深層理解アクセス~真紅の瞳と銀の嘘~
ジョワ
第一章『運命の始動点』
第零話 『その名は、レッズ』
じっとりとした、熱帯の夜だった。
入り組んだ路地にぽつんと置かれた街灯が夜道を照らし、群がる羽虫の影を映している。
ジジジ、と点滅する古びた街灯。そこに大きな影が映り込み羽虫の影を覆い隠した瞬間、それはバッとスクロールした。
「ハッ……ハッ……!」
影の正体は、高校生くらいの少女である。
高校の制服姿の彼女は短いスカートが翻るのにも構わず、たまのような汗を額に浮かべ走っている。
コンクリートの道を疾走する姿は単なるランニングの延長などではなかった。必死に腕を振り、今にも竦んで動けなくなってしまいそうな脚を懸命に動かす。
「ひっ!?」
そんな少女の後方で、中肉中背のシルエットが現れる。
真っ黒なフードの下から見える視線は情欲をまるで隠そうとはしていなかった。不気味に、少女を舐めるように見ている。
そうだ。少女は逃げていたのだ。この謎の人物から。
陸上部である少女の脚力は、常人のソレよりも確実に速い。短距離走で彼女は先輩にも負けたことはない。少女は将来を期待されるほどの選手だ。しかし、ヤツは距離を確実に縮めている。
こちらに追いすがるストーカーの張り付く視線が、今は鉛のように少女の体を重くする。だがそれを置いても、ヤツの速さは驚異的だった。
このままでは――追いつかれる。
「あっ……!?」
膝が、カクンと折れた。
迫った恐怖に音を上げたのは身体が先だった。
一気に距離を詰めたストーカーの指先が、ついに少女の翻るスカートへ触れる。
「っ!?」
少女が渇いた声を恐怖で漏らす。
少女の脳内は、一瞬で恐怖に埋め尽くされる。
――怖い、怖い! 誰でもいい、助けて!!
そんな必死の懇願は、少女の思考に場違いな事を思い出させた。
クラスメイトの誰かが言った事。噂話。この町の都市伝説。
この町――
信憑性も無い、ただの戯言でしかなかった。
だが、今はその存在すら少女にとっては最も現実であって欲しいモノだった。なんでもいい。助けてくれるなら誰でも。それほどまでに追い詰められた少女に、縋れるものなど無かった。
しかし、そんな存在は現れない。それどころか、ストーカーの魔手は少女の体を引き倒した。これこそが現実だった。
鈍い痛みが全身を打ち、膝は擦りむけ血が滲んだ。
少女は見た。フードの下から覗く、ぎらつく双眸を。その瞳は逃げることなどできないと、自分に伝えているようだった。
足はすくんで小刻みに震え、力は全身から抜けていく。
監禁され、犯される。そして、命までもが奪われる。そんな、負の思考ばかりが少女の脳内を錯綜する。
涙で前が見えなくなった。
もはや、ギリギリの心が捻りだした言葉は、
「ごめんなさい。ごめんなさい。ごめんなさい……っ!!」
謝罪の言葉だ。
少女は謝り続けた。この男に対してではない。自身を育ててくれた両親にだった。
固いコンクリートにつかんばかりに頭を下げ続ける少女。
「ごめん、裕美……!!」
そして最後に浮かんだのは親友の姿。ぽつりとこぼした声に
「――――」
一瞬、ヤツの伸ばされた手が硬直したように止まった。
――刹那。
「頭を下げるな。這いつくばってでも、醜くても、諦めるな」
少女の肩を叩く謎の声が、少女の懺悔を止めた。
「助けを求めろ、声を上げ、俺の名を呼べ」
近づく足音。迫る声。しかしそれは少女へと掛けられた勇気の言葉。
少女はゆっくりと顔をあげ後ろを向き、声の主を見た。
「その時は俺が必ず、君を助ける」
薄暗く、全容はハッキリとはわからない。
少年の声。その体躯はクラスの男子とそうは変わらない。
だがあの真紅のマフラーはなんだ?
熱帯の夜には不釣り合いな、顔の下半分を覆うほどに大きく、地面に着かんばかりに長い、あのマフラーは。
そして一際眼を引く、マフラーと同色に輝く真紅の瞳。
前髪の隙間から覗くおよそ人間離れするその瞳は、上質なルビーすら遥かに凌ぐ美しき宝石のように暗がりの中であっても煌々と輝く。
人が暗闇の中、炎に光を求めたように、それは少女に熱を与えた。
少女はたっぷり十秒間、謎の男について思案し、思い至る。
この男が――クラスメイトの語る都市伝説の正体?
「まさか、そんな、ほん……とうに?」
空想の存在と思われる者に出会ったことによる高揚感か、恐怖が一周したことで起きた放心状態か、少女は呆然と少年を見続ける事しかできなかった。
「おい、お前は何者だ」
先程から沈黙していたフードの下から声がした。思ったより細く、高い声だった。
向けられた相手は、煌々と輝く瞳で睨み付け、答える。
「俺は――正義の味方だよ」
ストーカーが、フードの下でギリッと音がするぐらいに歯を食い縛ったのがわかった。
そして、先程少女へと向けていたモノとは別種の、怒りや、憎悪を内包する視線をフードの下から覗かせた。
「邪魔を――するなッ!!」
ストーカーは紅眼の男へと疾駆した。
速い。先程の脚力からしても、ストーカーの速度は常人には有り得ない。それはまるで、獲物を狙うチーターのように、柔軟な筋肉をしならせ獲物へと襲い掛かった。
だが、紅眼の男は慌てず、ただ脚を前方へと突きだした。
まるでそこに置いておくだけという気軽さ。何も無い虚空に向け、伸ばした脚。
だが、ゴフッ、という空気を吐き出す音が、遅れて少女の耳へと飛び込んだ。
ストーカーが、一回転して、吹き飛んだ。
何が起こったというのだ。
そんな考えは、少女の理解から外れたところにあった。
「お、お前!! 見えるのか……!?」
蹴られた腹部を押さえ、ストーカーはひどく慌てた様子で、立ち上がった。
紅眼の男は答えた。
「ああ。お前の顔に書いてあるからな」
は? と、呆気にとられたような声がフードの下から漏れ出た。
当然だろう。実際、答えになっていない。
だが、紅眼の男が、ヤツを吹っ飛ばしたという事実だけは本当の答えだった。
「君は逃げろ。こいつは俺が引き付けておく。いいか?」
真紅の瞳を向け、少年は言った。
少女の体に力が戻る。逃げるだけの力が。
街灯が、消える。
見えなくなる寸前、男が差し出した手を借りて、少女は立ち上がる。
暖かい、優しい手。
マフラーに隠れた表情は、何処か優しく微笑んだ気がした。
少女は軽く頭を下げて、走り出した。
後方からはストーカーの怒号が飛んでくる。しかしそんなもので今さら怯みはしない。今は、絶対的な安心感が少女を包んでいた。
走る少女は思い出した。あの都市伝説の名前を。
そうだ、確か――。
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