The Maiden Snow
第6話 Snow covers
貪るような
息が続くかぎり噛みつくように唇を求めて、苦しくなって舌を舐って窒息に喘ぐ。このまま続けていては頭がおかしくなってしまうと思った。それでも彼女の唾液はとろけるくらい甘くて、脳を揺さぶる快楽が私を捕まえて離さなかった。
真っ暗な部屋のベッドの上だった。彼女の顔は暗がりに隠れて見えなくて、彼女と私は横になって向かい合っている。私は誰と口づけているのかわからない。それでも目の前の彼女がたまらなく愛おしくて、不可解な愛情に戸惑いすら感じなかった。
じゅるじゅると音を立てて彼女が私の舌から唾液を吸い上げる。私はされるがままに口内を蹂躙されて、身体中を駆け回る雷みたいな快感に震えがとまらなかった。
──キスがこんなに気持ちいいものだなんて、想像したこともなかった。
嘘だ。私だって一度くらいは、恋人とキスをする妄想をしたこともある。それでも、自分で想像したよりも人に聞かされたよりも、よほどこの快楽は激しくて、残酷で、甘美で、耐え難いものだった。
こんなの、ずるい。誰も私にこんなこと教えてくれなかったじゃない。
ただお互いがお互いを気持ちよくさせようとする、それだけの繋がり。それなのに深くて、重くて、固くて、切り離せない太い繋がり。
それがどんなことよりも心地よくて、私はいつまでも彼女の体に溺れていたいと思った。彼女は海で、キスは航海だ。広大で深遠な彼女に深くふかく潜り込んで、私はたからものを探している。そうしてそのうちに海のほうも、たったひとり身ひとつで大海に挑む愚か者を嘲笑うように、強い荒波で私を揉みくちゃにするのだ。これは私と彼女の戦いなのかもしれない。
彼女の嫋やかな手が私の秘所にゆっくりと伸びる。指は下腹部をさわさわと張って行って、ぞおっとするような快感の波が私を襲った。私は驚きにはっと息をついて、それから強く彼女を抱き締めた。それは恐怖だったのかもしれないし、喜びだったのかもしれない。けれど彼女はひどく嫌がって私の手を振りほどく。
彼女は私の手首を握って、ベッドの上で私を押さえつけるように上になった。彼女は仰向けになっている私の顔をじっと見つめているのに、影はいっそうに濃くなってなおさら彼女の顔を隠している。
私がキスをせがむと、彼女はゆっくりとかぶりを振った。どうしてしてくれないの、と訊こうとして、すぐに言葉を失った。
頬に落ちてくる。水、水、水。
ぽつりぽつりと肌に感じる冷たさは嘘みたいで、彼女はどうしてか泣いていたのだ。苦しい嗚咽も息遣いもない、ひどく静かな涙だった。
──また、だ。また──また彼女は──
私は泣いてほしくなかったのだ。私はただ、彼女に笑っていてほしかった。この気持ちが何なのか、今の私にはわからないけれど。
それから思考は海を浮上する。ゆっくりと、静かに高度を上げてゆく。水の抵抗はやがてどこまでも軽くなって、空の果てまでも飛んで行けそうな気がした。
◯
普段は起き抜けにろくに目があかないほど朝に弱い私にとって、稀にみる気分のいい目覚めだった。
春眠暁を覚えずというけれど、冬の朝ほど布団から出られないものはないと思う。今日も例外でなくて、私は布団の中で寒さに凍えながら、じわじわと自分の頭が覚醒していくのを感じていた。
「あれ……なんで……」
目尻に涙がこぼれている。どうして──変な夢でもみたのかな。寝起きにあくびでもしたのかな。
昨日は──何をしていたんだっけ。
毎日同じことの繰り返しで、退屈なのはいつも一緒だけれど、それにしてはあまりにも、昨日のことは記憶が曖昧だった。そもそも私には、昨晩に自分が今いるベッドに潜り込んだ記憶さえも、どうやら見つからないようだった。
「う……
考えごとをしていたら、頭に残った頭痛がわずかに刺すような痛みをくれた。寝過ぎたのかもしれない。そうだ、昨日は風邪で寝込んでいたんだっけ──。
そのひとつを思い出して、そこから連鎖するようにいくつもの記憶が鮮明に蘇る。あまりのショックに私は布団をはねのけて跳び起きた。私は何をして──何をされて──
「ていうか! やばい!? もしかして遅刻!?」
跳ね起きた拍子に時計が目に飛び込んできて、第二のショックが私を襲った。時刻は──八時十五分。
冷静に考えて、ホームルームまであと十五分、学校まではどんなに急いでも三十分はかかる。これは──
「遅刻だ……!!」
と、思った瞬間に私はとりあえず、思考を全部頭の端の方に追いやって、ついでにベッドの上の布団を向こう側にけっとばして、寒さに震えながら急いでベッドから降りた。
ギリギリ間に合うかもしれない、間に合わなくてもなるだけ早く着いたほうがいい。
私はとにかく急いでいて、制服を引っ掴む勢いでハンガーが飛んでいくのにも構わず、パジャマを脱ぎ散らかしてベッドの上がぐちゃぐちゃになるのも気にせずに、どっちからほどけばいいかわからなくなるくらいにマフラーをぐるぐる巻きにして、人生における最速タイムを更新してしまうくらいの速さで着替えた。
部屋を飛び出して廊下をすっ飛んでリビングに出るとテーブルには何やらメモ書きが残されていたけれど、そんなものに構っている暇はない。朝食も残しておいてくれない母に、恨み言のひとつでも言いたくなるけれど、それも今すべきことではない。
朝ご飯はこの際我慢するしかないけど、お昼ご飯は購買で買えばいいし──とりあえず家を出よう。私は玄関のドアを勢いよく掴むと思い切り押し開ける。
──視界に飛び込んできたのは、目を疑いたくなるくらいに真っ白い風景。
「……さっっっむううぅぅぅ……!!」
それから一瞬遅れて喉の奥からがくがく震えた声が滲み出てきて、思わずばったりとドアを閉める。
「なに……いまの……」
肩を抱いてふるふると寒さに凍えながら、玄関からリビングに引き返す。今の白いのは何──家の外が一面どこまでも真っ白くて、何も見えなかった。
慌ててリビングに戻って、ベランダに続く窓のカーテンをこわごわと引き開けた。そこには──
「雪、だ…………」
風が強いわけじゃないのに、それでも景色を遮るくらいの大粒の雪たちが目の前を埋めている。神様の手違いで空の色を塗り間違えてしまったみたいに、見渡す限りどこまでもが真っ白い世界だった。
私はひとつため息をつくと、とりあえず食卓の席にとすんと座ってエアコンをつける。いくらまだ積もっていなくてもこの雪の中じゃ危なくて走れない。確実に間に合わない以上は、安全にゆっくり登校するしかないのだ。それに、雪を言い訳にすればなんとか寝坊も誤魔化せるかもしれない。
大きな木目調のダイニングテーブルについてひと息つくと、先ほど目に入ったメモが見える。おそらくは帰りが遅くなる旨の母のメモだろうけど、念のため目を通すことにした。
『京へ。仕事に行ってきます。起きてまだ体調が悪かったら、雪の中だから病院には行かずに母さんの寝室の棚にある市販薬を飲んでゆっくり寝ること。京が風邪ひいたって聞いて大阪の父さんも心配してたわ。祝日だからって病み上がりなんだから、一日安静にしてなさい。母より』
「えっ……祝、日……?」
思わず二度見した。慌ててそばにある卓上カレンダーを見て今日の日付を確認する──までもなく、本日の日付が赤い色で印字されているのは、容易に確認できた。
──今日はすっきり起きたと思っていたけれど、結局はいつものとおり寝ぼけていたというわけだ。
「うわあ……今日学校お休みじゃん……」
思い切り大きなため息が出た。単身赴任中のお父さんにまで心配されるなんて。緊迫していた雰囲気が一気に弛緩してどっと疲れが出てくる。体の疲れよりも気疲れのほうがどうやら重い。
苦心して首のマフラーをようやく外してしまうと、私は効き始めた暖房の恩恵をたっぷり実感しながら、しばらく窓の外を眺めた。
ベランダは庇で覆われているので直接に雪は入ってこないけれど、時折緩く風が吹くとたくさんの雪の結晶がふわふわ運ばれてきて、いくつかが窓にくっついて部屋の中の暖かい空気に溶かされていく。
それを眺めていると、大粒の結露に曇りつつあるガラス窓みたいに、なんとなくぼんやりとした気持ちになっていく気がした。
純白のカーテンに影写されるのは、昨日のこと。橘圭一のこと。そして、朝比奈瑠璃のこと。大部分を占めているのは彼女のことだった。私は熱くなった息を吐き出して、ゆっくりと唇に手をやって、自分の体じゃないみたいに指で優しくなぞってみて──
「ファーストキス、だったのに……」
なんて、口に出してみて初めて、その台詞の気恥ずかしさが燃え上がるように顔を熱くする。私は途端に立ち上がって、制服のままソファに飛び込んでクッションに顔を押しつけて押し殺した声で叫んだ。
「〜〜〜っ! なに言ってるの……私は……ぁ!」
私は火照った顔と身体を冷ますのに、しばらくの時間を必要とした。それから朝比奈さんの言葉をもう一度思い出す。そうだ、彼女は私に謝ったんだ。
『
深い水底からの音みたいに鈍い響きをもって、朝比奈瑠璃の言葉が蘇る。
『……
私には朝比奈さんがどうして謝ったのか、いくら考えてもわからなかった。無理やりキス──口移しをしたこと? それとも、彼女には他に申し訳なく思うようなことがあったのだろうか。
彼女は泣いていた。泣いていたのだ。それが私にとってもたまらなく悲しいことで、彼女の泣き顔を見ていることが何よりも辛いことに思えた。
彼女はどうしてあんなに悲しい顔をしていたのか。私はどうして、それを見て泣いたのか──
「あー……だめだめ、日が暮れちゃうよ!」
こんなことを考えていても埒があかないのだ。私はさしあたって、今日をどう過ごすか考えなければならない。体調は幸い快復した。とりあえずは──
ぎゅるるる、とお腹が鳴いた。
「…………よし、まずはご飯だ」
すっくとソファーを立ち上がって、私はテーブルの上のメモを裏返す。
『P.S.ご飯は適当に作って食べて。ごめんね☆』
「お母さん〜〜〜っ!」
改めて恨めしい気持ちになった。私は仕方なくキッチンに向かって食材を確認する。冷蔵庫を開けてありとあらゆる食べ物を──食べ物、を?
「あれ……何も……ない……?」
もう一度見てみるも何もそもそも冷蔵庫には何も入っていない。確認するまでもなかった。扉を開け閉めする私を出迎えるのは、申し訳なさそうな無くなりかけのサラダドレッシングだけだった。ゆっくり冷蔵庫を閉めて、振り返って窓の外を見た。依然雪は降りっぱなしである。
──この親にしてこの子あり、ということなのか。食材を買い忘れ、雪の中で買い物に行けない状態の家に娘をひとり放置する。
ぐぎゅるるる。もうわかったから静かにしてて!
「どうしよう……何か食べないと死んじゃう……」
そういえば昨日は夜ご飯を食べていないのだ。ずっと寝ていたせいで昼から何も食べていない。そんな状態でこのまま何も食べずに過ごしていたら間違いなく餓死してしまう。
誰か助けて、と心の中で願いをかけた瞬間。
──ぴんぽーん、と呼び出し音が鳴った。私は玄関に駆け寄る。もしかして買い出しを忘れたことに気がついた母が食材を届けに来てくれたのかも。
疑いなく、無用心なまでにすんなりと玄関のドアを開けた私は、目の前に現れた予想外の人物に驚くことになった。
「────来ちゃった」
「…………はあ?」
思わず、反応が十秒ほど遅れてしまった。慌てて訊き返すけれど、何が何だかわからなかった。それは向こうも同じらしく、結局質問を返してくる。
「あ、あれ? お友達の家を訪ねる時って、こういうセリフを言うんじゃなかったっけ? 私、あんまりお友達の家に招かれたことがないから……何か間違っていたらごめんなさい。……ああ、やっぱり不慣れなことはするんじゃなかった」
彼女は両手にぱんぱんに膨れたビニール袋を提げて真っ白いもふもふのフェイクファーコートを羽織って心配そうな目で私を見ていた。彼女の私服姿を見るのは初めてだった。意外でありながらも、それでも彼女らしいと思えるようなかわいらしい私服だった。
「……えーと、おはよう宮橋さん? 体調はもう、大丈夫なのかな?」
そこにいたのは、私たちの頼れるクラス委員長であるところの、かわいいもの好きの隠れもふナーであるところの、諏訪やしろさんだったのである。
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