第3話 橘圭一

 長く思えた昼休みの一時は、実際はごくわずかな時間に過ぎ去った小さなひとつに過ぎなかった。

 教室に戻ってみれば、用事を終えて自席に戻っていた諏訪さんに親しげに手を振ってもらえて、職員室から帰ってきた圭一にも会った。圭一はやたらと申し訳なさそうにしていて、私を昼休みの間一人にしたことを詫びていた。気にすることないのに。

 奇妙な古教室での私と朝比奈さんの奇妙な時間は、日常に立ち返ってみればあまりにも現実からかけ離れた雰囲気をもっていて、本当にあったかどうか疑わしいようなぼんやりした記憶でありながら、私はあの時の彼女と、彼女の言葉たちを何度も反芻しては、自分と同じ悩みを持った人がいることに小さな喜びのような、あたたかい気持ちを感じていた。

 ──けれど、最後に見た朝比奈さんの視線だけは、頭の中の奥の方にこびりついて、いつまでも離れなかった。あの時の彼女の目に宿った──私には理解できない強い感情が何なのか。その疑念はしばらくの間、私につきまとっていた。


「なあ、みやこ

「んー? なーにー」

 夕暮れの空の色はどこかあたたかい。オレンジ色の光が私たちを包み込んで、なんとなく寂しいけれど少しだけ優しい気持ちになる。

 歩き慣れた帰り道をのんびりと歩きながら、私と圭一はいつものようにどうでもいい話をしていた。一日、朝から忙しそうにしていた圭一も、放課後になればいつも通りに戻って、私はいつものように圭一と一緒に帰ることにした。

「俺さ、ちょっと悩みがあるんだよ」

「へー、どんな悩みよ。どうでもいいけど」

「おま……どうでもいいってなぁ……」

 私がとりあえず訊き返してあげると、圭一は不満そうに応える。私は不平の声も適当にいなして、とりあえずどんな悩みか話してみるようにもう一度促した。

「あー……京は、進路のこと考えてるか?」

「うわ、またその話? そんなの考えてないよー……進路希望調査も、まだ一文字たりとも書いてない」

「……そうだよな」

 あれ、また圭一らしくない。たしか、昨日の放課後からだ。いつもならもっと口うるさく追求してくるところなのに、圭一はどうにも静かなんだ。もっと言ったら、圭一は変。とにかく、なんか変!

「ねえ圭一、昨日からなんか変だよね?」

「……は? 何が?」

「いや……なんか、なんというか……うーん……」

 何が、と言われてしまえばちょっと言葉に詰まる。いつもより口うるさくない、なんて言ったらいつも口うるさくなんかないだろ、なんて文句言われるかも。

「……元気ない、みたいな?」

「別に俺は……変わりないよ」

 そう、明らかにしょぼくれた声で否定されて、私は思いのほか──カチンときてしまった。

「────あのさあ!!」

「な、なんだよ?」

 足を止めて、振り返って、とびきり大きな声で叫んでやったら、圭一は驚いた顔で見つめてくる。私はちょっと声を抑えて続けた。

「その答えがもう、元気ないの! 圭一はいま元気ないんだよ! 私が言うんだから間違いないの!」

「……いや、なんでだよ? そんなの俺自身の調子のことなんだから、俺が一番──」

「ちっがあああああああう!!!!!」

「……はあ?」

 叫んでから息継ぎのために一息つくと、さっきまで人がいなかった通りにたまたま一人、通行人の影があった。正直恥ずかしい、けど、もう言わなきゃやってられないのだ。

「圭一のこと一番わかってんのは私だよ! だって、小学校の前からずっっっっっと、ずうぅぅぅっと、私は圭一のこと知ってるんだよ!?」

 もう歯止めが利かなかった。私はここ数日の間にいつの間にやら溜まっていたストレスを、あらん限りの大声に込めて圭一にぶつけていた。

 叫んで、息切れして。私は膝に手をついて大きく深呼吸した。圭一の表情も見えないまま、私はそれでも満足していた。言いたいことは言ったのだ。

 それから、顔を上げていないままでも聞こえるような大きなため息が聴こえた。顔を上げると、圭一は呆れたような顔をしている。

「…………なによ」

「いや、その通りだなあ、と思ってさ」

 反論される、と思っていたから、私は圭一のその素直な言葉に拍子抜けしてしまった。いつもの圭一はこんなに素直じゃない。もっと、頑固で、細かい。やっぱり、今の圭一はおかしいよ。

「──昔はさ。俺ってもっと泣き虫で、弱くて、すぐお前に泣きついてたよな」

「……うん。でもそれ、ずっと認めなかったじゃん。私が覚えてるって言ってもさ」

「バーカ、恥ずいだろ」

 圭一は照れ臭そうに頭を掻く。私はいつもと違う圭一の態度に戸惑いながらも、何か言いたいことがあるのだと思って、黙って聞くことにする。

「あの頃は、あの頃の俺は。京がいるところならどこでもついて行ったんだ、まるで姉弟きょうだいみたいに。俺は京のこと、姉ちゃんみたいに思ってたよ」

「……うん」

 私だって、圭一のことは弟みたいにかわいがってたのを覚えてる。自分のあとをちょろちょろとついてくる圭一は本当に弟みたいだった。

「毎日一緒に遊んで、近所の公園とか、図書館とか、雑木林とか──探検だー! なんて言ってさ」

 ──はっきり思い出せる。あの頃は何もかもが新鮮で、初めて行った場所はみんな遊び場だった。

「ずっと──俺は、ずっと一緒だと思ってたんだ。当たり前のように京と一緒にいられると思ってた」

 圭一の声はいよいよ勢いを失って、だんだんと暗い響きをすら含んでくる。だから私は──

「いられるよ、一緒に。これからだって……」

 ずっと? ……本当に?

 私は自分の言ったことが自分で信じられなくなってしまった。今まではずっと圭一と一緒だった。それが当たり前で、圭一のいない日常なんて考えられなかった。けれど、これからは──

「わからないよ。これからのことなんか」

 圭一は、それだけの言葉を、ひどく時間をかけて嘯いた。表情と声色は穏やかさを装っているくせに、ちっとも普通じゃない。それくらい、わかる。わかってしまう。

「──俺さ、地方の大学に行こうと思ってるんだ」

「それって……」

 一瞬、呼吸ができなくなる。心臓を鷲掴みにされたみたいに苦しくなって、私は息を吸って吐いて、それだけのことにひどく集中を必要とした。

「──また、話す。その時は聞いてくれ」

 たったそれだけ言い残すと、圭一は別れ道を行ってしまう。慌てて呼び止めて──

「あ……圭一っ!」

 けれど、何を言えばいいのか、私にはちっともわからなかった。肝心なことは、私の気持ちは、いつまでもわからないままだった。

 圭一は、黙ったままの私を見て苦笑いを浮かべて、それからは二度と振り返ることなく、やがて二つ目の曲がり角に入って、後ろ姿も見えなくなった。

 体が芯から冷え切っても、私には茫然と立ち尽くすことしかできなかった。

 いつの間にか、落陽はすっかり沈みきってしまっていて、空はまた冬の冷たい色を取り戻していた。


      ○


 朝起きて、昨日のことを思い出して、あまりにたくさんのことがありすぎて頭が痛くなった。朝比奈さんとのこと、それから、圭一とのこと。

 ──世界が変わってしまったのだと思った。けれど気が付いた。世界が変わったんじゃない。私がいつまでも変わらないままなんだ。

 今までだって世界は少しずつ変わっていたのに、私は私が変わることを恐れている。新しいものをはじめること、古いものを諦めること。それらを受け入れがたいと思っている。

『──ねえ、宮橋さんは恋したことある?』

 恋愛とは何なのか。それをずっと悩んでいた。けれど、私は少しだって自分から動こうとしなかった。恋が何なのかを知りたいくせに、いつまでも恋を避け続けていたんだ。同じように恋をわからない朝比奈さんは、私と違ってあんなにも恋を求めているのに。

 知らないものは知らないままで、わからないものはわからないままで。そんな風にしてなんとなく生きていけると思っていた。けれど、それじゃダメだと初めて気がついた。このままじゃ、私はみんな失ってしまうような気がした。

『わからないよ。これからのことなんか』

 ──ぼんやりした視界のなかで、何も見えないままに迷い続けるのはもうやめたい。私は理解したい。私のわからないすべてを。

 私の本当にしたいこと。私が求めているもの。それが何なのか──そして、恋とは、どんなものなのか。

 そうして、私は──


「──ねえ、ねえってば!」

「…………へ?」

 朦朧とした意識が覚醒するのに十秒。

 相変わらず妙に靄のかかった視界には見覚えのある顔。私たちのクラス委員長の珍しい怒った顔だ。温厚な彼女をこんなに怒らせるなんて、いったい誰が、どんなことをしでかしたんだろう──。

「宮橋さん……さっきからず───っと呼んでるんだけど、どうしちゃったのかな……?」

「あ、私……? あは、あはは……」

 慌てて周囲の様子を窺えば、私と諏訪さん以外に誰も教室に残っていない。さっきまで普通にみんなで授業を受けていたはずなのに、どうして──というか、いつの間に他の人は消えてしまったのだろう。

 頭がふわふわする。ちっとも考えがまとまらない。

 諏訪さんの怒った表情と、私がぼうっとしたままでいたこと、そして私と諏訪さん以外に一人として人がいなくなってしまった教室──。

 それらを鑑みるに、もしかすると私は──。

「諏訪さん、私、なにしちゃったわけ……?」

「…………もう」

 ──さっぱりわかりませんでした。

「……今、物理の時間。移動教室。宮橋さんだけ、ぼうっとしたまま!」

「あ……なるほど……」

「なるほどじゃないでしょっ!!」

 つまりは私は、物理室に移動しなきゃならないのに一人で教室でぼうっとしていて、見かねた諏訪さんが私を起こしてくれようとして、今に至るということでしょうか。

 自分のやってしまったことをぼんやりと理解していくにつれて、猛烈に申し訳なく思った私は、咄嗟に諏訪さんに謝った。

「諏訪さん……ごめん……!!」

「はあぁ…………」

 諏訪さんは大きなため息をついて、それから目頭を揉んでゆっくりと言った。

「……いいよ。ここまで反応ないんだもの、宮橋さんもきっと体調が悪いんでしょう」

 ぎくり、と反応する。脳裏を駆け巡るのは昨日の慌ただしい記憶。ミキサーでかき混ぜられたみたいにぐちゃぐちゃで、ちっとも整理がついていない。

「う……まあ……ちょっと、いろいろあって……」

 私が口ごもって、なんとなくお茶を濁すと、諏訪さんは何もかもお見通しとばかりに核心を突いてきた。

「…………橘くんのこと?」

「な、なんでそれっ!?」

 私が思わず声を高くすると、諏訪さんは人差し指を口にあてて、しぃっ、と音を立てる。今はみんな授業中だからね、と囁かれて、私もようやく我に返った。

「あんまりおっきな声じゃ言えないけど、私は学級委員長なんですよ? 橘くんの進路希望調査票を受け取ったのは私です。まとめて担任に提出するのが私の仕事だもの」

「…………それじゃあ」

「……ええ。申し訳ないけど、橘くんと宮橋さんの様子があまりにもおかしいから、橘くんがここ数日先生に相談してることも関係あるんじゃないかと思って、少しだけ見させてもらったよ」

 私は何か言わなきゃいけないと思った。けれど、頭に浮かぶのはどれもこれも意味をなさない強がりとかどうでもいい茶化し文句ばっかりで、そのどれかひとつとして私の口を割って出てきてはくれなかった。

「橘くんの第一志望、東北の国立大学だって。宮橋さんも、それを話されたんでしょう?」

「…………うん」

 ぐらつく頭で頷くと、諏訪さんはもう一度、今度は少し小さめにため息をついて続ける。

「……橘くんの学力なら、きっと問題なく受かるレベルでしょうね。本人の意思も堅いみたいだし」

 口をもごもごさせるけれど、まるで言葉を失ったみたいに、私は何も言えない。

「宮橋さんは、どうするの? ……橘くんが地方の大学に通い始めたら、当然だけど今までと同じような関係ってわけにはいかなくなるでしょ」

 何度も浅い呼吸を繰り返して、私は必死で言葉を紡ごうとする。まだ答えは見つかっていない。頭が痛くなってきた。

「…………私は」

 それだけ吐き出すと、口端から漏れ出したのは音を持たないただの空気でしかなくて。

 諏訪さんはそんな私を見て、柔らかい深呼吸をすると、静かに言ってくれた。

「……保健室、行きましょうか」


 諏訪さんの手を借りてゆっくり保健室にたどり着くと、保健の先生は出張か何かで席を外していた。

 諏訪さんは私を備え付けのベッドに座らせると、額に手を当ててうむむと唸ってから、勝手知ったる様で体温計を取り出すと私に熱を測らせた。どうしてそんなに慣れてるの、と私が訊いたら、クラスの病人を介抱したりも委員長の仕事なの、なんて言われてにっこり微笑まれた。

 諏訪さんは、本当に頼りになる人だ。私みたいな子のことも、いつもこんなに親切に助けてくれる。

「やっぱり熱あるね。平熱は?」

「……六度五分」

「七度八分だから、微熱ってところかしら」

 私は心なしか遠くにくぐもって聞こえるような諏訪さんの声に頷くと、うわ言みたいにつぶやく。

「あぁ……お水、飲みたい」

「お水ね。買ってくる」

 枕元から諏訪さんが離れていく足音が聞こえる。自分でお願いしたことなのに、いざ一人になってしまうと途端に寂しくなってしまった。いつもはこんなこと思わないのに。やっぱり私は熱があるみたいだ。

 重い頭が枕に沈んでいく。意識の霞とは裏腹に瞼はちっとも閉じようとしない。天井の白を見つめているだけで、意識が漂白されるみたいな感じがして、そんなに悪い気分じゃなかった。

 寒さのために閉め切られた窓から外を見る。室内を暖めるヒーターのおかげで、ベッドからでも見えるくらいに大粒の水玉が張り付いているガラス、その先は凍える冬。

 今年は雪が降るだろうか。ここ数年は異常気象だとかで東京にも案外雪が降る。学校に、家に、この街に雪が降り積もっているのを想像して、去年の冬を思い出した。初めて雪が積もった朝は、圭一とふざけあってちょっとした雪合戦なんかしてた。二人ともびしょびしょに濡れて、結局私だけ風邪ひいたんだっけ。

 あの時は今の諏訪さんみたいに、圭一が私を看病してくれたんだ。ちっとも慣れていないくせに、真面目くさって力いっぱい絞った濡れタオルをくれて、ちょっと味が濃すぎるけど、丁寧にお粥も作ってくれた。

 あの頃は今と違ってもっと悩みごとが少なかった。疑いなく、も続いていくと、信じられていた頃。いつか離れてしまうなんて、お互いに考えもしなかった頃。

 熱のせいか目に涙が滲んで、思わず目を閉じた。そうすると、唐突に意識が遠のいていく。

「……あれ、宮橋さんもう寝ちゃったの?」

 遠くから諏訪さんの声が頭に響いて消えていく。せっかく水を買ってきてもらったのに──。

「私は授業受けなきゃだから、そろそろ行くよ。お水、ここに置いておくからね。お大事に」

 それだけ聞き終えると、私の意識はすぐに深い海に沈んでいった。諏訪さんの声は最後まで優しかった。

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