第7話 仁義なきふわふわ女子会
じゅわっ。
フライパンの上で野菜が焼ける小気味好い音が耳を刺激して、私は不意に我に返った。
キッチンからは絶えず動き回る女の子の足音が忙しく聴こえてくるし、肉や野菜の香ばしい匂いと程なくして漂ってくるトマトケチャップの酸い香りが鼻腔をくすぐる。
美味しそうな匂いを感じるたびに空腹感はいっそう強くなり、私はじっと食卓についてお腹を押さえていた。別にお腹が鳴らないようにとかそういう意図があるわけでもなかったけど、なんとなくそうしていると落ち着いたから。
本当なら私もキッチンに立って彼女の料理を手伝うべきなんだろうと思う。けれど、それは今の私には許されていなかった。私は彼女から座って待っているようにと前もって釘を刺されていたのだ。
「宮橋さん大丈夫? お腹空いたでしょ、もうお昼近いもんね。あと少しで出来るからちょっとだけ待っててね」
「うん、大丈夫。ご馳走になるだけでも十分ありがたいから、手伝えなくてごめんね」
私が思わず申し訳なさに謝罪すると、見えないけれどきっと彼女はしかめ面をしているのだろうなあとわかってしまうような声。
「謝らないの。私は謝られたくて宮橋さんのためにご飯を作っているんじゃありませんからね」
「あ……ありがとう」
「どういたしまして。みんな困ったときはお互い様、ってよく言うでしょう?」
確かに世の中はお互い様でできてるのかもしれないけれど、とりわけ彼女にとってはそうではないと私は思う。なにしろ彼女が自分から誰かを頼るところを、私は一度たりとも見たことがないのだから。
──どうしてこうなったんだっけ。
まだしばらくかかりそうな彼女の食事の準備を待つ間、私はここに至る経緯を少しだけ思い返すことにした。
◯
これまでの人生でもこれからの人生でも、およそたった一度きりになるであろう経験というのは、たとえどんなことであったとしても、妙な感動をもって迎えられるものなのだなあと、その時の私は実に奇妙な感嘆に満ちた心境で、どこまでも呑気に考えていた。
来ちゃった、なんて言って誰かが家を訪ねてくるなんて経験はちょっとレアだよね。
朝起きて寝坊して、本当は寝坊してなくて、ご飯食べようとしたら何にも食べるものがなくて、空腹に耐えかねて餓死するかというところに、颯爽と現れた真っ白もふもふコートの
ぼうっとくだらないことを考えているうちに、その貴重な経験を私にもたらしてくれた張本人であるところの諏訪やしろさんは、両手に携えたビニール袋をがさごそ言わせてブーツを脱いだ。真っ白い外套とコントラストに黒い革で作られたくるぶしより少し上ぐらいのショートブーツで、白基調のふわっとした服全体のイメージをほどよく締めてバランスを取っている。
「とりあえず冷蔵庫借りるね」
そう無造作に言い放った彼女は、自分の家であるかのように勝手知ったるさまで私の家の廊下をずんずん進んでリビングに着くと、隣にある目当てのキッチンに入って冷蔵庫にビニール袋の中身を移し始めた。
慌ててついて回る私は何が何だかわからず、混乱を極める思考は一周回ってある意味冷静。
「あの、あのあの、諏訪さんどうして……」
「あ、言い忘れてたっ」
冷蔵庫を忘れずにぴしっと閉めて振り返った彼女はちょっとお茶目な表情で、どうしてこんなところで無駄に愛嬌を発揮してくれるんだろうこの人は、と私は思わずため息をつきそうになった。
「お見舞いに来たんだ。宮橋さんの」
「私の…………」
一瞬、どうして私のお見舞いなんかするんだろう、別に具合も悪くないのに、と思ってから、そういえば昨日は風邪で寝込んでいたことを思い出す。付随して襲ってくるいろんな感情はシャットアウト。二度目だからもう慣れた。
「なに食べたい? だいたいのものは揃えてきたからリクエストに応える用意はあるよ」
「え、ご飯作ってくれるの?」
「もちろん。何のために来たと思ってるの、私は宮橋さんの体調がまだ悪いようだったら看病しようと思って来たの」
「あ、ありがとう……けどもう体は大丈夫だし」
「遠慮しない。相手の好意に甘えるっていうのも、時には大事なことなのよ?」
言い聞かせるような口調で言った諏訪さんは冷蔵庫に物を移し終えたのか、リビングで立ち尽くしていた私のところへ戻ってくると簡潔に、ひとつの選択を求めてきた。それは彼女らしくもない意地悪な質問で、それでも私のためにわざと意地悪になっているのだとわかってしまう。
「私にご飯作らせないなら、食材は全部持って帰る。私の料理を食べてくれるなら静かにテレビでも観て待っててくれるかな?」
「…………おねがいします」
「よろしい」
家に食材が一切ないうえに、限界近い空腹を抱えている私にとって、その優しい脅迫は何よりも効いた。
「それじゃあ改めてもう一度訊くけれどね、宮橋さんはなにが食べたい?」
「うーん……」
そう言われても、はっきり言って女の子の友達に手料理のリクエストをするなんて初めてだから、どんなものをお願いしたらいいのかわからない。私はとりあえずの精神で無難な選択を試みる。
「えっと、諏訪さんのおすすめは?」
「なんでもそれなりに作れるけど……」
それはそうでしょう。諏訪さんにできないことがあるほうが、私は驚くだろうと思う。
「この前、お兄ちゃんにご馳走した時に褒められたのはオムライスだったかな」
オムライスかあ。諏訪さんはなんとなく和食のイメージだったけれど、オムライスと聞くと諏訪さんに似合っているような気がする。ふわふわな卵とか──
「って、お兄ちゃん!?」
「え? なに?」
私が思わず声を高くすると、諏訪さんは驚いて目を丸くしている。それでも私は問い直さずにはいられなかった。
「諏訪さん、もしかして妹なの!?」
「え……そうだけど、言ってなかったっけ?」
「ずっと一人っ子だと……いたとしても弟妹じゃないかと思ってた……」
だってこれだけ出来上がった人なのだ。普通は次女とか妹とかって上の子に甘えたり頼ったりしてあまりしっかりした子になるイメージはないと思う。諏訪さんは間違いなく一人っ子で両親から厳格な教育を受けたか、あるいは下の子の一人や二人の面倒をみてあげていると思えるくらいのしっかり者だ。
「大学生のお兄ちゃん、今は東京の大学に通うために一人暮らししてるの。勉強は私なんかより遥かにできるんだけど、家事の類がまるでダメでね? たまに私が部屋の掃除とか、栄養あるもの食べさせてあげなさいってお母さんに言われてるのよ」
「えっ、諏訪さんより勉強できるって……」
そもそも諏訪さんの成績は、入学してからずっと学年トップから外れたことがない。そんな子よりも勉強できるってことは──
「お兄ちゃんのことは誇らしいよ。東京大学の医学部なんてお母さんも、お父さんですら喜んでたもの」
「すごい……東大の、しかも医学部かあ……」
この兄にしてこの妹あり、ってことなのかな。お兄さんのことを話す諏訪さんの表情は本人の言の通りどこか誇らしげで、どんな時の彼女と比べても一番というくらいに、とても嬉しそうだった。
「……そっか、諏訪さんはお兄さんが好きなんだね」
私は仲のいい兄妹を想像して尋ねる。お兄さんのことは知らなかったけど、諏訪さんの兄なのだからきっといい人なんだろうと思う。
諏訪さんは私の質問には答えずに、そのままただ微笑んで私を見ていた。
──ぐぎゅるるるるぅ。
その音に一瞬二人とも固まって、遅れて私の顔がにわかに熱くなった。さあっと血の気が昇る感じがして急いでうつむいて、息も絶え絶えに弁明する。
「わ……ごめん……私……」
まさかピークを迎えた空腹がよりにもよってこんなところで最大級にお腹を鳴らしてくるなんて──
羞恥心に穴があったら入りたい気持ちになっていると諏訪さんは唐突に噴き出して、
「ふっ……ふは……あははは! ごめん、お腹空いたもんね? くふ、ふっ……オムライスでいいよね」
私は熱くなった顔をおさえて頷くことしかできなかった。それから諏訪さんはさっきのお腹の音が忘れられないのかくすくす笑いながら(私が抗議すると謝るものの笑いは堪えられないようだった)さっとエプロンをつけてキッチンに戻っていく。私はお腹をおさえたままダイニングの木製テーブルについて椅子に座り込んだ。
こうして、しばらく諏訪さんのたてる心地いい料理の音を聴きながら、テレビも点けずにぼうっと座っていると、気付けばここに至ったというわけ。
そんなあれやこれやの経緯を思い出しているうちに諏訪さんは料理のあらかたを終えてしまったようで、テーブルにみずみずしい青野菜とミニトマトの飾られたサラダボウルと、炊きたてのご飯が盛られた深皿を運んできてくれる。初めは普通のご飯かと思ったけれどよく見るとほんのりと色づいており、なおかつほのかにいい香りがする。どこかで嗅いだことのある
気になった私が顔を少し近づけてすんすんやっていると諏訪さんが笑顔で応えてくれる。
「ローリエとバターで炊いたの。冷蔵庫にバターがあったから、せっかくオムライスを作るならと思ってちょっと探したらローリエが見つかって。使っても構わなかった? なんなら後で買い足しておくけど」
「大丈夫大丈夫! うちの母親は全然凝った料理とかしないんだ。だから気がつかないと思う」
「ふうん、でもそれならどうしてローリエなんて。けっこうこんなのはあるお家少ないと思うけど」
「それは多分お父さんの。お父さん料理が趣味だから、うちの調味料なんかはみんなお父さんが揃えたの」
それを聞くと諏訪さんは驚いたような顔をする。
「そっか……お父さんが料理なんてすごいね」
「そうかな? まあ確かに、好きが高じてたまにすごいこだわった料理を作ってくれたりするけど」
「……ううん、うちは男が台所に立つなんてありえない、みたいな家庭だから」
「へえ……私はそっちのほうがすごいと思う」
今度は私のほうが驚いてしまった。なんとなくドラマやなんかでそういう家があることは知っていたけれど、実際に聞かされると自分の父とのギャップもあって戸惑う。
「まあ、私の家のことはいいんだ。ちょっと待っててね。肝心のオムレツを持ってくるからっ」
心なしか沈んでいた諏訪さんの声がまた明るくなって、彼女はたったか軽やかな足取りでキッチンに向かうとすぐにフライパンを持ってくる。
フライパンの上には──黄金色に輝くオムレツ。
「うわあ、美味しそう……!!」
「ふふんっ。まだまだこれから、だよ?」
諏訪さんはフライパンの上から金の太陽を皿にそっと移していく。バターライスの上に載ると柔らかくて大きなオムレツがふわりと揺れた。
諏訪さんはフライパンを置きにもう一度キッチンに戻るとついでに包丁を持ってきた。私の目の前で彼女はふわふわのオムレツにすうっと切り込みを入れる。
これは噂の──
「うわ、わ、わわ……」
綺麗に半熟の黄身がとろりと流れ出して、めくれたふわふわのオムレツがバターライスを余すところなく包み込む。テレビのグルメ番組やらで目にするオムライスに些かも劣らない見事なふわとろ加減だった。
気付けば諏訪さんはまたキッチンから別の小鍋を持ってきている。今度は何かと身構えていたら、小鍋に入っていたのは真っ赤なソース。ごろごろと形が残って見えるのはたぶんトマト──
「ホールトマトの缶詰もあったから、トマトソースも手作りしてみましたっ。せっかくこだわるならケチャップじゃもったいないと思ってね」
「すごい……すごいよ!」
トマトソースはぐつぐつ煮詰められてとろとろに柔らかくなっている。それを彼女はたっぷりとオムライスの上に回しかけた。
「……はい、できあがりっ」
「うわああぁ、ねえ、食べてもいい?」
「もちろん! いま食器持ってくるね」
諏訪さんに手渡されたスプーンでオムレツを割ってライスとソースを一緒にすくう。とろとろの卵がスプーンの上をなめらかに滑ってゆく。
夢中でスプーンを口に運ぶと、まず香ったのはトマトソースのパンチの効いた味だった。たぶんニンニクのペーストが入っていて、ぼやけがちな手作りトマトソースの味をしっかり締めてくれている。
それからバターライスの爽やかな香り。ローリエの葉から染み出した清涼感はバターライスのこってりした味をしつこすぎないように調えてくれている。
そして、卵の甘み。ふわっとした柔らかさと、とろりと溶ける半熟の舌触りがたまらない。オムレツには黒糖が入っているのか独特の甘みと香りがいいアクセントになっていた。
まあグルメリポーターみたいにいろんなことを考えてみたけど要するに──
「めちゃくちゃ美味しい……!!」
「よかったあ、喜んでもらえて」
私が一口を噛み締めて喜びを表明すると諏訪さんも嬉しそうに笑ってくれる。こんな美味しい料理をいつもご馳走になれるお兄さんは、さぞかし幸せ者だなあとしみじみ思った。
それから諏訪さんも自分のぶんのオムライスを盛り付けて二人でお昼ご飯にした。一口ひとくち大事に食べて食べ終わる頃には、時計の針は十三時を過ぎていた。そのあとは流石に手伝いくらいはと私もキッチンに立って洗い物を二人で済ませた。諏訪さんの手際は本当に良くて、そこそこやっているほうだと思っていた私よりも仕事が遥かに早かった。
食事を終えた私たちは、そのまま済し崩し的に場所をリビングのソファーに移して、女の子特有の秘密めいたおしゃべり、いわゆる女子会にもつれ込んだのである。
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