第4話 Lonely Fever

 始業か終業かわからないけれど、耳に親しんだチャイムが耳朶に優しく触れた。時間も場所もはっきりしない。深い霧の中にいるみたい。

 しんと静まり返った部屋の中で、たった一人、私は横たわっている。世界には私以外に誰もいなくて、静謐と茫洋と孤独のみが私を満たしている。

 ひたすらに寂しかった。私はただ、誰かのぬくもりが欲しかったのかもしれない。

「これが……恋……なの……?」

 私はこんなときに、どうしてバカなことを言ってるんだろう。喉を素通りしていく空気。声になるかならないかの小さな音だ。けれど、耳を傾ける人は誰もいない。世界は私だけになってしまったのだから。

 ──そのはずだったのに、小さくて几帳面な足音が聴こえる。私は妙な喜びに胸が熱くなって、小さく息をついた。

「お、起きたか。京」

 これは──きっと、夢だ。圭一がこんなところにいるはずがないのに。私は圭一の幻をぼんやりと見つめると、嬉しくなって少し笑った。

「……なに笑ってんだ?」

 目の前の圭一の幻は、ワイシャツの袖をまくって、少し怪訝そうな顔をしている。傍には洗面器とそれに浸された真っ白いタオルが見えた。

 私は途端に自分が情けなくなった。いくら熱で弱っているからといって、来るはずのない幼馴染が看病してくれるような幻を視るなんて──それも、昔の記憶と重ね合わせて。

 だから、私は半ば自分に言い聞かせるような気持ちで、うわ言を重ねた。昏睡に混ざり合った意識の中で喉を震わせるのは少し難しくて、かすれたような声になった。

「なんで……」

「…………ん?」

 私の小さな声に圭一の幻は訊き返す。私はなおも精一杯に喉を震わせる。

「なんで……来たの……」

 枕元に少し耳を近づけて私の声を聴いていた幻は、言葉を受け取るなり静かに笑った。

「諏訪さんに訊いたんだよ。物理室から帰ったらお前がいなくなってるもんだから」

「ちがう……だから、なんで……」

 私がもう一度訊き返すと、圭一は相変わらずの大きなため息をついて、頭を掻いて話し始めた。

「……確かに、俺は大学進学してこの街から離れるつもりだよ。でもさ、それで俺と京が終わりだって、そういうわけじゃないだろ」

 聞き分けのない子供を諭すような、泣き止まない赤子を慰めるような、そんな作られた優しさに満ちた口調だった。

 ──嘘だ。

 圭一は、嘘をついてる。

 きっと誰よりも、私たちが離れなきゃならないと思ってるのは圭一だ。

 それなのに、こんな嘘で私を──そして、自分を。

「う……っ、ひっ、ひ……っく」

「おま、泣くこたないだろ……?」

 仰向けに寝ているから、涙が溜まって目が痛い。とめどなく溢れる水は海になって頬に流れる。

「おい、なんで泣いてるんだよ……俺が何か悪いこと言ったか? なら謝るよ、ごめんって」

 そんなこと言われたって、私にもわからない。どうしてこんなに悲しいのか、わからないのに、涙はいつまでも止まらない。

 熱に浮かされた涙はとても熱くて、頬を伝うたびに冷めていく。それはまるで圭一の言葉みたいだった。

「……嘘、つかないで」

 必死で吐き出した苦痛の言葉に、圭一は目を見張って、彼なりの信念を貫き通そうとしていたものを、曲げるか否か悩んでいるようだった。それでも圭一は、しばらく悩んだ末に、観念したような顔をして話し始める。

「……わかった、わかったよ。やっぱ京には隠し事なんかできないなあ……まったく」

 少しだけ悔しそうな顔をして、圭一はひとつひとつの言葉を丁寧に紡ぐ。

「──俺さ、ちゃんと別れたいんだ。こんな風に喧嘩別れみたいにして終わりたくない。今までずっと、一緒にいてくれたことのお礼とか、楽しかった時間とか、そんなもんをみんな引っくるめて、ちゃんと思い出にしたいんだよ」

 洗面器から絞ったタオルを持って、私の額を拭ってくれる。その冷たさが心地よかった。

「それに、まだ引っ越すまでに一年はある。だから、最後の最後まで、を続けたいんだ。きちんとに向かって、歩き出すために」

 その言葉は、さっきの圭一とは違って、本当の言葉のように聞こえた。

「大学を決めた時、悩んだんだよ。……正直言って、京と離れるのは嫌だ。でもさ、俺にはやりたいことがあるんだ」

 言葉には、希望が満ちている。熱に霞んだ私の目には、圭一が眩しく見えるような気がした。

「だから……ちゃんと、最後までこれまで通りでいてくれないか? 頼むよ、京……」

 圭一は、まっすぐな瞳で私を見つめている。愚直でひたむきな圭一らしい、正直で芯のある言葉だった。

「うん……うん」

 頷いて、応える。

 私は、圭一と放課後に話したあの時から、初めてきちんと気持ちが伝わった気がした。ずっとわからなかった圭一の気持ち、それは紛れもなく私と圭一にとっての大きな変化だったけれど、本当の言葉にのせて話してもらうことでようやく、素直に受け入れられるように思った。

「ゆっくり休んで、はやく治せよ」

 圭一は私の髪を何度か優しく撫でて、それから額にタオルを被せて、最後にゆっくり布団をかける。

「……、京」

 いつしか涙はみんな流れてしまった。私はいくらかの安心感に包まれて、寂しさを紛らわせて、静かに意識へ暗幕を下ろした。


 時計の音が響いている──ガラスを水滴が這っていく──宇宙にぽっかりと浮かんだ月──地中深くから芽を伸ばす大樹の種子──自分の穏やかな呼吸の音。

 私の体に残った最後の風邪が、悪あがきをしているみたいだ。意識は混濁して、ひどい目眩がする。考えていることは散逸としていて、どれもこれもまとまりを持たない。

 きっともう授業は終わってしまっただろう。窓から射し込む光は黄昏、校庭からはわずかに運動部の喧騒が聴こえる。寒いのによくやるなあ。

 ひどく身近なことを考えたり、無意味に遠くのことが頭に浮かんだり、熱にかき乱された私の思索はいつにも増して混乱していた。

 夕陽に瞼が真っ赤に染まる。目を開けて、目を閉じてをうつらうつらと繰り返す。

 頭は朦朧としていても、私の心はどこか穏やかだった。圭一ときちんと話せて、気持ちを受け取れて、私も圭一も納得できたと思う。

 心の整理をつけるには、もうほんの少しだけ、時間が必要かもしれないけど、私は少しずついつもの調子を取り戻しつつあった。

 だから私は、普段なら心拍を乱して、呼吸を苦しめるのすがたも、今ばかりはいくらか平穏な心持ちで眺めることができていた。

 朝比奈瑠璃。

 現実なのか、幻なのか、私にはわからない。

 夕陽に照らされた朝比奈さんが、あまりにも──綺麗だったから。

 濡れ羽色の長い髪に橙の光が反射して、艶めかしく輝いている。白い頬に差しているように見えるほのかな朱色は夕陽のためか。そして、眩しい陽を背にした彼女の表情は、輪郭がぼやけてよく見えない。

 彼女は私のほうをじっと見つめていて、その手には諏訪さんが買ってきてくれた水のペットボトルが握られている。結局いまだに口をつけていない、結露の滴る冷たいボトル。それを見た途端に、さっきまでは気にならなくなっていた喉の渇きが一気に蘇った。

 他のすべての景色が、熱に潤んだ瞳には、うっすらぼやけて見えるのに、朝比奈さんのすがただけは、どこまでも透き通るように輝いて見えた。

 耳がおかしくなってしまったのか、いつの間にか保健室には何の音も届かなくなっている。耳鳴りのするような静寂だった。それでいて、吐息や衣擦れの音はやたらと大きく耳に響いた。

 朝比奈さんが少しずつベッドに近づいてくる。その控えめな、どこか悩ましいような足音が心地よくて、私は目を閉じる。

 瞼の裏を眺めたままゆったり呼吸を続けていると、唇に柔らかいものが押し当てられた。ぎょっとして目を開けると、すぐ近くに朝比奈さんの顔が見えた。彼女の雪のような頬には、朱の絵の具をわずかに水に溶いて滴下したように、細やかな色が差していた。

 何かを考える暇もなく朝比奈さんの薄くも柔らかい唇が離れて、私は呆然とする。自分が何をされているのか、しばらく理解できなかった。

 朝比奈さんはベッドの傍から身を乗り出して、私の上に覆い被さる形で私をじっと見つめている。その視線は言い表せない不可解な熱を孕んでいて、私の目は溶かされてしまいそうだと思った。

 戸惑いもそのままに、湿った唇を開いて声を出そうとする。けれど、乾ききった喉ではうまく話せなかった。

 喉から漏れ出したかすかな音を聴いても、朝比奈さんは何も言わなかった。ただ彼女は私をじっと見ていた。しばらくの沈黙があったのちに、朝比奈さんは手にしたペットボトルの蓋をひねって、ゆっくりと口をつけた。

 依然、私の頭は混乱したままで、ぼうっと小さく口を開けたままボトルを傾ける朝比奈さんを見ていた。朝比奈さんは水を飲んでいるのかと思えば、不意にもう一度私の唇に口をつけた。

 反射的に、今度はきつく口を閉じる。けれど、朝比奈さんは控えめに、けれど強引に舌を唇に割り入れてくる。二度目のそれに私も流石に困惑が強まって、唇を塞がれながらも抗議の声をあげようとする。

 ──すると、やがて朝比奈さんの舌を伝って冷たい感触が降りてきた。喉に染み込んでいく液体。初めは唾液かと思ったけれど、乾いた喉は容赦なくわずかな水を貪るように嚥下する。それから気がついた。これはさっき朝比奈さんが口に含んだボトルの水だ。

 口移しって、という気持ちと、純粋に水をくれて嬉しい気持ちが、私の中でせめぎあいながら、しばらくの間をかけて朝比奈さんはゆっくりと水を落とした。

 口の中の水をすべて移してしまったのか、朝比奈さんは私の口からようやく唇を離す。唾液が湿った唇と唇の間に糸を引く。そんな些細なことよりもっと恥ずかしいことをしているはずなのに、私はそれだけが妙に耐えがたくて、唇を両手のひらで押さえた。

 朝比奈さんの呼吸は乱れていた。静かな保健室に、艶かしい朝比奈さんの吐息の音だけが響いていた。それから彼女の息が元に戻るまで、私と彼女の間には奇妙な沈黙が横たわっていた。

「ごめんなさい」

 初めは、なんと言われたのかわからなかった。少し震えた彼女の声を、頭の中で何度も反芻して、ようやく朝比奈さんが何を言いたかったのか理解して、それでも戸惑った。

「……ごめんなさい」

 二度、朝比奈さんはそう言った。私は、自分がどうして謝られているのかわからなくて、ひどく困惑したのだ。

「どうして……」

 こんなことしたの、と訊こうと思った。けれど、私はその一瞬で自分のぽかんと開けられた口を噤まずにはいられなくなってしまった。

 その時、ちょうど夕陽が落ちて、はっきりと、朝比奈さんの表情が見えたから。

、宮橋さん」

 ──私が、初めて見る、朝比奈瑠璃かのじょの表情。

 形のいい眉は歪められ、口端はぎゅっと結ばれ、目にはうっすらと涙さえ浮かんで──

「────待ってっ!」

 朝比奈さんは、早足で保健室を出て行った。

 美人ならたとえ泣き顔でも綺麗だ、なんてよく言われるけど、私はそれを初めて実感した。涙に濡れた朝比奈さんの瞳は、息が止まるほどに美しかった。今にも泣き出しそうな危うい表情は、胸が苦しくなるほど儚い花だった。

 けれど──こんなのは、違う。

 朝比奈さんの本当に綺麗なのは、こんなものじゃないんだ、と、私は強く思った。叫び出したいくらいに、それだけで頭の中がいっぱいになった。

 悲しくなった。泣きたくなった。どうして朝比奈さんが悲しんでいるのかわからなくても、それでも私は泣きたくなるほど悲しかった。

 私はベッドにうつ伏せになって、少しだけ泣いた。

 それからしばらくして、母が迎えに来て私を家に連れ帰った。母は私の顔を見てどうして目を腫らしてるの、とか訊いたけれど、私が何も答えないでいると、風邪だと顔も腫れたかしら、とか呟いて、一人で納得してしまった。

 家に着いてすぐパジャマに着替えさせられた私は、午後いっぱいかけて随分寝ていたはずなのに、結局また深い眠りにつくことになった。体調が悪い時はとことん身体が睡眠を求めているらしい。

 その日の夜は、夢も見なかった。

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