟を作るのに、今日は要らない考え事のせいで普段組んでいる、いわゆる
ヤバい、このままじゃ本当に孤立してしまう。
私が慌ててまだ組んでいない人を探そうとしていると、不意に声をかけてくる人がいた。
「ねえ、私と組まない?」
「あ……うん」
助かった、と思って振り向くと、そこにいたのは他でもない、私が孤立しかけた原因を作ってくれたジャージちゃんだった。ちょっと複雑な気持ち。まあ、原因って言っても私が勝手に彼女のことを考えていたら出遅れちゃっただけで、彼女自身には何の非もないんだけど。
ジャージちゃんはいつの間にかカゴからボールを取ってきていて、相変わらずの穏やかな微笑みで私を見ていた。いやそんな目で私を見ないで。
「えっと……やろっか、レシーブ」
視線が気まずくて声をかけると、彼女は小さな声でおっけい、と呟いてボールを放る。私はそれをよく見て控えめにレシーブを合わせた。
渾身のジャンプサーブが閃く。バレー部のなんちゃらさんの順番が回るたびにこの調子だった。他の女子が打つのとは音からして明らかに違う豪速球。
ぺしーん。ぺしーん。ぺしーん。スパーンッ。ぺしーん。ぺしーん。ぺしーん。スパーンッ。
いや、なんちゃらさん本気過ぎでしょ。さっきからサービスエースし続けてるし。得点のほとんどがなんちゃらさんのサーブだし。
準備運動から基礎練習までの諸々を済ませてしまった私たちは、先生の指示に従ってチーム分けをして、短めの模擬試合をすることになった。陽射しを避けてバレーを選択した生徒はやっぱり多くて、全員で三チームもできあがった。中には現役のバレー部員も数人いて、その中でも一際目立っていたのが──
「日村さん、やっぱりすごいね。一年生なのにバレー部じゃレギュラーなんだって」
「へえ……」
とか適当に相槌を打ってから、ようやく私に話しかけてきた人に気がついた。相も変わらずジャージちゃんである。というか、なんちゃらさんは日村さんって名前だったんだ。まあ、クラスメートの名前なんてどうせ覚えないんだから私にはぜんぜん関係ないけど。
日村さんの最後のサーブが綺麗に決まって、圧倒的点差で日村さんのチームが勝った。次は私のいるチームとの対戦らしい。嫌だなあ。面倒臭いなあ。
「行こ、宮橋さん」
「あ、うん」
またジャージちゃんが私に呼びかけた。そういえばどうしてこの人は私の名前なんか知ってるんだろう。それによく考えてみたら、初めて会った更衣室で「体育館に行かなきゃ」なんて言われたけど、これって私がバレー選択だって知ってたってことだよね。
──もしかして、私のストーカー?
いや、流石にないよね。あほらしい。
「……宮橋さん?」
「あーごめん、すぐ行く」
きっと、偶然だ。球技選択の種目なんて教室の背面黒板にも体育研究室前の掲示板にも貼り出してあることで、とくべつ意識しなくても目に入ってくるもの。ジャージちゃんがたまたま私の名前と種目を見かけて覚えていたってほうがよほど自然じゃないか。
疑念を払って、怪訝そうな顔をしているジャージちゃんにおざなりに返事すると、意識を切り替えた。
体育館の隅に座り込んでいた重い腰を持ち上げてコートに入ると、敵側のコートで勝ち残ったなんちゃらさんがすごい迫力で地面にバレーボールを叩きつけている。なにそれドリブル? ドリブルなの? バスケじゃないんだからさ……。
「よし、準備いいか? 試合開始ッ!!」
先生の暑苦しい掛け声があって、それから間を置かずに、例の爆速サーブが私の顔を掠めた。
「……っあ、ぶな……」
まともに声にならなかった……!
瞬間、ボールの風を切る音さえ聞こえた気がする。ビュウッて。というか、こんなに早いんだ。端から見るのとはまるで違う。なんちゃらさんちょっとは手加減してください。
もう名前、思い出せないけど──
「…………っひ!?」
私のふざけた思考を咎めるように、また最高速のサービスが私に当たるか当たらないかのすれすれを通り過ぎた。死ぬかと思った。毎回死ぬかと思ってる。
私のスタートポジションは何故かバックライトで、なんちゃらさんはやけに私を狙ってきているように思えた。初心者なのが見抜かれてるのか、避暑目当てでバレー選択してごめんなさい許してください。
ともあれ、なんとかしてサーブ権を取り戻さないと永遠になんちゃらさんのサービスエースが続くことになる。相手のサーブがことごとく私の方へ飛んできている以上、私がなんとかしてレシーブするしかない。
わかってるんだけど──
「…………ひぃ!」
情けない声しか出ない。こんなの素人に反応できる速度じゃない。チームメートもなんだか諦めムードが漂ってきてるし、このまま負けたって私の責任じゃない、よね? 相手は経験者なんだし、仕方ないよね?
私もとうとう半ば諦めかけて、四度目の本気サーブを待ち受けていた時に──
今まで一度も聞こえなかった音が、誰よりも私の間近で響いたのだ。それは清々しいくらいに高らかで、ぼうっとしかけていた私の意識を一瞬で覚醒させた。ボールが肌と衝突する音だ。
ついさっきまでとんでもない速さで飛んでくる姿しか見たことがなかったバレーボールが、ゆっくりと宙を漂っているのが見える。ボールは弾かれて浮かび上がっているのだ。その軌跡のもとを辿ってみると、目に眩しい真っ白。やっぱり彼女だった。
「……宮橋さんっ、セットアップ!」
「は、はいっ!」
ジャージちゃんは私のポジションより少しだけセンターに寄った場所に突き刺さるサービスに機敏に飛び込んで、ぎりぎりジャンプレシーブしていたのだ。全然気がつかなかったけど、ジャージちゃんのポジションはバックセンター。わたしのすぐ隣だった。
宙を浮かぶボールがいやにゆっくりと見える。私は咄嗟にボールに近寄る、一歩、二歩、三歩、それからネットの方に向かってがむしゃらにトスを上げた。技術があるわけでもない、素人はとにかく高く高く上げるしかないのだ。
奇跡的にネット直前の絶好位置に上がった素人セットアップは、どうやら中学時代にバレー部だったとかなんとか言ってた女の子の手によって、それなりに鋭くアタックされた。現役エースなんちゃらさんには及ばないものの、狙った場所が良かったのか、レシーブのために飛び込んだなんちゃらさんの奮闘空しく、ボールは相手コートに落ちそうになる。
しかし──
「わ……惜しい……」
ボールは間一髪のところで相手チームの知らない子によってギリギリ打ち上げられて、そのままの勢いでなんちゃらさんのアタックに繋がり、私たちにはなす術もなく得点されてしまった。なかなか上手くいかないものだ。
と、つぶやいてから気がつく。なんでこんなに真剣に悔しがってるんだ、私。たかだか授業のバレーの試合なんてどうでもいいことなのに。
バレー部員に勝てないなんて当たり前のことで、素人の私じゃどうやっても太刀打ちできなくて、いくら体力があるらしいジャージちゃんにもきっと無理だ。そんな相手に真剣に挑むこと自体があほらしいことなんだよ。叶うはずのないことを願ったって時間の無駄なのだから。
何かを望んだとして、どんなに努力をしてもそれが与えられなくて悲しむのなら──それならきっと、何も願わないほうがずっと楽なのだから。
私は今まで、ずっと求めてきた。愚かにも、望めばすべてのものが与えられると信じて、ただひたすらにくちばしをあけて母鳥を待っていた。それがどんなに愚かなことだったのか、ようやく気付けたんだ。もう二度と、愚かな自分には戻りたくない。
もう二度と、
「──っちょっと! 危ない!!」
また、間近で音がした。二度目のボールが弾かれる音。ふと顔を上げると、案の定真っ白ジャージちゃんだった。さっきからどうして私に構うんだ。
「……ごめん、ちょっと考え事してて」
言い訳がましく、私はそう言って。
彼女は──思い切り
「ダメでしょう! あなた、ぼうっとしがちなんだからちゃんと気をつけてないと……怪我してからじゃ遅いのよ!?」
「は…………」
正直、呆然とした。
たいした面識もないのにどうしてこんなに真剣に、ある種必死なまでに私に説教しようとしているんだろうか、この子は。ジャージちゃんは本気で怒っている顔をしていて、思わず私もたじろいだ。
「あ、ああ……うん、ごめん」
コートの後半中央から、右端にいる私をじっと見据えて動かない。それでも説教は続く続く。ジャージちゃんはまさしく、説教の鬼と化していたのだ。こんなに
なんで、なんでこの子は私なんかに構って、話しかけて、あまつさえ説教なんてするんだ。私に関わったって何の得もない。もしかすると損があるかもしれないくらいだ。それなのに、どうして──
その時、いままで聞いた音とは明らかに異質な音が響いた。なんちゃらさんがサーブするのとも、ジャージちゃんがレシーブするのとも違う音。
端的に言って、ジャージちゃんがさっき弾いたサーブが、そのまま鉛直投げ上げ的に急上昇して、重力加速度に従順に落ちてきたらしかった。もっと言えば、ジャージちゃんの顔面にボールが激突していた。それはもう凄まじい音だった。
────スパァン!!
「え…………?」
周囲が、凍りついた。そして誰よりも呆気にとられていたのは、さっきまで粛々と説教をしていたジャージちゃんで。彼女は俄かに黙り込んで、口をぽかんと開けていた。見る限り、音の割にはそれほど痛そうというわけでもなく、本人にも現状が理解できていないとか、そういう風な様子だった。
「……? ……?」
頭の上にいくつものはてなマークが見えるみたいな顔をしている。ゆっくり首をかしげる。周りのチームメートも相手のなんちゃらさんまでもがジャージちゃんを心配していた。
「……ごめん、ちょっと頭ぶつけた?」
突然、時間がゆっくりしてしまったみたいで。ようやく彼女から出てきたその言葉に周囲がようやく安心できたかと思ったとき──
「…………あれ?」
つう、っと。彼女の顔へ一条の朱色が鮮やかに──
「わ、わーわー! 鼻血出てるよ!!」
私は思わず声をあげて、それをきっかけにするみたいに、ジャージちゃんはぶっ──倒れた。
ばたーん。
……いや、いやいや、ばたーんて。流石に冗談でしょ。そんな今時ばたーんとか。そんな芸術的に倒れる人いるんですか。いや、まさかね。そんな、あほな。
「……ちょっ、しっかりしてええぇぇぇ!!!」
結局、私はジャージちゃんを背負って、汗だくになりながら保健室に向かわなければならなかった。頼んでなんかないとは言え、私のために怪我してしまったジャージちゃんを放っておくようなことは、流石に私にもできなかった。
校舎に繋がる渡り廊下を、女の子を抱えてひぃこら言いながら通るあいだも、鳴き止みそうもないセミの断末魔が、夏の昼下がりを喧しく騒ぎ立てていた。
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