第5話 嘘つきふたり

 既に陽が落ちて、真っ暗闇になった校舎の中に、ぽつんとひとつだけ、煌々と輝く電灯が照らす教室。そこにはたった一人の人影が、黙々と机に向かってペンを走らせていた。

 それを目にしたは、一瞬の躊躇のように足を止め、しかしすぐに再び歩き出す。教室のドアの前にたどり着くと、先ほどの様子から想像できない、躊躇いのない勢いで、胸に秘められた決心が窺えるような勢いで、彼女はがらりとドアを開けた。

 教室の中にいたひとりは、その決然とした音に顔を上げて振り返って、すぐに意外そうな顔をして呼びかけた。どことなく怪訝な声。とはいえ、それも仕方のないことだろう。今までの彼と彼女に、およそ面識と呼べるようなものは、何もなかった。なにしろ、彼女はそういう表面上のつきあいを、極力避けてきたのだから。

「なんだよ、珍しい。俺に用か? ……朝比奈」

 橘圭一はごく自然に、朝比奈瑠璃にそう尋ねた。しかし彼女はその質問には答えずに、却って自分の質問を重ねた。

「何をしているの?」

「あー、これな。まあ、面倒な仕事だよ」

 彼女が彼の手元に目をやると、青いバインダーに綴じられた大きめの書類がある。それから彼女は当惑の様子で教室の前にある黒板に注視して、それでも満足しないためにもう一度、彼に向かって問い直した。

「どうして、あなたが?」

「どうしてって……」

 黒板には、二人とも知っている生徒の名前が書いてある。その名前は、いま彼がしている仕事を本来しなければならない人の名前であり、風邪で早退したことによって仕事ができなくなった人の名前だった。

「仕方ないだろ。日直の仕事は、誰かが代わりにやらなきゃならないことなんだし」

「……いいえ、違う。本当なら、早退した日直の仕事はクラス委員長の仕事のはずだわ。前に誰かが休んだときだってそうだった」

 彼女がそれを言うと、彼は少しだけ怯むように口をつぐんだ。彼女にとって、彼の気持ちの如何は薄々のうちに窺い知れるものだったが、彼女にはどうしても彼の言葉で確認したいという気持ちがあった。それから、確認しないことには信じたくないという気持ちもあったのだろう。彼女らしくない、まくし立てるような口調だった。

「ましてや諏訪さんなら、仕事を他人に押し付けるような真似は絶対にしない。……もう一度訊くけれど、あなたはどうして、宮橋さんの代わりに仕事をしているの?」

 数十秒の沈黙。それは彼の驚きだった。

「……お前、そんなふうに、喋るんだ」

 彼が静かにそう言って彼女は、はっとしたように唇を結ぶ。彼も彼女もそれきり黙って、しばらく目も合わせずにじっとしていた。

 沈黙を破ったのは彼だった。

「……俺が頼んで、代わってもらった」

「なぜ?」

 間髪を入れずに彼女は追及する。彼のそれが罪であるかのように。

 睨むような冷たい視線だった。彼はしばらく言い淀んでいる様子だったが、観念したように話し始める。

「……自己満足だ」

 そんな言葉は、彼女にとって予想の範疇であったけれど、彼の取り得る言葉の中では最も、誠実で本当に近い言葉だと彼女には思えた。

「俺がやりたいからやってる。それだけだ」

 それは半ば告白と変わらない言葉だった。それだけで彼女にとって、はっきりと答えを与えられたようなものだった。しかし彼は駄目押しをするように言葉を続ける。

「俺はあいつのために何でもしてやりたいんだ。あいつのために何かできることが、嬉しいんだよ」

 彼は噛みしめるように言葉を吐き出していた。自分の気持ちをひとつひとつ確かめるように、その意味をじっくりと読み返すように。

「本当は力になれていなくたって、余計なお世話だっていいんだ。

「そんな勝手なこと……!」

 その言葉に、彼女は憤らずにはいられなかった。

「勝手だよ。人間なんてのはみんな勝手だ」

 しかし彼は彼女の言葉を遮って重ねる。彼はそういう言葉使いをよくする人間だった。それは幼馴染の宮橋京にとってはよく知れたことだが、朝比奈瑠璃にとっては知る由もないことだった。

 彼女はしばらく目を伏せて口を閉じていたが、それは当然に承認を意味するものではなく、怒りを堪えるための苦悶の沈黙だった。

 しかし、彼女が彼に反論すれば、彼の核心にある嘘を指摘してしまえば、それがどういうことになるのかも、彼女にはわかっていた。

 それでも彼女は言わなければならなかったのだ。言わずにはいられなかったし、言うことが他でもない宮橋京のためだと思ったのだ。

「あなたは、嘘をついてる」

 そう言った。途端に橘圭一は嚙みつく。

「嘘じゃない。俺は今までのままでいい」

「嘘」

「嘘じゃない!」

 不意に声を荒げられて、彼女は肩を震わせて怯む。彼は後悔するように眉を歪めて、静かにごめんと謝った。それから落ち着くためにひとつ息をついて、再び話し始める。

「……俺はあいつとずっと一緒にいられない。やりたいことがあるんだ。大学で、離れなきゃならない」

「それで……諦めるの? 自分の、気持ちを」

 彼女の言葉に彼は、はっとしたような顔になる。それから呆れたような半笑いで言った。

「諏訪さんにも言われたよ、それ。……あの人、わざわざ俺が提出した進路希望調査を引っ張ってきて、俺の前に見せつけてさ。まったく、面倒見と察しが良すぎるのも大概だよな……はは」

 力無い笑い声だった。しぼむように、さらに力を失って彼は続ける。

「でもいいんだ、俺はこれで満足なんだよ」

 彼女は、彼に自分と同じものを見ていたのかもしれなかった。自分の後悔と苦しみとを、重ね合わせてしまっていたのだ。

 彼が自分に言い聞かせていることは、彼女が自分に言い聞かせているのと同じことだ。だからこそ、それが嘘だとわかる。彼女にはわかってしまう。

 彼女にとっては、それが何より辛かった。

「──やっぱり、あなたは嘘をついてる」

「だから俺は……!」

 彼はもう一度、反論しようとする。けれどそれよりも早く彼女は言葉を放った。

 そのときの彼は、思い切り頭を殴りつけられたような心地だった。彼女の言葉はひどく重くて、わけがわからないほどに悲しかった。誰よりもそれを理解しているのは彼女だったから。

「あなたは、あなた自身に嘘をついてるんだ」

 橘圭一は何も言えなかった。彼女はこれ以上の言葉を惜しんでいたが、必死で自分を絞り出す。

「嘘はけっして罪じゃないけれど、きっとあなたはいつか後悔する」

 その言葉は彼女にとって諸刃の剣だ。自分を傷つけてまで彼女は、彼の本当の心を引きずりだそうとしたのだ。

 朝比奈瑠璃だからこそ。

 彼女は自分の抱える痛みを、永劫に放たれない鎖を引き絞って、耐え難い苦しみに心で泣き叫びながら、彼に問いかける。その声は震えていた。

「あなたは……それでいいの?」

 彼はその言葉を聞いて、しばらくの間は何か言葉を持つことができなかった。それは彼が何度もしてきた自問自答であったはずなのに、彼女から伝えられる言葉は、それらとは全く異なる鈍重な響きを持っていたから。

 彼は何かを言おうとして、何かを言わなければならないと思って、そうでなければ自分がそれを認めざるを得ないことの証明になってしまう気がして、ひたすらに口を開いては閉じていた。しかし、口から出るべき否定の言葉はすべて空虚の吐息に過ぎず、どこまでも急いている自分とコントラストに、時間の砂粒だけがゆっくりと流れ落ちていく。

 やがて彼女は自分の机にかけられた鞄を取ると、静かに足早に教室を後にした。

 教室には彼だけが残される。蛍光灯は相変わらず煌々と彼を照らしていたが、彼の気持ちは深い森に迷い込んだように沈んでいた。

「俺は、今までのままで……」

 彼は独り言を零してみる。自分でじっくり考えて、決めたはずのことだった。それでも、朝比奈瑠璃との話を終えた今になって、彼の中には以前より大きく厄介になった迷いがあった。

 ため息をつく。彼はいずれ、答えを出さなければならないということをわかっている。それも残された時間はそう多くないということも。

 ──沈黙に落ちた教室の窓を、降り始めの小さな雨粒がいくつも叩いていた。


      ◯


 下駄箱のローファーを丁寧に足に合わせて、外に出ると冷え切った空気が頬を刺した。鞄の中のマフラーは巻かない。彼女はかじかむ肌の痛みで、無理やりにでも気持ちを落ち着かせたかったのだ。

 びゅうと大きな音を立てて、風がひとつ吹いた。彼女は肩を震わせて寒さを堪える。

 深い冬は、もうすぐそこまで──

「雪、降るかしら……」

 独りつと、もはや誰もいない校門をゆるりと抜けて、街灯をひとつずつ辿って歩いた。道を照らす灯りは心許なく、彼女は足元を注視してぼんやりと足を進めた。

 幽かな明かりの中に、今日のことを思い返す。彼女は初めからそうするつもりだったのだ。ずっとそれを引き延ばしにしていただけで、こうなることはわかっていた。こんな形になってしまったのは、少しだけ残念だったけれど。

 彼女は宮橋京の戸惑った顔を思い出していた。

 そして、眉根を寄せた橘圭一の顔を浮かべた。

 自然と彼女の顔には笑みが浮かぶ。しかしすぐにその顔は曇ってしまった。

 ──彼女は決めていたのだ。

 朝比奈瑠璃はもう二度と、宮橋京に、そして橘圭一に関わらないと。

「……はぁ……」

 吐き出した息は白くミルクのように溶け出す。真っ暗な空気の中に、街灯に照らされた吐息が白く光る。彼女はそれを見てもう一度微笑んだ。

「きっと……降りそうね」

 胸に秘めた決心は堅く強いものだった。彼女はそうと決めたら譲らない頑固な人間だ。その頑固さは橘圭一にも劣らないものだった。

 ぽつり、ぽつりと雨を感じて、彼女は気付く。そういえば今日の天気予報は見逃していたのだった。

 ひとまず雨宿りできる場所を探さないと。彼女は雨がまだ弱いうちにどこか屋根のある場所を探しに足を速めた。しかし結局その雨は、彼女が家に帰り着くまでに雨脚を強めることはなかった。

 ただ雨は、ずっと優しく降り続いた。

 一晩中、降り続いていた。

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