SS1 雪上の演武――VS.Toyota<86>(ZN6)


 #0 Recce


 年が明けて二月の中旬、ちょうど期末テストの片が付いた頃。埼玉大学を中心とした関東一円には、積雪五センチメートルもの雪が降っていた。

「積もりましたねー……」

「あぁ、積もっちまったな……」

 男子大学生である青海(おうみ)と赤羽(あかばね)の二人は、現在生協第二食堂の入口で傘を畳んでいる。肩に薄っすらとかかった雪が冷たい。偶には昼食を一緒にでも、ということで久し振りに顔を合わせたにもかかわらず、第一声がこんな気の利かないセリフになってしまった。先輩である赤羽の頭を見上げつつ、青海が玩具を取り上げられた子供のようにしょぼくれた表情を見せる。

「俺、クルマのタイヤにチェーン巻くの忘れたんですよ……」

「天気予報、青海は見てなかったのかよ?」

「見てたどころか、親父にも念を押されてました……」

 あれだけガミガミと忠告されたにも関わらず、つい油断してしまった。どうせ例年どおり一センチも積もらないだろうと甘く見ていたら、十年に一度の大寒波と来た。全く、冬将軍もそんなに張り切らず、シベリアあたりでバカンスでも満喫して欲しいモノだ。

「ってか、お前ってチェーン派なんだな。スタッドレスは持ってないのかよ?」

「ウチにヨコハマのアイスガードはありますけど、正直関東にゃスタッドレスタイヤなんて要りませんって。そりゃ、赤羽さんみたいな雪国出身の人は違うんでしょーけど」

「まぁな、仙台の実家に帰省するのに必要だし。もう<86>にはブリザック履かせてて、来週には向こうに一週間くらい帰るつもりだからな。スペアタイヤも抜かりねぇって」

 北の方角を向きながら、赤羽が遠くへ言葉を投げかける。彼が咥えるマルボロの灯はどこか物悲しく、さながら季節外れの線香花火のよう。しばらく彼と会えないということは、青海にやはり一抹の淋しさを覚えさせる。

「っつーことは、赤羽さんの顔が見られるのも、今月中はこれが最後ってことですか」

「そうでも無いんじゃないのか? あと一週間はこっちに居るし、何ならまた走りに来ようって考えてるし。雪は雪で、楽しい路面コンディションだしよ」

「だったら――」

 それまでの暗い表情から一転、青海の瞳が星のように瞬く。身を赤羽の方にぐいと寄せて、とてつもなく強い押しでその挑戦状を赤羽に言い渡した。

「今シーズン最後のSRC、スノーラリーでやりましょうよ!」


SRC――埼玉大学ラリー選手権(Saidai Rally Championship)。読んで字のごとく、埼玉大学敷地内の路という路をサーキットとしてクルマのスピードを競い合うレース。私有地であるため法定速度が存在せず、毎度エキサイティングなバトルが見られる話題沸騰中の人気モータースポーツだ。自分のクルマを所有している大学生は、講義が終わると愛車のキーを握り、夜の大学をただひたすらに走り込んでそのエグゾーストを響かせる。

 バトルは挑戦を引き受ける形で行われるため、決められた試合がある訳ではなく偶発的。ルールやレギュレーションは紳士規定が少々存在する程度で、当事者同士の合意さえあれば基本的には何でもあり。三台以上のスポーツカーでバトルをしてもよし、ターマック(舗装路)だけでなくグラベル(未舗装路)をコースに織り込んでもよし。そんな大してラリーでも選手権でもないSRCにおいて、最近ダントツで注目すべきトピックスが一つある。

 首都高速埼玉大宮線をホームコースとする走り屋チーム、ナイトフライト。そのリーダーである赤羽の駆るトヨタ<86>が、他流試合として参加したSRCで軽トラックに敗北したのだ。

 高速道路バトルはハイスピードかつ相応以上のドライビングテクニックが要求されるため、その覇者である赤羽はいわば『さいたまの帝王』となる。そんな技量の高いドライバーが、どこの田舎から出てきたかも分からないような軽トラに負けた。これは大学生の走り屋たちにとって非常に重大な出来事であり、これによりSRCの注目度が全国的にもぐっと高まったと表現しても過言ではないだろう。

 そしてこれは同時に、その軽トラックであるスバル<サンバー>とドライバーの青海の、華々しいSRCデビューでもあった。

 赤羽の<86>に勝利した軽トラは、そのボディカラーから『青い流れ星』として多くの走り屋の心に焼き付いた。そうなると当然青海の<サンバー>は数多くの有力ドライバーから標的とされるようになり、彼へと宛てられた挑戦状も後を絶たないほどに送られてきた。しかし青海はこれら全てに対してSRCで勝利して、毎夜のようにその実力と青い軽トラを遺憾なくギャラリーに見せつけている。

 そして昨年の秋が終わる頃、青海は見事SRCチャンピオンの座を掴みとった。しかしそれ以降はあまりバトルをしていなかったため、このスノーラリーでは久方振りの流星群が予測された――。


 三日後、埼玉大学は吹雪に襲われていた。

「おいおい、こんなコンディションで本当にやるのかよ……?」

 青海の友人である黒崎(くろさき)が、教育機構棟前の屋根の下で不満を垂らす。青海はそれを耳にして、舌を鳴らしながら人差し指を横に振った。

「分かってねーな、黒崎も。WRC(世界ラリー選手権)のラリー・スウェーデンだって、こんくらいのコンディションで全開走行してるだろ?」

「してないだろうが、流石に吹雪は吹き荒れてないっての。ホワイトアウトもいいところだろ、今日のこの天候は」

 そっぽを向いたとほぼ同時、黒崎が先日のことについて話し始める。

「昨日までは、ちゃんと晴れてたのにな……どうして今日に限って」

「天が俺らに微笑んでくれたってーことだろ? ホラ、恵みの雨ってよく言うし」

「雪だろ、バカ」

 黒崎に右手で突っ込まれたところに、二人の知り合いである桃山(ももやま)がやってきた。可愛らしいピンク色のニット帽と手袋は、完全にスキーウェアのそれである。如何に寒いコンディションであるかを、彼女のそんな恰好が如実に物語っていた。

「おー、桃山。すごく暖かそーな格好だな」

「うん、青海くんが寒そうな格好してるだけだと思うよ」

 北風のように冷たい彼女の突っ込みを受けた青海は、予想外の一撃に一瞬たじろぐ。現在の彼はいつものカーゴパンツに申し訳程度のインナー二枚、紺色のダッフルコートのみで、グローブもマフラーも身に着けていない。それでいて飄々としているのは、久々に走れることから来る興奮のせいだろう。

「今日はよーやく赤羽さんとバトれるからなー、身体がウズウズしてるんだよ。内側から燃えるようにさ」

「そ、そんなに楽しみだったんだ……最後に赤羽さんと走ったのっていつだっけ?」

 顎に手を当てて首を傾げる桃山には、黒崎が短く答えを告げる。

「年末だな。クリスマスが終わったあたり」

「あの時は驚いたよなー、赤羽さんが俺のタイムにピッタリ合わせてきたんだもんよ」

「――俺のタイムが、どうしたって?」

 二ヵ月前の思い出話に花を咲かせていたタイミングで、今回の対戦相手である赤羽が合流してきた。彼のトレードマークであるジャケットのファーを北風になびかせ、氷を削ぐような足音で雪を踏み固める。『全学教養ツインストレート』上に停めてある彼の赤いトヨタ<86>はスタッドレスタイヤを履いており、車高も悪路に対応してかノーマルの高さに戻されていた。

「赤羽さん、よーやく来ましたね! やっぱR463は混んでました?」

「悪い、まさしくその通りでちょい遅れちまった。雪だと速度落ちるからな、どうしてもいつも通りの時間とは行けなかった」

 軽く手を合わせて謝罪する赤羽に対して、しかし青海はなじらずに、とても楽しげに口角を吊り上げる。

「構いませんって。遅れたタイムはSS区間で取り戻す、ラリーの基本でしょう?」

 その挑発的な言葉を受け取って、赤羽はマルボロを一本とライターを取り出す。赤く小さいが揺るがない闘志をタバコに宿して、青海とバトル前の握手を一度交わした。

「コースマップ、俺にも見せてくれるか?」

「これです。今回は黒崎謹製ですからね、俺もワクワクが止まりませんよ」

 今回のコースが記された紙片を、青海が赤羽に手渡した。それを一瞥した後にタバコを口元から離し、赤羽が驚いた表情で口笛を鳴らす。

「逆走かよ……珍しいもんだ。なぁ黒崎、お前どこでこんなの思い付いたんだよ?」

「どこで、って言っても……俺の走りたい場所と青海や赤羽さんに走ってほしい場所がどこか考えたら、自然とこうなりました」

 赤羽の好感触に、黒崎が照れたように笑う。それもそのはず、今回の経路はまずお目にかかれないエキサイティングなモノなのだ。

 まずスタート地点が通常とは異なり、『教育機構棟ヘアピンターン』から始まる。教養全学ツインストレートを進んだらすぐに左コーナーを二回経て、理学部近辺のインフィールドを蛇のように曲がりくねり『理学部ロングストレート』へ。その後『埼玉大学ホームストレート』に合流したら教育学部B棟で右折し、『教育学部テクニカルセクション』を逆走。そして『体育館北ロングストレート』、『工学部ロングストレート』、『工学部東コロナーデストレート』を駆け抜け、東門付近のバンプでゴールとなる。

「今回はバトルじゃなくてタイムアタック形式のラリーですからね、道幅も狭いところを選んでみました。スタート地点とゴール地点とが別なのも、今回のミソです」

「加えて、この雪ですからねー……赤羽さん、今回はかなりスリリングですよ」

 黒崎と青海の興奮に釣られて、赤羽も思わず息を呑む。

「確かにこりゃ、存分に楽しめそうだな……先行は俺で良いんだよな?」

「そうですね、んで青海は後攻で。スタートとタイムは俺がやるんで、赤羽さんは<86>をスタートラインにお願いします」

 黒崎が右腕を大きく回してクルマの誘導を始めると、青海と赤羽がおもむろに視線を交錯させた。

「青海。SRCチャンプの称号、俺が今日頂いても良いんだよな?」

 吸い終わったマルボロを携帯灰皿にしまい込み、代わりに愛車のキーを取り出す赤羽。それをじっくりと見送りながら、青海も彼に言葉を投げかける。

「勿論ですよ。獲れるもんなら、ですけどね」

 その一言により、SRCラリー・スノーの幕がアンベイルされた。


 #1 Spitfire/Lou Turner(SUPER EUROBEAT Vol.138)


 スタート位置に付けた<86>のボディカラーは、白い雪に対してとても良く目立つ。全ての光は地面のパールホワイトに反射され、深紅のクーペシルエットを浮き彫りにしていた。

「それじゃあ赤羽さん、カウント行きますよ!」

 クルマの横に立つ黒崎が、両手を天へと高らかに挙げる。左に持ったストップウォッチは、まっさらなゼロ秒を表示していた。

「五秒前! 四――」

 アクセルを右足で数回煽り、タコメーターのゼロを解放。高鳴る<FA20>水平対向エンジンは、彼の心臓の鼓動のように重低音を短く刻む。

「三、二、一――」

 左足でブレーキを確かめ、ステアリングでグリップを確認。地元の雪はこんなものではない、この地はまだ彼に試されていない。それを証明するためにも。

 そして何より、最速の称号を掴むためにも。

「GO,GO,GO!」

 黒崎の両腕が下げられると同時、赤羽が<86>のチェーンを解き放った。


 最初に感じたのは、ゴツゴツとした地面からの振動だった。

(圧雪――いや、もっと酷くないかっ?!)

 <86>の車中で、赤羽が一瞬たじろぐ。路面からのインフォメーションはとても硬い感触で、まるで卸し金の上を走っているようだった。普通の雪ならば摩擦係数(ミュー)が小さく滑りやすいだけで済むはずなのに、余計な上下の振動が煩く押し寄せてくる。

(全開で走るとよく分かる……雪の質が、こうも違うってな)

 彼の地元である仙台では、もっと粒の細かいパウダースノーが降り積もる。特徴として平坦に積もりやすいことがあり、スキーに適した雪質と言われる。だから雪国で走っている時は、振動もさほど感じ取らずに済んでいた。

 しかし関東の雪はもっと粒子が荒く、積もれば路面が均質にならず凹凸が大きくなってしまう。本場の雪国と大きく異なる特徴がこれであり、特に速度が大きくなれば、飛び越えるようなうねりが挙動に現れてくるのだ。そのため赤羽は現在ツインストレートを真っ直ぐ走るだけでも、シビアなステアリング調整を強いられている。足元を取られてしまえばコントロール不能、すぐさま建物かギャラリーに激突してしまう。

(スノーラリーが、こんなにもヤバかったとはな……確かにスリリングだ)

 本人の意図とは全く別の意味で、彼は青海の言葉に賛同した。こんなにも狂ったタイムアタックを申し込むとは、やはり青海というドライバーを侮ってはいけないらしい。

 そうこうしているうちに、赤い<86>がホームストレート交差部の連続左コーナーへと差し掛かる。タイムを削りながらこのコーナー二つを攻略するには、それぞれでステアリングを切ってはならない。それがまるで連続した一つのターンであるかのように、クルマのノーズを一八〇度回頭させるようなドリフトが有効だ。

「ドリフトは俺のお家芸、ってね! 派手に飛ばすぜっ!」

 赤羽と言えばドリフトであり、ドリフトと言えば赤羽である。彼自身のアイデンティティであるドリフト走行を決めてやらんと、シフトダウンしてエンジンブレーキをかける。それでも足りないため左足でブレーキを少しだけ踏み、クルマの荷重をフロントに移す。そしてハンドルを左に倒そうとしたところ、赤羽の脳内で反射的に警報が鳴り響いた。

 減速が、不足している。

 こんなにも凍えた冬だというのに、冷や汗が滝のように湧き出てきた。制動距離がいたずらに伸びて、このままでは冠雪した森に突っ込んでしまう。

 焦燥感と危機感が脳を支配する。慌てて右足でブレーキを踏み、クルマのバランスを崩してでも減速へ。ハーフスピン状態を意地で操り、道幅を精一杯活用しながらホームストレート奥側の車線に進入。ノーズは教養学部棟の方角へ傾きかけるも、素早いカウンターステアで軌道修正。リアバンパーが縁石を擦るか擦らないかギリギリの間隔で横に駆け抜け、正規のコースが見えたところでアクセルオン。

 針の穴に糸を通すような正確さと集中力で、赤羽はこのクラッシュの危機を辛くも乗り越えた。

(あっぶねー……開始早々リタイアになっちまったら、青海にどんな顔すればいいんだっての)

 一段落着いて、大きな溜め息を吐く。ブレーキの効きが悪い原因はやはり、路面の雪質だろう。凹凸が激しいためタイヤが路面に接地せず、ブレーキの効きも半減してしまっている。ドライコンディションよりは滑るだろうと踏んで赤羽も手前からブレーキングを始めたにも関わらず、それでもまだ減速が足りなかったのだ。

 今シーズン最後のSRCだというのに、リザルトが残念なモノでは示しがつかない。何とかしてバンプを乗り越え理学部のインフィールドへ突入したことで、彼は首の皮一枚繋げることに成功した。

 講義実験棟前のコーナーは、余裕をもってブレーキングドリフト。ニュートンの木へ向けて後輪で圧雪を振り撒きながら、赤羽の<86>はタイトな曲線を滑り駆け抜ける。このコーナーで彼は大まかにだが、制動距離がどの程度必要になるのかを把握することが出来た。

(地元の三割増し……いや、もっと手前から減速する必要がある。こんなんじゃ、いつもよりも全開で飛ばせないと来る)

 赤羽が心中で独りごちる。普段のSRCは曲率のきついコーナーと悪路の影響で、サーキットや一般道に比べアクセルを全開に出来る区間が非常に少ない。その『減速を強要されるレイアウトでどこまで加速できるか』を競うのがSRCの醍醐味だが、今日ばかりはそうも言ってられない。滑りやすくうねった雪道のせいで、更なる減速が強制されるからだ。

 ここまでの赤羽は七〇〇〇回転までエンジンを回すどころか、シフトを三速に入れることすら叶っていない。それだけテクニカルな経路であると同時に、雪という強敵が立ちふさがっているのだ。タイムを削る削らない以前に、クルマを操ることすらままならない。

(なら……アレをやるしかねぇのか)

 眼の色を慎重から闘志へと変える、赤羽の顔つきが鋭いモノとなった。この先のパフォーマンスについて腹を決めて、クラッシュし立ち止まることを思考から排除する。勝つためには、これしかない。

 そう頭に浮かべた矢先、彼の目前に予期せぬトラップが飛び込んできた。


 青海と黒崎の友人である白島(はくしま)は、理学部二号館の入口付近でギャラリーをしていた。ただし一人だけで観戦するのはどこか淋しいので、隣に自動車部の部員である入谷(いりや)を連れてきている。

彼とは学部も学年も違うのだが、SRCのギャラリーや直接対決を経て顔馴染みとなった仲だ。二人とも性格が大人しくて似ているということも、意気投合できた要因だろうか。

「先輩、こんなところでギャラリーしてていいんですか?」

「もっといい場所があるんじゃないか、ってこと?」

「いや、そうとは言ってませんけど……」

 入谷が口ごもるのを見て、その心配も当然だなと白島は納得する。SRCに際して黒崎はいつも青海の近くでスターターを務めているのに対し、彼は試合前に二人の下へあまり立ち寄らない。今回だってスタート地点からやや離れた場所で、こうして後輩の入谷と共にギャラリーをしている。その理由を、白島は小さく呟いた。

「僕は別に、青海や黒崎を応援したい訳じゃないから。二人の走りを見てワクワクしたい、言ってしまえばファンなんだよ」

「でも、サーキットでのレースだって、ピットウォークとかありますよ? 青海さんたちを応援したいんだったら、やっぱりレース前に顔を合わせるのくらい――」

「それは、レーサーのファンがすることだよ。僕は青海たちドライバーじゃなくて、そのドライビングのファンなんだ。だからこうして、間近でギャラリーするのを優先してる」

 要は、興味の対象が何であるかの問題だ。白島にとって青海らのSRCテクが非常に興味をそそるモノであるのに対し、青海や黒崎という人物には友達以上の感情と距離感を有していない。彼らが遠い存在である入谷と違って、彼は青海たちと親友であるからこそ、キャラクターのファンにはなれない。

「ヒトが憧れるのは、雲の上の存在なんだよ。例えば入谷くんにとって、青海はまさしく雲の上の存在だ。でも僕は青海の友達だから、青海と近い距離に居るから、青海に憧れることはない」

「一方でドライビングに限れば、手の届かない領域だから憧れる……ってことですね」

 ようやく入谷が納得したところで、北側から地を衝くようなボクサーサウンドが聞こえてきた。この音は、赤羽の<86>の排気音だろう。

「SRC、始まったみたいだね。先行は赤羽さんだったかな」

「スタート地点からここまで三〇秒もないですから、すぐに分かりますよ」

 確かに彼の言う通り、誰が来るかは近いうちに判明する。ただしその三〇秒を待つのがしばし暇なので、白島は入谷に話を振り出した。

「ねぇ、どうして僕がここをギャラリーポイントに選んだか分かるかな?」

「さぁ……ヒトも多いですし、単純に人気だからなんじゃ」

 入谷が周囲を見渡す。この付近には彼ら以外にも、大勢のギャラリーが押し寄せていた。理学部二号館や工学部情シス棟の窓からも、身を乗り出して観戦している者が何人も居る。その理由は単純に、理学部ロングストレート付近のギャラリースペースが広いからだろう。しかし白島はもう一つ、そのような一般のギャラリーとは異なる視点を持っていた。

「理学部の一号館と二号館に挟まれた――ちょうど、渡り廊下の一階部分ってなるのかな。僕らの目の前にあるこの地点は、全学一号館から伸びるストレートの終端に値する。これは分かるよね?」

「見たままですからね」

 二人の視線の先にあるのは、理学部一号館と二号館を繋いでいる渡り廊下。その一階部分は壁も取っ払われていて、廊下というよりは車道を横切る横断歩道だ。アスファルトで舗装されているし、トラックも通行できるほどの幅が確保されている。因みに普段はここに車両侵入防止用のポールが数本立っているが、SRCの際は邪魔なので有志諸君により一時的に撤去されている。

「つまりこの地点は車道と廊下とが交差してるってことになるけど、理学部棟の一階部分って地面よりも少し高いレベルにあるんだよ。だから理学部一階から車道部分へと降りて渡るため、階段が設置されている」

「ここからも見えるあれですよね? 灰色の、コンクリートで出来た」

 入谷が指差すと時を同じくして、エグゾーストノートが近付いてきた。やがて真っ赤な車体が見える、あのクーペは赤羽のトヨタ<86>だ。講義実験棟前の右コーナーは、盛大なドリフトで駆け抜けている。

 リアを左に滑らせながら、<86>が雪の中でもがくように立ち上がる。ストレートを存分に加速していって、徐々にそのシルエットが大きくなってゆく。赤と爆音がこちらへ飛んでくる、白島がそれに負けじとこの場所のツボを入谷に告げた。

「右コーナーから伸びる幅員十分のストレートだけど、このクロス部分ではその階段の分だけ幅が狭くなる!」

 今になって<86>もそれに気付いたのか、慌てるようにしてブレーキング。コーナリングワークが制限されてしまう中で、現状はオーバースピードにしか見えない。それを何とか誤魔化さんと、タイヤのグリップを捨ててドリフト。白煙と雪が周囲に舞い散り、スキール音と白に場が支配される。何も見えない、聞こえない中で、それでも白島らには見える光景があった。

 赤い<86>がバンプに斜め横から引っ掛かり、わずかだが宙を舞って理学部ロングストレートに進入したのだ。


(くっそ……またしくじった!)

 赤羽が静かに悪態をつく。理学部棟の渡り廊下との交差地点、わずかに幅員が狭くなることを見逃しかけた。階段がホワイトグレーのコンクリート製で、積もった雪と半分同化していたのだ。それで気付くのが遅くなり、危機感を覚えてブレーキングに失敗してしまった。この雪での制動距離をまだ彼が把握しきれていない、というのも一因だろう。

 このトラップに嵌ったせいで、彼の<86>はスピードを逃がすドリフトを強要された。普通にブレーキを踏んでアウト・イン・アウトのラインを取った方が速いのにも関わらず、だ。WRC九度のチャンピオンであるセバスチャン・ローブの教えすら、金言であるはずなのに赤羽はまだ守れていない。

(俺って、雪道はこんな下手クソだったかぁ……?)

 渡り廊下を越えた先の右コーナー、理学部ロングストレート入口にバンプがあるのも不味かった。あれのせいで<86>のタイヤはキャッツアイに引っかかってしまい、ジャンプスポットでもないのに宙を飛んでしまった。タイヤが接地していないことは、タイムロスに直結するというのに。

 幸運なのは、このジャンプをギャラリーたちがパフォーマンスとして受け取ってくれたことだろうか。彼らのおかげで客観的には失敗とならず、赤羽のモチベーションも失われずに済んだ。だからロングストレートからホームストレートへと至る左コーナーは、ブレーキングミスを犯すこともなくグリップ走行で無事に通過する。

 このコーナーでようやく、彼は<86>の制動距離がどの程度なのかを正確に掴めた。気持ちとして普段の四割ほど手前から踏まなければ、このクルマは綺麗に止まってくれない。

「全くよぉ、駄々っ子だよな……お前も、雪も」

 愛車のブレーキに語りかけながら、赤羽が右足でアクセルを踏み倒す。<FA20>エンジンの低速トルクが後輪側から彼を押し、ホームストレートのバンプを勢い良く乗り越える。そしてすぐに右足をブレーキペダルに移し、全力を尽くしてブレーキング。ブレーキディスクの赤熱を感じ、前輪のタイヤハウスから白い煙が見えたような気がした。

 ここから右へステアリングを倒せば、いよいよ逆走の教育学部テクニカルセクションだ。


 #2 Wheels of Fire/Dave Rodgers(SUPER EUROBEAT Vol.115)


 教育学部テクニカルセクションが逆走であるという情報を聞きつけて、教育学部エリアには大勢のギャラリーが集まっていた。和田氷子(わだひょうこ)・岬(みさき)姉妹もその内の二人で、ターンⅢのアウト側、ちょうど第一食堂の裏にあるランオフエリアに陣取っている。

 このテクニカルセクションの正規進入方向は体育館北ロングストレートからとされているため、コーナーのナンバリングは南側からターンⅠ、ターンⅡと続き、最後にホームストレートとの接続部分、今回においてはこのセクションに進入してくるコーナーが、ターンⅤと名付けられている。そして現在和田姉妹が座っているターンⅢは曲率の緩い中速コーナーで、減速を強いられるテクニカルセクションの中でも比較的速いスピードで駆け抜けられるコーナーだ。そんな場所を間近で見られるのだから普段はこの位置も混むはずだが、外気温のせいか十人程度しか他に見えない。

「お姉ちゃん、やっぱここ寒い~……」

「ちょっとくらい我慢しなさいな、精々一時間くらいで済むんだし」

 岬が零した不平に対し、氷子は短く切り捨てた。やはり冬の雪では凍えてしまうため、今日は教育学部各棟の中からコースを見下ろして観戦するギャラリーが多い。しかし工学部生である氷子や、そもそもまだ高校生である岬には、学部棟の中に入れさせてもらえるようなコネクションがなかったのだ。

「見てよお姉ちゃん、コモ棟の窓から煙が出てる……絶対にニュルのギャラリーコーナーみたいに、バーベキューしながらSRC見てるよ」

「VIP席なんて、概してそんなもんよ。私たち下民は外でブルーシート広げるしかないんだから、悔しければうちの教育学部でも受験しなさいって」

「え~、お姉ちゃんだって私の成績知ってるクセに……」

 そんな距離感の近い会話を繰り広げていると、静まり返った雪景色の中で、やがて重低音のエグゾーストが歩み寄ってきた。次第にその音も大きくなってゆき、ギャラリーも徐々にざわめきだす。その場の皆が教育B棟前のターンⅣを凝視するが、普段に慣れているせいか、中にはロングストレート側を振り向いてしまう者も居た。

「さぁ、お待ちかねの<86>よ……岬、よく目に焼き付けときなさい」

「えっ、どこ?」

「あそこよ――凄いわ、ターンⅣをあんなに速いスピードでっ?!」

 姉妹の瞳に飛び込んできたのは、ターンⅣをマグマのように流れゆく<86>だった。盛大なドリフト走行は圧雪を周囲に撒き散らし、クルマのノーズがあらぬ方向を向きながらも極限の状態でコントロールされている。雪の中をもがくというよりは、槍と身体を勢い良く振るう修羅のような猛々しさがあった。

 テールライトの軌跡がちらと見え、真っ白な視界に深紅が雪崩れてくる。轟音と車体が肌を震わせ、今までに感じたことの無いような迫力が彼女らを支配した。上から眺めるだけでは分からない、この押し倒されるような衝撃。ボクサーサウンドは二人に駆け寄り、いよいよターンⅢに差し掛かる。

「私が<ニンジャ>で走った時とは、全然違う……!」

「でも岬、勝負はこれからよ! 全身全霊のターンⅢ!」

 姉妹の目前で<86>が震える。普段はアウト側から進入すべきところ、この赤羽はイン側に車体を寄せきっていた。ブレーキパッドの赤熱が残像を残し、リアタイヤが大きくこちら側に振られる。速度を落とし切る気が微塵もない。

 右前輪をインカットさせ、赤い<86>が横を向きながらのドリフトでターンⅢを掻き分けた。

「何よあれ、私みたいな普通のドリフトじゃない……本物のラリーのドリフトっ?!」

 氷子が思わず叫び散らす。一般的なドリフトはコース幅をいっぱいに使い切るため、大抵コーナーのアウト側へと走行ラインが徐々に膨らんでいく。しかしラリーテクニックとしてのドリフトは純粋に速く走るためのモノで、前輪を引っかけるようにしてインカットするのが特徴だ。

なるべく安全マージンを削り切り詰めるようにして、限界ギリギリの状態で攻め続ける。今現在の赤羽の走りは、完全にラリーテクのそれだった。

 そしてもう一つ、彼のクルマに驚くべきことが起きている。

「お姉ちゃん、フロントタイヤ見て!」

 岬に指図されるがままに、氷子がその視線を移動させる。まず視界に映ったのが白煙で、これは吹雪でもドリフトによるタイヤスモークでもないように見えた。そして心なしか、轍がいつもよりはっきりと現れているように思える。最後に赤羽の<86>へ目をやると、信じられない光景が彼女の脳裏を炙って焼いた。

「な、そんな……っ!」

 赤い<86>のフロントタイヤが、出火して燃え盛っていた。


 教育学部テクニカルセクションのターンⅢを駆け抜けたあたりで、赤羽は確かな感触を拾うことが出来た。

「よし……これでイケる!」

 このテクニカルセクションでは、わざと急な加減速を繰り返した。そうして意図的にフロントブレーキへの負担をかけさせ、発熱により火を起こす。これは単なるブレーキトラブルではなく、彼がスノーラリーをコンマ一秒でも速く走るために考案した『作戦』だった。

 <86>はFR駆動(Front Engine Rear Drive)のクルマであり、エンジンが車体前方にあるのに対して後輪が駆動する。つまり駆動輪の直上に重量物が載っておらず、接地性(トラクション)に劣るためタイヤが空転してしまうのだ。路面ミューが低いスノーラリーならば尚更で、どうにかしてリアタイヤのグリップを発生させてトラクションを稼がねばならない。そこで赤羽が思い付いたのが、このフロントタイヤ炎上だ。

 ブレーキは運動エネルギーを熱エネルギーに変換し放出するシステムであり、つまりトップスピードからのフルブレーキングで過負荷をかけることで異常発熱をする。フロントブレーキに負担をかけさせ出火させるのに、低速コーナーの連続したテクニカルセクションはとてもマッチしていた。いくつもの加減速が必然的に要求されるここならば、ブレーキを暖めることだって容易い。

 滑る氷の上が嫌ならば、氷を溶かしてしまえばいい。<86>のフロントタイヤから出火させることで路面を溶かし、そこを後輪が通過する時にはただの水たまりとする。そうすることで限定的にだがリアタイヤのグリップを復活させ、エンジンの駆動力を効率良く路面に伝えさせる。一分一秒を争うタイムアタックでは、ここまでしなければ到底勝てない。

 赤羽はこの後半にしてようやく、スノーラリーでタイムを削る手法を編み出した。

(タイミング的には遅すぎる気がする、もう下手こいてる余裕はねぇ……急がないと、青海に軽々とタイムを越えられちまう!)

 ここまでのタイムは、スノーのSRCにしてはかなり速い部類になるだろう。しかし、それでは足りないのだ。青海の駆る<サンバー>はもう一ランク上の走りで、赤羽のタイムを越えてくる。だからこそ、この奇策が必要なのだ。

 ターンⅡとⅠをドリフトで流せば、雪上に綺麗な円弧が出来る。雪解け水の川となったそれをリアタイヤの溝が排水し、地面を蹴るようにして前へ進む。体育館北ロングストレートに進入すれば、後はストレートで融雪しながら進むだけだ。

 <サンバー>の弱点であるストレートスピードを突くには、この長い直線で<86>に鞭を打たねばならない。

「フロントタイヤが燃え尽きる前に……とっとと終わらすぜ、この周回っ!」

 赤羽が覇気を注いだところで、赤い<86>のシフトを上げる。前輪で雪を掻くように溶かせば、後輪でそれを掃き捨てる。そうしてグリップを生み出していけば、コンディションは雨の日とそう変わらない。今この瞬間の赤羽だけ、冬の雪の日から抜け出していた。

 ギャラリーの歓声が手に取るように分かる。ただでさえこの<86>は赤く、そして前輪すらも真っ赤に燃やしている。これで興奮しないという方が、てんで可笑しい話である。

 そんなギャラリーたちの期待に応えるようにして、赤羽はこのコンディションでも決してアクセルを緩めずに、体育館北ロングストレートを疾駆してゆく。

 このストレートをやがて抜けると、次に待ち受けるのは工学部ロングストレート。今回は逆走で助走区間があるため、二か所ある小さなバンプでも大きくジャンプしてしまうスポットがある。特に二つ目、工学部実験棟付近にあるバンプは最も勢い良く飛ぶので、『埼玉大学コリンズ・クレスト』として今回注目されている。

 第一食堂脇を通過した赤羽は、まず一つ目のバンプを飛び越えた。たった五メートルほどであっても、重力に逆らう浮遊感が彼を押し上げる。そして地面に吸い寄せられるようにして着地し、反対に純粋な重力による暴力が彼を蹴り飛ばした。これだけでも身体に酷いダメージがかかって気が狂いそうになるが、この先により大きなジャンプスポットもあるし、ギャラリーは彼の状態なんて気に留めやしない。だから、赤羽はひたすらにアクセルを踏んで加速するだけだ。

 フロントタイヤの火は常に絶やさず、氷の地面からグリップを引き出す。教職員駐車場のギャラリーを靡かせ、遂に埼玉大学コリンズ・クレストの本命へ。スピードメーターに視線を向ければ、針は時速百キロ以上を指している。アマチュアによるスノーラリーは、普通こんなにも速度を出さない。

 身体とクルマを大切にするなら、バンプの手前でやや減速すべきだ。進入時の勢いを殺さなければ、最悪姿勢を崩してクラッシュしてしまう。安全策を取り完走しなければ、そもそも青海と同じ土俵に立つことすらできない。

 しかし、ここで減速する考えは彼の頭になかった。千分の一秒でもゴールに速くクルマを運ばなければ、青海に勝つことはあり得ない。それにここでブレーキを踏むのは、赤羽のドライバーとしてのプライドが許さない。赤羽が小さく深呼吸をして、来たる衝撃への準備を整える。

 前輪を燃やす。後輪を回す。ハンドルを握る。

 <86>のノーズがシーソーのように跳ね上がり、視界から雪に覆われた道がフレームアウトした。

 目に映るのは<86>のボンネット、立ち枯れた並木、鈍色の雪空。足で何も蹴ることが出来ない、自分が銃弾にでもなった感覚。ステア操作もアクセルワークも、ブレーキングだって不可能になる。何も出来ない恐怖に襲われたのは、昨年の春、赤羽が同じくSRCでクルマごと一回転してクラッシュした時以来だった。

 六メートル、七メートルと飛翔したところで、重力に心臓を掴まれた感触を覚える。徐々に<86>が落下していき、ノーズから雪道へ突っ込もうとしていた。赤羽は非現実的な世界から急いで現実へと意識を引き戻し、空中ながらもシフトダウンをこなして次の左コーナーに備える。

 フロントタイヤが着地すると同時に雪が舞い踊り、そしてそれが程なくして水飛沫へと変わった。二月のスノーラリーであるはずなのに、まるで夏のグラベルラリーで水溜りにノーズダイブしたかのよう。

 次のコーナーまでの距離が短いため、必死の形相でブレーキング。プロジェクトミューのブレーキディスクが壊れそうになるのもいとわず、急停止する勢いで荷重をフロントに移動させる。そしてサイドブレーキを併用してまで、ステアリングを一気に左へと倒しドリフト。普通ならば曲がり切れず並木に突っ込むしかないところを、赤羽が大胆な動きで切り抜けようとした。

 しかし何事であっても、予想通りに行かないのがラリーだ。

「しまっ、オーバーが……っ!」

 フロントに荷重をかけ過ぎたのか、それともフロントグリップを失ってしまったのか。<86>のノーズがオーバーステアを起こし、コーナー出口ではなく実験棟の方を向いてしまったのだ。

 焦って逆側にハンドルを回し、アクセルを煽って修正を試みる。一回転をしてしまわないように、この異常な路面でも正常な挙動に戻せるように。あとは工学部東コロナーデストレート一本だけなのに、こんなところで終わってしまいたくない。

 そう願った赤羽に、必要なモノがたった一つだけあった。

「アクセルが――足りないっ!」

 欲して叫ぶ。勢いが足りない。ドリフトは元来クルマの進入スピード、つまり勢いを活かした走り方だ。このオーバーステア傾向だって、要はブレーキをビビッて踏み過ぎたからなのではないか?

 右足の踵で踏んでいたところを、完全に右足をアクセルペダルに移す。蹴り込むように力強くそのペダルを踏み込み、リアタイヤへと<FA20>二〇〇馬力、全ての駆動を伝える。空転を気にすることはない、融雪できていなくても構わない。ただ一心に後輪を回すことを考え、アクセルペダルを踏み倒す。

 そしてステアリングを正位置へと戻していけば、<86>の向きがゴール地点へと定まった。

 本日三回目の危機を、赤羽はどうにかして乗り越えた。インフィールド進入の複合コーナー、理学部での予期せぬジャンプ、そしてコリンズ・クレストの先でのハーフスピン……これらのイベントをギリギリのところでコントロールして、赤い<86>に傷一つ付けることなく、見事にクリアーして見せた。

 コロナーデストレートを走り切った先には、二分十秒ジャストという結果が待ち構えていた。


 #3 Liaison


 ツインストレートへと戻ってきた赤羽の<86>は、確かにフロントタイヤが焼け焦げているように見えた。

「赤羽さん……フロント燃やしたっての、本当だったんですね」

「あぁ、その通りだぜ青海。でも安心しろよ、この吹雪だからな。お前が走る頃には、俺の融かした轍にも新しく雪が積もってるだろ」

 クルマから降りた赤羽は、特に悪びれた様子もなくこう言った。タイヤだってタダではない、彼は自身のクルマを燃やしてまで勝ちにこだわった。だというのに、こうも飄々としている。空元気か、或いは――。

「青海。お前の走り、期待してるぜ」

 彼の肩に、赤羽の手が置かれる。<86>を出火させた代償を、この先輩は求めているのだ。それだけのことをする価値に見合った、そんなドライビングを要求している。

「……嬉しいですね」

 赤羽の手の上に自分の手を重ね、青海が顔を綻ばせる。競技前の緊張はそこになく、雪解け水のように澄んだ感情しかない。そんな彼を見て、赤羽は困惑した表情を浮かべた。

「まだ俺に勝ってもいないのに、かよ?」

「赤羽さんに期待されたことが、嬉しいんです。憧れのヒトに、そんなことされちゃ」

 青海は急逝した彼の兄の面影を、赤羽に重ねている。だから赤羽に期待されるというのは、目標としていた兄から同じことをされているようなモノだった。嬉しいというよりは、懐かしいのかもしれない。

「照れるな……ってか、お前も毎度よくそんなに堂々と口に出来るよな」

「それだけ、真っ直ぐなんですよ。流れ星のように」

 青海が右手を掲げると、赤羽も同様に右手を挙げる。そして勢い良くハイタッチをしたら、乾いた音が雪の中にも響いた。出走順は交代し、今度は後攻の青海となる。

「赤羽さんの期待、絶対に裏切りませんよ。二分十秒を越えて見せます」

「おうよ、やって見せてくれ。出来るもんなら、だけどな」

 陽気に言葉を交わしたら、青海はスバル<サンバー>の下へと歩を進めた。


 スタートラインに着けた<サンバー>のキャビンで、青海は窓を開けて外の黒崎や桃山と喋っていた。先程の走行で赤羽がコース上の雪を融かしたため、今は雪がまた積もるのを待っているところだ。イコールコンディションでなければ、たとえ勝利したとしても意味が無い。

「青海、赤羽さんのラリーを見てみてどうだった?」

「スノーラリーであろうとも、クルマの特性差は変わらない……この見通しが立ったってーだけでも、かなりの収穫だろ」

 黒崎が彼に問いかけてきた。<サンバー>はエンジンが非力だが車体重量が軽いため、<86>と比べてストレートで遅くコーナーで速い。立ち上がり加速はやや劣るだろうが、その分だけブレーキングで挽回できる。いつも成立しているこの構図は、今回とて例外ではない。

 今日赤羽が到着する前、青海は慣らしだが埼玉大学のコースを一通り走るレッキを済ませていた。雪道にかなり手間取ったものの、クルマの特性差に雪があまり影響しないことをその時から薄々勘付いていた。そして先程の赤羽がブレーキングでもたついていたあたり、この疑惑は事実なのだろう。

 携帯電話に着信があり、黒崎がそれに出るためその場を離れた。相手は恐らく、雪の積もり具合を観測しているマーシャルと思われる。交代するように、今度は桃山が話しかけてきた。

「黒崎くんとの話の続きだけど……青海くんは、勝てる自信があるんだね」

「いやさ、それがそーでもねーんだよ。五分五分か、むしろ六割くらいの確率で負けるかも」

「結構控えめなんだ。どうして?」

 普段青海が勝負を仕掛ける際は、大方勝算を掲げながら挑んでいる。それだけに彼の答えたこの少ない自信は、桃山にとっても意外だった。だけれども、意外だと嘆きたいのは青海の方である。

「赤羽さんが奇策に出たからよー、こんなにタイム上げてくるとは思わなかったんだよ。俺だってスノーラリーの経験は殆どゼロだし、普通に攻めたら勝てねーんだよなー……」

「でっ、でも……青海くんだったら、きっと大丈夫だって! 今までも何とかなってたんだし!」

 気弱になっていた青海に対して、彼女が激励の言葉をかけてくれた。どことなく月並みな気がしないでもないが、それでも彼に勇気を与えてくれたことは確かだ。

「……ホント、スタート前はいつも桃山にこうされてるな」

「青海くんの役に立てれば、私はそれだけで嬉しいよ」

 降雪の景色を背景にして、桃山が赤面しながら小さく微笑んだ。こういう表情に、彼はいつも元気づけられている。だから噛み締めるようにそれを心に焼き付け、電話でマーシャルと話していた黒崎に向けて叫ぶ。

「黒崎、もう準備は大丈夫か?!」

「あぁ、フルコースイエロー解除だ青海! これからカウント始めるぞ!」

 その合図と同時にセルを回し、<EN07X>エンジンに火を入れる。クルマから離れる桃山に親指を立てて返礼をして、ステアリングの正位置を確認。

「スタート五秒前! 四、三――」

 アクセルを空吹かしして回転数を上げ、スーパーチャージャーの動作を確認。すぐに左コーナーが待ち構えているため、左足はブレーキを踏めるようにしておく。

「二、一――」

 雪の深さは相当なモノだ、すぐに足をすくわれてしまいそう。スタックしてしまってはアタックも終わる、慎重にかつ迅速に。サイドブレーキに左手を当て、高まる緊張がタコメーターに表示される。

「行くぜ、GO!」

 ブレーキを解除しアクセルを踏んで、後輪が猪のように暴れ出す。それをトラクションとハンドリングで抑えつけ、反対に前輪が浮くような感覚に襲われながら、青海はスノーラリーのタイムアタックをアクセル全開で開始した。


 #4 Campus Summit/BAZOOKA Girl(SUPER EUROBEAT Vol.190)


「赤羽先輩のタイム――二分十秒って、スノーだったらかなり速いですよね」

 理学部二号館前のロータリーにて。入谷の投げかけた言葉に応えるように、白島が喉をうならせた。

「青海、超えるのが難しいかも……いくらクルマの特性差を突くのが青海のスタイルだからって、今回はバトルじゃないから」

「ラリーだったら、関係ないんですか? コースは同じなのに」

「駆け引きが出来ないからね」

 ゆっくりと入谷の方を向けば、彼が疑問符を瞳に浮かべている。しかしこのことを説明するのが難しいので、白島はとある例を提示してみた。

「僕の<ジューク>と入谷くんの<シビック>、二台がSRCをやってたとするよね。僕が先頭で、キミが抜きにかかろうとしてる。場所は『正門前モニュメントゲート』、ハードブレーキングが要求されるところだ。入谷くんなら、どうオーバーテイクするかな?」

「どう、って……そこでしたら、レイトブレーキングで前に出れば一発だと思います。コーナーの幅は狭いですし、その先の『駐輪場連続シケイン』はブロッキングで逃げ切れますし――あっ」

 突然声をあげたということは、彼も白島が何を言いたかったのか理解したのだろう。答え合わせをするように、白島に向かって回答を述べてきた。

「タイムアタックには、オーバーテイクが存在しない!」

「そうだよ、その通り。だから相手に仕掛けるポイントも無ければ、特性差を活かす部分も少ない。強いて言うなら……いかに自分のペースを乱さず、自分の特性に合った走りが出来るか、だね」

 特性差とは、言ってしまえば相手の弱点だ。例えば<サンバー>はストレートが力不足なので相手に抜かれやすく、逆にコーナーは速いため相手よりも優位に立てる。そのため<サンバー>はコーナリングの遅い相手に対し、持ち前の回頭性でオーバーテイクを仕掛けることが出来る。

 しかしラリーの場合はその追い抜きが存在しないため、特性差が要求される場面が存在しないのだ。全ての結果はタイムに帰結し、ゴール時にどちらが前だったかを競う訳ではない。つまり相手の弱点を突く必要が存在せず、特性差も『自分のクルマはどこでタイムを詰めることが出来るのか』というチャレンジの判断基準にしかならない。

「ラリーっていうのはね、つまり自分との闘いなんだよ。誰を抜けば勝てるわけでもない、ターゲットは過去の自分のタイム。一緒に走ってくれる人も居ないし、孤独に自分の走りをタイムで表現しなくちゃならない。だからラリーで重要なのは、駆け引きの得手不得手じゃなくて、自分に打ち克つ精神力なんだよ」

「地獄みたいですね……終わりが無いじゃないですか」

「それだからラリーは厳しいし、青海が赤羽さんに勝てるっていう論理的な根拠は存在しない」

 不安げな顔を浮かべながら、白島はインフィールドの方に目をやった。そろそろスタートする頃だろう、じきに青い<サンバー>がここにやってくる。その時に青海が自信に欠けたドライビングをしていたら、もう勝てる余地は残されていない。雪上の走りにおいて自分を越えなければ、赤羽だって越えられないから。

 しかしどうやら、そんな白島の心配も杞憂だったらしい。

「来ましたよ、<サンバー>ですっ!」

 入谷が指を差した先では、WRブルーに染められたスバル<サンバー>が華麗なコーナリングを決めていた。とても滑りやすい路面とは思えない、地面に磁石でくっ付いているかのように安定したコーナリングワーク。あの挙動を見る限り、ブレーキング含めた走行テクをスノーラリーに適応させることには成功したらしい。

「いや、それにしたって安定し過ぎてる……本当にスノーラリーだよねっ?!」

 思わず白島が叫んでしまう、当然軽トラの中に居る青海に向かって。そんな彼に対して応と答えたいのか、<サンバー>は幅員減少の階段を把握したうえでアウト側に車体を寄せた。

「あの挙動、もしや――!」

 そして間髪入れずに、すぐ右側へと車体を傾ける。ブレーキでの減速は最低限、むしろリアタイヤの回転を見るにアクセル全開だ。一瞬だけサイドブレーキを引いたのかノーズがコーナー出口の方を向き、流星のように真っ直ぐ理学部ロングストレートへと進入し駆けていった。

 そのコーナーは、一瞬の出来事だった。

「あれは――」

 <サンバー>のテールライトが小さくなるのを見送りながら、白島は無意識に言葉を漏らす。その呟きに入谷が反応すると、彼は慌てて思考を組み立てて言葉に形容した。

「特に滑りやすいスノーラリーでは、いくつかの特別なテクニックがあるんだけど……さっき青海が披露して見せたのが、そのうちの一つ。コーナー進入時、一旦アウト側に振ったよね?」

「はい、それでいきなりイン側に急転換して……アウト・イン・アウトだったら、もうちょっとゆったりとしたラインになりますよね。でも、あれはもっとタイトだった」

「あの曲がり方はね、遠心力を上手く使ってるんだよ。一度アウト側に振ることで荷重をクリッピング寄りにかけて、その勢いで一気にコーナーをクリアーする」

 モノが円運動をした際、外側へと向かって遠心力がかかる。例えばクルマが右に曲がる際は、左側の車輪に遠心力がかかることになる。そして上手くコーナーを曲がるコツは、どれだけ遠心力をかけずに曲がれるかにあるのだ。

 青海はこの右コーナーで、一旦アウト側(左側)へと車体を振った。すると遠心力は当然ながら、右側の車輪にかかることになる。そして急にステアリングを切り右折すると、今度は左側に遠心力がかかるはずである。しかし青海はあらかじめ反対の右側に荷重をかけていたため、遠心力が相殺され、結果として雪上であっても安定したコーナリングを達成することが出来た。

「ここまでのタイムを測ったら、青海先輩の方が速かったりしそうですね」

 だから入谷はこのように期待し、そしてそれはきっと間違いではない。

「それこそ、クルマの特性差を活かした走りってことだね。青海はちゃんと、自分のペースで走れてるよ。コーナリングの速い<サンバー>だから、きっとここからしばらくは赤羽さんよりも速いタイムで走れるはず。それだけなら良かったんだけど……」

「何か気になるんですか、白島先輩?」

 首を傾げる入谷に対し、彼は再びこの言葉を口にする。

「今回はバトルじゃないから。クルマの特性差はアドバンテージにならないよ、青海はこの先のストレートが正念場なんだ」

 もしこれがバトルだったのなら、青海はコーナーで相手をオーバーテイクし、後半のストレートはブロッキングで凌げば勝てる。しかし今回はラリーだ、<サンバー>のストレートの遅さが直接タイムに響いてくる。どれだけコーナーでタイムを稼いで、どれだけストレートでタイムを失わないか。青海の勝利は、この要素にかかっている。

 青海のSRCは、まだ始まったばかりである。


 #5 Love Gun/Derreck Simons(SUPER EUROBEAT Vol.62)


「何か、自信無くしちゃうな~……」

「どうしたの、お姉ちゃんらしくもない」

 第一食堂裏手、エスケープゾーンにて。途中のフルコースイエローのため小一時間も座りっぱなしであった和田姉妹だが、遂に氷子のメンタルが参ってしまった。妹の岬よりも早く音を上げてしまうのは、岬にとっても氷子にとっても意外だった。

「自分でも情けないけどさ。さっきの赤羽の<86>みたいなドリフト、私には絶対に出来ないな、って」

 教育学部H棟脇、愛車の<シルビア>を虚ろな眼差しで見つめる。フェンスとテクニカルセクションのターンⅡとの間にあるランオフエリアに駐車したそのクルマは、どう足掻いても皆の注目を浴びるような主役には見えそうもない。

彼女は今まで、このクルマで散々ドリフトの練習をしてきた。大学とアルバイトとの合間を見つけては、それこそ寝る間も惜しんで。それなのに<サンバー>とのSRCには敗れるし、先程の<86>のドリフトにすら彼女は遠く及ばない。そんな憧れとの遠い現実が、白銀の中の氷子を憂鬱にさせていた。

「目標を高く持ちすぎ……っていうか、あそこまでやらなくてもいいんじゃないのかな?」

 そんな彼女を、岬が慰めてくれる。普段は姉としての威厳を保っているが、いざという時はこの妹をつい頼りにしてしまう。

「あの<86>も<サンバー>も、言っちゃえばSRCに特化したモンスターだよ。あの人たちにはSRCがあって、だからあんなにもSRCで輝いてる。そしてお姉ちゃんには、SRCとは別の『輝けるステージ』があると思うんだ」

「輝ける、ステージ……」

「それがどういうモノなのか、私にはまだ分からないけどさ。でもきっと、いつかお姉ちゃんだけのステージが見つかるよ。だから元気を出して、今は楽しくSRCをギャラリーしよ?」

 手を繋ぎながら、岬が氷子の瞳をじっと覗き込む。彼女の温もりがじわじわと伝わってきて、甘いカフェオレに浸かったような柔らかい気持ちになってくる。いつの間にか氷子は岬のペースに乗せられていて、そして沈んだ気分から彼女を引き出してくれた。

「岬……そうよね、お姉ちゃんにはお姉ちゃんなりのステージがあるはずよね。ありがと、持ち直してきた」

 氷子がにこりと微笑みかけると、タイミング良くスーパーチャージャーの吸気音が聞こえてきた。もうそろそろ青海の<サンバー>が、このターンⅢに差し掛かってくる。いや、そう遠くはない――。

 ターンⅣを大胆にインカットしながら、WRブルーの軽トラがこの銀世界へと躍り出てきた。

「お姉ちゃん、あの<サンバー>すごく飛ばしてる!」

「そうね、ターンⅣはショートカットもしやすいから……! しかもその先に低速コーナーが待ってないから、逆走だとかなりスピードが出せるのよ!」

 テクニカルセクションのターンⅣは直角コーナーであるが、イン側はレンガ敷で舗装されているだけで障害物が存在しない。だからインカットするには丁度良いが、それだけではこの<サンバー>を説明しきれない。もう一つの要素が、『逆走』だ。

 順走だとターンⅣの先に待ち構えているのは、ハードブレーキングを伴う低速コーナーのターンⅤ。しかし今回ターンⅣの後に隠れているターンⅢは、スピードがある程度乗っていてもクリアーできる中速コーナーだ。そのためターンⅣで速度を落とさずに通過しても、次のコーナーで曲がり切れないという事態は避けられるのだ。

 それに加えて、青海の<サンバー>はコーナリングワークに特化したクルマだ。<86>の六割程度しかない車重の軽さは遠心力を減らし、そのため<86>よりも高い速度でテクニカルセクションを攻略できる。和田姉妹の目にこんなにもスピーディに映ったのは、『軽トラであること』も理由の一つだった。

「あの<サンバー>、コーナリングマシンの特性をあんなにも振り絞ってまで!」

 氷子がそう驚愕するのも束の間、<サンバー>はすぐにターンⅢへと挑んでゆく。緩い中速コーナーといえども、決して侮ってはいけない。低速の直角コーナーが多いこのセクションにおいて、大きくリズムを崩してくる難所なのだから。

「さぁ、どう来るのっ?! グリップか、ドリフトか!」

 彼女の期待に応えるように、青い軽トラはわずかに減速。そうして荷重をフロントに掛け、同時にステアリングを大きく操作、荷重の抜けたリアを左へ大きく振り回す。この動きはドリフトだ、しかも雪道の低ミューを最大限に活かした走り。

 けれども一つだけ、失敗としか思えないことがある。

「お姉ちゃん見て、振り始めが早すぎるっ!」

 岬の叫びが、ギャラリーの総意を代弁する。<サンバー>がドリフトをし始めた地点は短いストレートの中腹、つまり横を向きながら猛スピードでこのコーナーに突っ込んできているのだ。スバルのステッカーが貼られた側面が、こちら側へと真っ直ぐ迫ってくる。あれではステアリング操作どころか、ブレーキすら効かないだろう。

 ドリフトと言うよりは、あれは最早スピン状態だ。

「こっちに、ぶつかる――!」

 せめて岬を庇おうと、氷子が妹に覆いかぶさろうとする。スローモーションで映る情景は、テールライトがこちらに向きそうな軽トラ。一回転でもしそうな勢いで、ホイールも完全にロックしている。完全なアンコントロール状態。いや、一瞬だけタイヤがバックの方向へと回った。

 青が迫る。白銀に飛び込む。撒き散らす雪がギャラリーに降りかかる。

 しかし<サンバー>はコースアウトするギリギリのところで、スイッチでも入れ替わったかのように進行方向が車体前方へと急転した。

「――そんな」

 頭に乗った雪を払いながら、氷子が思わず声を漏らす。死ぬかと思っていた。ぶつかると確信したのに、あの<サンバー>はどうしてか道を外れることすらしなかった。とても素早く、そして華麗なドリフト。まるでノーズがコーナー出口を向くよう、最初から意図的に横向きに進入したかのように。

「お姉ちゃん、あれって……!」

「……神岡ターン」

 血が沸騰しそうな岬の問いかけに、現実味がなく魂の抜けた声で氷子が答える。

 神岡ターン。コーナー出口で上手く脱出できるよう、距離のあるストレートをドリフトしながら進入する技だ。ポイントはタイヤのグリップを完全に失わせることと、オーバースピードで突っ込むこと、そしてドリフト中に一瞬だけリバースギアに入れて後退すること。こうすることでスピン状態でも安定するようになり、後はクリッピングポイントを抜けてアクセルを全開にするだけだ。

 今回の青海がこのテクに成功したのは、雪の恩恵が大きいだろう。摩擦係数が小さいこの路面なら、勢いを殺すことなくドリフトで攻められる。タイヤのグリップも無くなればオーバースピードの条件も満たすので、神岡ターンの難易度が若干だが下がるのだ。

 この鳥肌が立つようなドリフトを目の当たりにして、氷子が抱いた感想が『これは自分のステージではない』だった。あんなにも大迫力のパフォーマンスが出来れば、彼女だって一躍スターになれるだろう。しかし、あの神岡ターンは彼女のやるような技ではない。

「あれが、SRCで速く走るためのドリフト――『青い流れ星』」

 抑揚のない声で呟く、ショックのせいで脳が麻痺していた。氷子が目指すのは見世物としてのドリフト競技で、あの<サンバー>は決してその枠に収まらない。見られる時間がほんの一瞬で、観客を沸き立たせることが出来ない。現在彼女が感じているショックは、流れ星に願い事を乗せられなかった時のそれに近い。

 そんな『青い流れ星』であるスバル<サンバー>は、ターンⅢの先にあるストレートを走り切り、もうターンⅡへと差し掛かっている。ブレーキランプが強く点灯し、ディスクブレーキの赤熱も綺麗だ。このまま順調に行けば、間違いなく赤羽の<86>のタイムを越えられる。

 しかし何事であっても、予想通りに行かないのがラリーだ。

「あれ……タイヤがロックしてるよ、お姉ちゃんっ!」

 岬が指差す先を見ると、<サンバー>の前輪が転がっていなかった。あれではブレーキも当然効かず、クルマのバランスを崩してしまう。今度の<サンバー>は間違いなく、スピン状態に陥っていた。

 ノーズが教育学部H棟の方を向き、ランオフエリアへと飛び込んでしまう。ステアリング操作で踏ん張ることで、何とかして方向転換を試みる。当然、減速し切れていないスピードで。

「待ちなさいよ、あの方向ってもしかして――!」

 青い<サンバー>がコースアウトしたのは、H棟の西側にあるゾーン。ここはターンⅡのアウト側なので、もしコースに復帰したいのなら左へ大きく回って、体育館北ロングストレートの端からコースインすることになる。ランオフエリアが狭いため左折できるかという懸念があるが、最悪それは何とでもなる。しかしもう一つ、<サンバー>に大きな壁が立ちはだかっていた。

 ターンⅠ-ターンⅡ間のストレート脇には、氷子の<シルビア>が横向きに駐車されているのだ。

 <サンバー>の進路を、彼女の愛車が塞いでいる。しかも横向きなので、軽トラ一台が通れるスペースはわずかしかない。仮にあのスピードで<サンバー>が曲がれたとしても、<シルビア>相手にTボーンクラッシュを喫してしまう。

 絶体絶命の、正念場。誰もが終わったと絶望しながら、青い軽トラをただ見つめるだけ。何をしてやることも出来ず、<サンバー>の夢が壊されてしまう。

「お願い、クラッシュしないで!」

 先程燃え尽きた流れ星に、氷子は数秒遅れの願い事を叫ぶ。

 しかし、『青い流れ星』はまだ流れて続けていた。


 ブレーキがロックし、青海は全てを諦めかけた。彼の<サンバー>が言うことを聞かなくなり、ターンⅡアウト側のランオフエリアへと飛び込んでしまう。ブレーキペダルをすぐにリリースし、アクセルワークで何とか舵を取り戻そうとした。

 コース上でなければ雪は深く積もっているので、減速効果も少しだが存在する。それに赤羽の融かした雪が固まり氷となった路面よりは、こちらの方がグリップもある。だから青海はこのランオフエリアでクルマのコントロールを回復させたが、すると目の前にとんでもない難問が現れてくる。

 進みたい方向に、S15型の黒い<シルビア>が停まっていた。あれは確か、和田姉のクルマだ。このままのスピードだとフェンスに衝突してしまうため、ただでさえ左に回避したいというのに、そこが塞がれてしまっているとは。

(これを、どうしろってんだ――!)

 頭の中で、考える。直進も右折も論外だ。SRCに復帰するには、左に曲がるしかない。でも、どうやって?

 進行方向をもう一度見る。目の前にあるのは、黒いクルマ。その手前からコースに復帰するだけの距離はなく、あれをオーバーテイクしなければならない。せめて、どうにかして抜ければ――。

 そこで彼の視界の端に、救いの抜け道が現れた。

「――あれだっ!」

 再度ブレーキを踏んで荷重移動、フェンスに激突する寸前のところで小さくブレーキングドリフト。方向転換だけを目的としたそれにより、<サンバー>はフェンスと紙一重のラインを駆け抜ける。しかしその先に待ち受けるのは、障害となるS15 <シルビア>。

 突如<サンバー>が、サイドミラーを畳む。滞った空間をレジュームさせるため、正確な時計の針のように切っ先を動かす。

そして向きを変えた先にあるクルマへと、突っ込むように加速する。

 フェンスと<シルビア>との間にある狭いスペースに、『青い流れ星』がテールライトの尾を曳いた。

 縦列駐車など比ではないほどに、わずかな隙間を緻密に通り抜ける。五円玉の穴に矢を射るような、信じられない精度で青海はこのピンチを乗り切ったのだ。

和田姉がフェンスぴったりに駐車せず、少しスペースを開けていてくれて助かった。斜め進入なら確実にどこかぶつけていたが、直角に進入すればクルマのどこにも傷を付けなくて済む。このタイミングで機転が利いたのは、完全に偶然の幸運だった。

「何とかなった……次はっ?!」

 彼が視線を送る先は、体育館北ロングストレート。このまま直進して西門から進入し、すぐさま左折しコースに復帰。アクセル全開のリスタートで、この長い直線を必死に駆ける。コースアウトした後れを、取り戻さねば。

(今、赤羽さんから何秒遅れだ……?!)

 <86>もいくつかミスを犯したとは白島や和田姉たちから事前に連絡が入っているが、それでもコースの中に留まっていた。一方で青海は、盛大にコースアウトしてしまったのだ。この差は大きい、五秒以上あるかもしれない。千分の一秒も惜しいというのに。

 テクニカルセクションまでの区間で、青海の<サンバー>は二秒ほど速かった。ターンⅢまで含めれば、約二、五秒のリードだろう。もしそれが逆にプラス二、五秒の差で遅れていたら、もう残りのセクターでは取り返せない。<サンバー>の苦手な、ストレートしか残されていないのだから。

(直線ゼロ加速を試して――いや、ダメだ! もっと型破りな、赤羽さんの出火みたいな切り札が無いと……っ!)

 焦燥感が彼を襲う、ストレートがかったるい。低回転域の立ち上がり加速を活かした『直線ゼロ加速』だけでは、残りたった二本のストレートだけで挽回することは不可能。何かやらねばならないが、そう悩んでいる内に工学部ロングストレートへと迷い込んでしまう。先程の<シルビア>回避で、集中力を大分使い切ってしまった。

「ダメだ、ダメだ! 考えがまとまらねー……!」

 レッドゾーンまで回す勢いで、<EN07X>エンジンを酷使する。雪原に轟くエグゾーストは、<サンバー>の呻き声か泣き声だろう。シフトチェンジを少しでも遅らせて、なるべく加速をかけるように走る。もう、限界に近い。

 そんな最中、埼玉大学コリンズ・クレストの一つ目を飛び越えた。急に襲い掛かる浮遊感と振動に、青海の思考がセーキのようにかき混ぜられる。気分は最悪だ、それ以上に状況が最悪だ。このままでは負けてしまう、自分の申し込んだ戦いに負けてしまう。全力を出せずに、負けてしまう。

 着地の衝撃で、身体が前のめりに沈んだ。シートベルトが限界まで伸び、視界が自身の太腿で覆いつくされる。荷重が激しくフロントにかかり、いやこれは過負荷と表現すべきだ。サスペンションの折れそうな衝撃に、青海の心も折れそうになる。

 しかしシェイクされた青海の思考は、この瞬間にメレンゲのように固まった。

(――いや、フロントに過負荷? だったら……っ!)

 クルマの前方に荷重がかかるのは、今の着地のような場合の他にもう一つ、ブレーキングの場合がある。慣性の法則に従って、高速移動を続けていたクルマは急停止する時にそのまま前進しようとするからだ。その際の歪みがフロントに現れ、その一点のみに全車重が集中する。

そしてこのことを応用して、フロントを軸にしながら荷重の抜けたリアタイヤを意図的に滑らせるのが、いわゆるドリフト走行だ。だからドリフトをする前には、必ずブレーキを踏まねばならない。

 しかし今回、この法則に従わない例外が生まれた。

「あるじゃねーか……こんなストレートの連続にも、お前が輝けるコーナーが! なぁ、<サンバー>っ?!」

 青海が相棒に語りかける、相棒は青海に応と答える。WRブルーの軽トラは音を上げることもなく、彼の期待にこうも応えてくれる。だから、安心して命を預けられる。

 工学部建設工学科棟を通過し、二つ目のコリンズ・クレストに差し掛かる。衝撃を和らげるためにブレーキを踏むべきところを、青海はアクセルを緩めることすらしない。時速百キロに近い速度で、バンプを飛び越えんと猛進する。その速度は、アマチュアのスノーラリーのそれではない。

 まるでカタパルトにかけられた弾丸のように、その青い<サンバー>は投射された。

 コリンズ・クレストを飛ぶことで見える、普段見ることのない高さからの景色。大学東側の路地が迷路のように広がっていることが、俯瞰してみて初めて分かった。吹雪をワイパー二本が振り払い、空気抵抗を物ともせずに進む。鹿がジャンプした程度の高さでも、それでも青海にとってそれは新鮮だった。

 そしてすぐさま前方視界が降下を始め、クルマが傾いているのを運転席から感じる。遥か昔に学校でやった水泳の飛び込みを、青海は瞬間的に思い出した。身体は小さく纏め、暴れないように。その時の教えを忠実に守り、クルマの鼻先から真っ直ぐに美しく着地。しかし七〇〇キログラムは流石にノースプラッシュを許してくれず、雪の飛沫を津波のように撒き散らす。ギャラリーが付けてくれた点数は、一体何点だったのだろう。

 サスペンションは着地の衝撃に耐え、<サンバー>が勢い良くノーズダイブ。荷重の移動を身体で受け止め、フロントバンパーは地面に擦れてしまいそう。飛距離はどれくらいだ、もしかしたら十メートルどころの話ではないかもしれない。もう左には、工学部の第二実験棟が見えないのだから。

 セオリーなら、コリンズ・クレストを着地してすぐにブレーキングだ。ロングストレートとコロナーデストレートとの間には、直角コーナーが挿入されているからである。減速してからでないと普通はクリアーできず、失敗すれば東側の並木に突き刺さってしまう。

 だというのに、青海は足を一切ブレーキペダルに置かなかった。

「さぁ行くぜ、相棒よぉっ!」

 腹の底から合図を叫ぶ。スーパーチャージャーは唸り切っている。シフトをダウンさせエンジンブレーキをかけるも、それは大きくは影響しない。ステアリングを急に左へ倒し、信じられないほどにアクセルを煽る。

 ノーズダイブした際のフロント荷重だけで、青海は<サンバー>をドリフトさせてみせた。

 スキール音が雪を舞い散らす。ヘッドライトの光軸がコースを薙ぐ。『青い流れ星』の煌めきは、埼玉大学という宇宙の最果てでも観測された。

 もしかしたら、これも一種の慣性ドリフトなのかもしれない。減速を一切伴わず、着地の際の荷重移動だけでドリフトしてしまう。驚くべきことに、この青海はブレーキングすら省いてしまったのだ。

 本来はジャンプしても着地点とコーナーまで多少のストレート長があるはずで、そのためブレーキングは必須のはずだった。しかし<サンバー>の軽量車体と一切減速しないストレートスピードさえあれば、そのストレートすら飛び越えてしまう。そうすることで彼はブレーキングを省略することに成功し、それはつまりコーナー通過速度とコロナーデストレートのスピードが段違いに速いことを指し示している。

 九〇度回頭する<サンバー>のテールが、赤い弧の残像を空中に描く。リアタイヤの回転は雪を掘り起こしているようで、白煙がタイヤスモークなのか粉雪なのか判別不能。たった一瞬しかそのコーナーに留まっていないにも関わらず、白銀の積雪が青い車体を反射して、コリンズ・クレストのギャラリーに強烈な印象を叩き込んだ。

 そしてドリフト状態から真っ直ぐに立ち上がり、WRブルーのスバル<サンバー>は雪道のコロナーデを軽快に駆け抜けた。もう加速を振り絞った状態で、長いストレートを滑るように進む。そしてとうとう雪上の流れ星は、的を撃ち抜く銃弾の如くフライングフィニッシュで東門を通過した。

 リザルトは、二分十秒から千分の五秒プラスという僅差だった。


 #6 Finish Control


「……負けちゃいました」

 全学教養ツインストレート上にて、<サンバー>から降りた青海が赤羽に向かって一言零す。それを聞いた赤羽はマルボロに火を点け、勢いの弱まった雪をぼんやりと眺めながら一吹かしした。青海と目線を合わせることもなく、青海にとって少々意外なセリフを口にしてくる。

「お前が負けたとは、到底思えない状況だけどな」

「どーしてですか? タイム差が、千分の五秒しか無かったからですか」

「お前のコースアウトさえ無ければ、お前の<サンバー>が圧勝してたからだよ。あんなハンデを背負って尚千分の五秒しか落ちてないんなら、俺が勝ったとは言い難いさ」

 怒りでもなく、諦めが多分に含まれた赤羽の口調。試合に勝って勝負に負けたことへの脱力感が、今の赤羽にタバコを吹かせている。雪は、物悲しそうに深々と降っていた。

 青海のコースアウトを除くとすれば、純粋なコースタイムは青海の方が何秒も速い。雪道に慣れていない空っ風の埼玉県民に、スノーラリーで後れを取ってしまった。雪国出身の赤羽にとって、このことは相当なショックなのだろう。そんな彼の心中を察して、青海はかけるべき言葉を探した。

「何て言えばいいか、分からないですけど……赤羽さんだったら、俺みたいなコースアウトはしないと思います。ってーか、現に赤羽さんはコースから外れませんでしたし」

「レーシングドライバーに必要なのは、クルマをクラッシュせずにゴールラインまで運ぶ能力……青海、お前はこう言いたいのか?」

「そーです、それですよ!」

 思考がスッキリした青海に対して、赤羽は浮かない表情を見せている。携帯灰皿を取り出して吸殻を捨ててから、彼はインフィールドの方へ目をやった。

「俺は三回スピンしかけたが、コースアウトは一回もしなかった……か。ありがとな、青海。慰めてくれて」

 赤羽の大きな右手が、青海の頭をわしゃわしゃと撫でてくれる。この時にようやく、彼は青海の方を向いてくれた。そのことが嬉しくて、青海は今回の敗者であるにも関わらず眩しい顔を表していた。

「赤羽さんの力になれたなら、俺はそれだけでも満足ですよ」

「負けたのにか?」

「また春になったら、一緒に走りましょうよ。今度負けなければ、それで十分です」

 青海が赤羽の瞳を真っ直ぐ見つめながら声に出すと、彼はクスリと笑いながら返してくれる。

「そうだな、また次がある。ナーバスになってるのも馬鹿々々しく思えてきたよ……今度も俺が勝てば、またその次ってどうせ言うんだろ?」

「当然ですよ。サーキットに終わりは無くて、ループしてるんですから」

 そして二人がハイタッチをすることで、SRCラリー・スノーは赤羽の辛勝という形で幕を下ろした。


 しばらくしてから青海と赤羽の下にやってきたのは、黒崎と白島の二人組だった。

「あれっ、今回は白島も居るのか。珍しくねーか?」

「偶にはいいかな、って思って。駅まで送ってって欲しいし」

「あー、この雪のせいでバスが混むから……<サンバー>の荷台だったら空いてるぞ」

「青海、僕を凍死させる気じゃないよね……?」

 二人して冗談を飛ばしていると、黒崎が会話に割って入ってきた。

「にしても、まさか青海が負けるとはな。本当に、SRCは何が起こるか分からないもんだ」

「そこまで言うかよ、俺だって負ける時くらいあるさ。特に、雪道の経験なんて少ねーし」

 いくらレッキを済ませているとはいえ、青海はやはりスノーラリー初心者だったということだ。勝負の明暗を分けた千分の五秒の差は、ここに起因しているのだろう。しかし赤羽は、このことに異を唱えた。

「……青海、本当にそうだと思うか? インフィールドとかは特に、俺よりもお前の方が速かっただろう」

「うーん……そこは結局、総合力の問題なんじゃないんですかね? どういうクルマで、どんなドライバーで、どれだけそのクルマとの信頼関係を築けているか。それさえしっかりしていれば、路面コンディションなんて大して影響しないと思いますよ」

「それじゃあよ、雪道の経験の差はどうなるんだよ?」

「大きなミスの確率……『どれだけ失敗せずに走り、そしてしくじった際のリカバリーを早急に構築できるか』、ですかね」

 赤羽が勝利した理由を、青海はこう考えていた。ただミスの回数だけで勝敗が決まるのなら、赤羽は三回もスピンを喫しかけている。それならばどうして彼の方が速かったのか、それはやはりリカバリーの経験値の差から来ているのだろう。青海が話を続ける。

「ヒトはミスを犯した時、大抵パニック状態に陥ります。けれどもそのミスから立て直すには、冷静でいなければならない。それなら冷静でいられるにはどうすればいいか」

「場数を踏んで慣れればいい、ってことか。確かにな、俺も地元で何回もスピンしかけた。その経験が活きて、この結果になったってことか」

「そうですよ、そればっかりは俺でも勝てません」

 にこやかに微笑みながら口にすると、赤羽も笑顔で返してくれる。大分気分を持ち直したらしい。そんな二人を眺めながら話題を転換せんと、白島が三人に対して口を割る。

「ところで、青海が負けたってことは。SRCのチャンピオンシップは、どうなるのかな」

「んあ? それは変わらねーぞ白島、チャンプは一応俺のもんだ」

「どうして?」

「それはな、今回がエキシビジョンマッチに相当するからだ。もうシーズンも終わったしな」

 黒崎の回答で、白島も納得したような顔を見せる。今年度のSRCは十月末の青海対白島戦で終了しており、その時点で青海のタイトル獲得が確定している。それ以降のシーズンオフ中に何をやろうと、このシーズンの結果には何ら影響しないのだ。だから青海がいくら負けたところでチャンピオンシップには関係せず、気楽にバトルをすることが出来た。

「……それって、二人ともバトル中に燃えたの?」

「おう、何だ白島? 俺の<86>はブレーキが燃えたぞ」

「違いますよ先輩、燃える闘志の方ですよ」

「あれっ、凍死するのは白島の方じゃ無かったか?」

「止めてくださいよ……僕、突っ込みには慣れてないんですって」

 赤羽のボケの応酬に、白島がいい加減辟易した。一応彼の両親は広島出身であり、彼自身も関西での居住経験が僅かにだがある。そのためノリ突っ込みが出来そうな気がするのだが、どうやらそうでもないらしい。

「そーいや黒崎、桃山はどこ行った?」

 彼女との約束をふと思い出したので、青海が黒崎に尋ねる。対して黒崎は、教養学部棟の方を指差した。

「アイツなら、多分ゼミ室で暖を取ってるぞ。流石に寒さが応えたらしい」

「いつもはバトル後真っ先に俺のところへ飛んでくるのに、今日はヒーターを優先したんだなー……」

「だって、お前負けたじゃん」

「えっ、そーゆー問題なのかよ」

 今度は黒崎から冗談を引っかけられ、青海もどことなく白島の気持ちが理解できた気がした。

「まぁいーか。俺、桃山を家まで送るってスタート前から約束してたんだよ。だから悪い、ここで抜けるわ」

「いや、それは別にいいけど……僕、完全にお邪魔だったね」

「涙拭けよ白島、俺の<86>で送ってやるから」

「うぅ、恩に着ます……」

 涙ぐむ白島、なだめる赤羽、そして手を振る黒崎。

 彼らに踵を返して、青海は教養学部棟の方へと雪の中にも関わらず走り出した。


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SRC! ――埼玉大学ラリー選手権―― 柊 恭 @ichinose51

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