第2話 朝比奈瑠璃Ⅰ

 昼休み。

 お昼ご飯はいつも、なんとなく圭一と一緒に食べているのだけど、今日は朝から続く先生との相談とかで、一人で食べなきゃならないことになってしまった。

 諏訪さんに声をかけようとしたけれど、彼女も教科の先生に頼まれた用事とかで、プリントの束を提出しに行ってしまったらしい。彼女の席には、彼女のお気に入りのもふもふペンケースだけがぽつんと取り残されている。

 教室の中にはいつものように、決まりきったグループが続々と机を寄せあい、椅子を並べて一緒に食事を始めている。少しずつお喋りのペースも上がって、いつもの楽しそうな昼休みの完成だ。

 教室では一人が際立って寂しくなってしまうから、私は食堂に行くことにする。せっかくだから、たまには購買部でプリンでも買ってデザートにしよう。

 そう思って階段をとぼとぼ降りていく。考えたこともなかったけど、一人でご飯ってなんだか寂しいものですね。

 長い机がいくつも並べられた食堂に着いて、適当に見繕った席にお弁当を置いた。広げてみると今日はナスの炒め物がメインだった。卵焼きにほうれん草の胡麻和え、ご飯の上には梅干し。

「……いただきます」

 食堂なら一人でもそんなに目立たないかと思っていたけど、全然そんなことなかった。周りにはむしろ、別クラスの仲良い子同士で集まってご飯を食べにきた大きな集団ばっかりで、私みたいなひとりぼっちはひどく浮いている。本当は、私だってぼっちじゃないけど。今は仕方なく一人に甘んじてるだけだけど!

 こんなことなら無理してでも教室の女の子たちに混ぜてもらうんだった。だけど、あの子たちの雰囲気はなんとなく気持ち悪くて得意じゃない。いつでも同調して、愛想笑いを顔にくっつけて。

 諏訪さんは根が真面目で優しい子だし、委員長としていつもみんなのために頑張ってくれてるから、素のままであの子たちに馴染んじゃう。だけど私には、あの中で注目されないための、になるための、仮面が必要なんだ。

 ──朝比奈さんならどうだろう。

 いつでも、昼休みにはふらりと何処かへ消えてしまう彼女。あの子には、仮面なんて必要ないのかも。あの涼しげな表情で、氷みたいに黙ったまま──。

「綺麗、だなあ……」

「ねえ、隣いいかしら」

 頭の中で、夜の光に照らされて煌びやかに輝く朝比奈さんの姿が散らついて、私はちょっと甘めの卵焼きをくわえたまま、ぼんやりとつぶやいて──

「っ!?」

 慌てて声のする方に目を向けると、たったひとつ、すぐ隣の席には、想像の中よりも少しだけ無表情な、朝比奈瑠璃が座っていた。

 彼女は自分のランチバッグをゆっくりと紐解いて、小さな編みかごを取り出す。中にはいくつかのサンドイッチが入れられていて、トマトやレタスの鮮やかな色味が目に明るい。

「えっ、う、うん。大丈夫、だよ?」

 なんとか卵焼きを飲み込んで、私がようやく返事をした時には、彼女はもう紅茶のパックにストローを突き刺して、ちうと吸い始めていた。

 なんで朝比奈さんがここに──?

 ストローをくわえる小さな唇に、思わず視線を釘付けにされる。レモンティーにかすかに濡れて、真っ白い雪の上にほのかに赤い花びらを落としたみたいに。朝比奈さんは私の視線には気が付かず、しばらく黄色いパックを持ったまま、どこでもない宙空をぼんやりと見つめている。

 息がつまる。同じ女の子なのに、ここまで緊張しちゃうくらいの美人なんて──

「……どうかした?」

「いや……なん、でも。ない」

 気が付いたら目があっていた。慌ててそらして返事をする。首をかしげて尋ねてきてはいるけれど、相変わらず彼女は無表情。

 ふうん、とつぶやいて、朝比奈さんはサンドイッチに手を伸ばす。

 嫋やかな指。綺麗に包まれたパンをほどく仕草はまるで──まるで、まるで! まるで上手い例えが出てこない!

「食べたら?」

「あ……うん。いただきます」

 ごちゃごちゃ悩んでいたら朝比奈さんに促され、またお弁当に手をつける。二回目のいただきます。いかん、私は明らかに動揺している。

 ……うわ、まったく味がわからない!

 どうして私はこんなに緊張しているんだろう。いくら美形だといっても相手は同じ女の子だし、今までも普通に話してきた、クラスメイトだし。好きな相手にどぎまぎする男子じゃあるまいし──

 落ち着け、京。深呼吸。

「宮橋さん」

「ひゃいっ!?」

 変な声が出た。私はもうだめかもしれない。

「……大丈夫?」

「だ、大丈夫大丈夫! ちょっと、息がつまるっていうか……人、多くて息苦しいね! ここ!」

 苦し紛れの言い訳だった。恐るおそる朝比奈さんの顔色を窺うと、案外と私の言ったことをすんなり受け入れているようで、静かな表情の中にわずかな気遣いの色が見える──気がする。心配させちゃって、悪いことしたなあ。

 朝比奈さんはしばらく私を見ていて、それから手元のサンドイッチに視線を戻して、けれども再びそれを食べようとはしなかった。

 お互いになんとなく、気まずい雰囲気になってしまった。完全に私のせいである。

 そう思ってちょっと落ち込んでいると。

「ついてきて」

「えっ、どこに──」

 行くの、と訊くよりも早く、朝比奈さんは自分のランチバッグを手早くまとめると席を立ってしまった。食堂の出口傍に立つと私にちらと目配せする。

 正直どうすればいいのかわからないけど、ついてこいと言われて行かないのも不誠実かと思って、私は結局お弁当をまとめて彼女を追った。

 食堂を出て屋外の通路を渡っていると、当然のようにしんと冷えた空気が暖かい室内に慣れた肌を刺す。灰色の曇りがちな冬空を見上げて私が少し身震いすると、朝比奈さんは、体を冷やすといけない、と言って足を早める。どこに行くつもりなんだろう。

 しばらく歩いて、朝比奈さんは私たちの教室があるのとは別の、旧校舎に入っていった。私もとりあえず室内に入りたいと思って後を追う。

 旧校舎は文化部の部室や会議室、理系教科の特別教室ぐらいしか入っていないために、授業のない休み時間は人の入りも疎らで、今も例外なく静寂に包まれていた。

 朝比奈さんの足取りには迷いがない。すたすた二階への階段を昇ると、誰にも使われていないような小さな教室の前で立ち止まる。

 まさかと思ったけれど、そのまさかだった。

 埃をかぶったようなその古臭い教室のドアを開けて朝比奈さんは静かに入室する。なんの教室なのかさっぱりわからなくて、改めてじっくりと見回してみたら小さな、字のかすれてしまった表札が一枚だけ掲げられていることに気がつく。

 第二物理準備室。

 ……怪しすぎませんか、朝比奈さん。

「いらっしゃい。歓迎するわ」

「あ……うん、ありがとう」

 教室の中から私を見ている朝比奈さんの表情はいつもと同じように見えたけれど、口調はどことなく優しく思えた。彼女は狭い教室に入ると隅に置かれた小さなストーブに火を入れたらしい。部屋に足を踏み入れるとつんと特有の匂いが鼻をつく。

 それともうひとつ、教室の中央の長机──よく見たら三つの小さな机を並べただけのお粗末なものだ──の上には、アルコールランプの火にかけられたビーカー。何の実験かと思えば、よく見ればランプの傍にはわりと大きな箱が置いてあって、その上にはいくつもティーバッグが取り出して並べてあった。

 アルコールランプで紅茶って……。

「適当に座って。席は二つしかないけど」

「えっ、あ、ありがとう……」

 そう言われてとりあえず目の前の椅子に腰掛ける。しばらく教室の中をじっくり見回していたら、お湯が沸いたらしくて、朝比奈さんはマグカップに淹れられた湯気の立つ紅茶をくれた。受け取ると芳醇な茶葉の香りに併せてほのかに柑橘系の清涼感。すんすんと匂いを楽しんでいると、机を挟んだ向かい側に座っている朝比奈さんが、アールグレイ、と一言だけぼそりとつぶやいた。

「そうなんだ……柑橘系のいい香り。オレンジペコとかそういうのだと思ってた」

 私も同じように小さな声で返す。教室の中には旧校舎全体に広がる静寂を凝縮してつめこんだみたいに濃厚な静けさが蔓延していて、大きな声で話すような態度はなんとなく、許されない気がしていた。

 私がそのまま紅茶をひと口、ふた口といただいているうちに、朝比奈さんがくすくすと静かに笑っていることに気がついた。

 朝比奈さんの笑顔なんて、初めて見た──。

 私が思わず見惚れてしまっていると、彼女はようやく笑いがおさまったのか、さっきと変わらない声音──少しだけ楽しそうにも聴こえる──で話した。

「オレンジペコは柑橘のお茶じゃないわ」

「え、オレンジなのに?」

「ふふっ……ええ、オレンジなのに」

 私が訊き返すと、朝比奈さんはまた少しだけ笑って──柔らかい微笑みで答える。

 少しの間、私は何も考えられなくなってしまって、それからしばらくしてようやく、朝比奈さんはこんな表情をするんだ、と思った。いつもこんな風に笑えばもっと──もっと綺麗なのに。

 そう、心から思った。思ったから、つい口をついて出てしまった。

「……朝比奈さん、笑ってたほうが、綺麗だよ」

 俯いたままつぶやいて、それから自分がとんでもなく変なことを言っていることに気がついて、内心慌てて訂正したくなった。でも、私の言ったことは悔しいけれど、どこまでも私の本当の気持ちでしかなくて、否定しようにも言い直そうにも、どうすればいいかわからなくなってしまった。

 引かれてないか、気持ち悪がられてないかと心配しながら俯きがちに視線を上げると、朝比奈さんは少しだけ目を丸くしていた。

 なんとか弁明しようと口を開く。

「あの、ごめん……なんていうか、別に変な意味じゃなくって! その……」

 朝比奈さんの表情は変わらない。限りなく無表情に近い、小さな驚きを孕んだような。

 羞恥で顔が熱くなるのを感じる。教室に連れてこられてから久しく忘れていた緊張の波が再び押し寄せてくる。息がつまる。閉塞感。

 朝比奈さんは小さく口を開いて──

「……ありがとう」

 ひときわか細い声で、静かな部屋に響かせた。たった一粒の水滴なのに、広く大きな水面に激しい波紋をもたらすような、そんな言葉だった。

 私と朝比奈さんは、波がおさまるまでのしばらくの沈黙を必要とした。私も彼女も、静かにマグカップを傾けた。それから再び、照れくささに耐えかねて口火を切ったのは私の方だった。

「えっと、朝比奈さん……どうしてここに?」

 朝比奈さんは静かに答える。

「ここ、静かだから。宮橋さん、食堂に人が多くて息苦しいって言ってた」

「そっか……ありがとね」

 私が素直にお礼を言うと、朝比奈さんは黙って少し俯いてから、気にしないで、とだけ言った。

 ようやく二、三、普通の会話を交わせたことでようやく落ち着いた私は、せっかく淹れてもらった紅茶を冷まさないうちにお弁当を食べてしまうことにする。朝比奈さんはすでにサンドイッチをひとつ食べ終えていて、紅茶のおかわりを沸かしてくれていた。

 しばらくの落ち着いた時間。紅茶の香りは私の心をよく鎮めてくれて、さっきまで抱いていた緊張や不安はいつの間にかほぐれて、すっかりリラックスしていた。朝比奈さんもサンドイッチを食べ終わると、椅子の背もたれに体を預けて、いつもの文庫本を読み始めている。

 私はお弁当を食べ終えてしまうと途端に手持ち無沙汰になって、教室の周りを見回すだけになってしまった。

 よく見れば狭い物理準備室の中にはいくつもの変なものが置いてある。かなり大きい分子の構成モデルとか、大きな空の水槽とか、車輪のついた小さい車や、糸を通したまま放られた滑車。どれもこれも、しばらく授業で使われた様子のない古ぼけた道具たち。

 窓には埃に白く汚れてしまった暗幕が下げられていて、覗き込めば私たちの使っている校舎の二階、ちょうど職員室前の廊下が見える。暗幕のせいか全体的に教室は薄暗く、普通教室と違って照明も天井の中心にたったひとつ点けられているきりなので、日が暮れてしまえば手元も覚束ないだろう。

 私がぼうっと椅子に座ったまま外を見つめていると不意に朝比奈さんが席を立って、ちょうど私が眺めていた窓の傍にゆっくりと歩み寄った。

 視界に入った彼女に私が少し訝ると、彼女は窓の外をいつものアンニュイな表情で見つめながら、穏やかな口調で尋ねてきた。

「──ねえ、宮橋さんは恋したことある?」

 あまりに唐突で、私はちょっと狼狽える。恋、恋って恋愛の恋だよね。私は質問の意図がわからないのとどう答えたらよいかわからないのと、二つの戸惑いに口を開くことができなかった。

 私が黙ったまま朝比奈さんを見つめることしかできずにいると、彼女は私の返事を待たずに続ける。

「……私、思うの。恋って何だろうって」

 恋愛が──わからない。

 それは、私の悩みだったはずだ。あの時、私は思っていた。朝比奈瑠璃は私とかもしれないって。私が感じたものは、本当だった──。

「宮橋さんには、好きな人がいる?」

 思い返されるのは諏訪さんとの会話。それから──幼馴染の顔だった。

 違う、と、思う。私の圭一への感情は、恋なんていうものじゃない。

 圭一のことが嫌いだってわけじゃない。圭一は──家族だ。私の、圭一への〝好き〟は家族の〝好き〟であって、恋人の〝好き〟じゃない。家族愛ストルゲー──きっとそうだ。

「──私、好きな人なんていない」

 気がついたら、私はいやに決然と、自分の恋を、自分の恋のを、真っ向から否定していた。私は恋などしていない。私には、そうとしか思えなかった。

「…………そう」

 返事をした朝比奈さんは、窓の外に広がる冷え切った冬から目をそらさずに、けれどいつまでも私のことをじっと見ている気がした。

 私も窓の外に視線をやると、新校舎の廊下、職員室から出てくる橘圭一の姿が見えて、すぐに目をそらした。圭一は先生との相談を終えて、急いで教室に戻っていくようだった。

「──朝比奈さん、紅茶ごちそうさま。私、そろそろ教室に戻らなきゃ」

 と、朝比奈さんに声をかけると。

 彼女から返事は返らなかった。

 私は朝比奈さんを見て、彼女の視線とその先にあるものを一時には認めがたかった。

 彼女は、ただ、じっと──。

 朝比奈さんは、子供が手の届かない雲や星を欲しがるような目をして、圭一の姿を目で追っていた──。

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