第一話 『千条一騎の日常』

 ――その背中は偉大で、憧れだった。


 正義の味方という者がいるとしたら、それはきっと兄のような人を言うのだろう。

 誰かが困っているのを見過ごせなくて。どんなピンチにも、とびきりのタイミングで駆けつける。

 そんなヒロイックな登場の仕方が嘘みたいに格好良かった。


 お人好しもいいところで、自分だって貧乏な癖に他人のツケを払ったりしていつも金欠。それで割を食うのは弟である自分なのだ。


 でも、無邪気な顔でスマン、って謝られたら怒るに怒れない。


 あぁこれが自分の兄ちゃんなのか、って誇らしくなる。そんな瞬間が実は一番好きだった。


 なぁ、兄さん。

 アンタ、今どこで何してんだよ――。


      ●


「え!? 葉月はづき、レッズに助けてもらったって!?」


 昼休み。各々が私語で湧いている教室に、一人の女学生の声が響いた。


「ちょ、裕美ひろみ!? 声、大きいよ!」


 生徒たちは耳に届いたその声に、「なんだ、なんだ?」と声の主たる女生徒のもとへと集まって輪を作った。


 その話の内容が、生徒達の間でホットな話題となっている『』だとくれば、これが興味を持たないはずがなかった。


 ――ただ一人を除いて。


「あむっ」


 不機嫌そうな顔つきで、焼きそばパンをかじる少年がいる。


 名は千条一騎せんじょう・かずき

 ぼさついた野暮ったい髪に、印象に残らないような地味な顔つき。華やかさというモノが皆無のその少年は、クラスの中でも悪い意味で浮いた存在である。


 そんな彼がイライラとパンに齧りつくのには"理由"があった。


「マジで!? 金城かねしろさん、あのレッズに会ったのかよ!?」


 私語を止めてすぐに駆け寄っていった男子生徒の声だ。


「う、うん。噂通り、眼が紅くて、マフラーもしてたよ」


 狼狽しつつも、慣れた様子で当たり障りのない対応をしていく女生徒は、先程大声を挙げた女生徒とは別のもう一人。話題の中心人物だ。


 金城葉月かねしろ・はづき


 三年生を差し置いて、陸上部のリレー選手に選抜される程の実力を持つ期待の星。

 無駄のない引き締まった肉体と、爽やかな印象のショートヘアがマッチしている。

 健康的な日焼け跡がセクシーで、男子から人気が高い。性格も人当たりが良く友だちも多い。


 だからこそ、彼女は事件に巻き込まれてしまったのか。


 彼女が語る内容というのはこうだった。

 以前からストーカーと思しき者に後を尾けられることがあったという。

 それが昨晩、ついに痺れを切らしたストーカーが彼女へと接触してきたのだ。


 しかし襲われる寸前、この町の都市伝説的存在、正義の味方――『レッズ』が、彼女を助けたというのだ。


 実は何件も、金城葉月のように命を救われたという者がこの学校では後を絶たない。

 だというのに、その誰もが『レッズ』を語る時、その詳細な情報を知り得なかった。

 瞳が紅く、たなびく真紅のマフラーを付けていたという特徴と、救われた者達の声だけが残っている。

 それがいつしか都市伝説のようになり、こうしてクラスの話題の一つとしてなっているのだ。


「『レッズ』。その出で立ちから付けられた名前にしては、少し安直ですよね。もう少し捻りのあるネーミングは無かったのでしょうか?」


 と、その名前に何やらケチを付ける者が一人。


「きっと、小学生が付けた名前なのでしょうね。そう思えば可愛らしいものですが」


 ふふっ、と口元に微笑を讃える少女もまた、金城葉月擁するグループの中においても抜群の存在感を放っていた。


 名前は霧島瑠衣きりしま・るい

 日本人離れした顔立ちをした少女だ。長いまつ毛と通った鼻筋にサファイアブルーの瞳。それは彼女が異国の血筋を持つ者だということを表している。彼女は祖父が生粋の英国紳士でありクォーターなのだ。

 腰まで伸びる髪の色は銀。蛍光灯の灯りすらも彼女の髪に触れれば繊細な輝きへと変じ、宝石の輝きへと作り変えられる。


 その所作も完璧だ。

 背筋をぴんと伸ばして椅子に座った姿勢は、男好きのする抜群のプロポーションをこれでもかと魅せつけて、それでいてなお下品ではない。

 やや伏し目がちにクスリと微笑めば、それだけで路頭の男どもが一斉に崩れ落ちる。


「さ、さすが霧島さんだぁ!! 俺も小学生に戻って霧島さんに可愛がられたい!!」


「俺も俺も!!」


 だから男子生徒が錯乱したように声をあげてしまうのもむべなるかな。女子生徒たちがシラーっとなっていても彼らには知ったこっちゃない。


 一騎だって彼女の本性を知らなければ、そこにいる男子生徒と変わらない態度を見せただろう。


「――あ」


 と、不意に思わずそちらを見ていた一騎と瑠衣の視線がぶつかった。


「ふふっ」


 なんて笑みを伴って、彼女はこちらに手を振った。


「バッ、あいつ……ッ!」


 それが何を意味するのか、一騎にはよく分かっていた。

 瑠衣の取り巻き達が、過敏に反応を示す。


「おい、テメェ、なにこっち見てんだゴラァ?」


 ほら、こうなる。

 ギロリ、と向いた視線は一騎をしかと視界に納めていて、亀になっても逃がしてはくれないだろう。


 威勢よく立ち上がった男子生徒の一人が一騎に向かってガンを飛ばしてくる。マジで怖い。


「おい、なんとか言ってみろや千条ぉ?」


「や、なんでもないっす、ホント」


 さっさとどこか行っていれば良かった。金城葉月が気になったから、いつまでも教室に残っていたのがいけなかったのだ。こうなると、めんどくさい。


 一騎は意味もなく「スイマセン、マジで。スイマセン」と無抵抗アピールをしてやり過ごした。

 それでようやく気が削がれた様子の男子生徒は、舌打ちして再び会話を続けた。


 ふぅと一息ついた一騎は、恨めしげに瑠衣をジロッと睨む。


「(良・い・気・味・で・す・ね・?)」


 瑠衣が口だけの動きでそう告げる。この野郎、滅茶苦茶いい顔してやがる。無邪気な顔はいたずらっ子のそれで、一騎は彼女のそんな顔を何度も見ては、何も言えなくなるのが常だった。


 一騎は瑠衣に借りがある。いや、そもそも彼女がいなければ、一騎は


「あ〜良いよなぁ。俺もレッズに助けて貰いたいぜ」


 ふと、先ほどの男子生徒が、脳天気なことを言うのが聞こえてきた。

 一騎は無性に、ひとこと言ってやりたい衝動に駆られる。


 ――レッズはそんな大層なもんじゃないよ。


 そうだ。なんてことはない。

 ただ普通に学校に通う地味な生徒であるこの千条一騎こそが『レッズ』なのだから。

 センセーショナルな過去もないし、あるのはてんで面白みもない話だ。


 それが先程から一騎がイライラしている理由。

 一騎が『レッズ』として振る舞うのはある目的があるから。その為に一騎は、正義の味方のなんぞをやっている。

 自分はまだ、正義の味方を名乗れるほどの者じゃない。本当の正義の味方はこんなもんじゃないんだ。それを知らないくせに寝ぼけた事を言う彼らだから、一騎は苛ついている。


 それでも、


「そうだね。私も、もう一度レッズに会ってお礼が言いたいな」


 そう言って、人当たりの良い笑みを浮かべる少女を助けることが出来た事が、少しだけ一騎を報われた気持ちにしてくれる。


 ――うん、金城さんは大丈夫そうだな。


 昨夜の後遺症が無いのを確認した一騎は、ひとまず安心を得る。

 そうして一騎は焼きそばパンを飲み込んで、教室を出ていくのだった。


      ●


 ――のだが。


「痛っ――」


 ドン、と壁に叩き付けられた一騎が痛みで呻いた。


 教室を出て行ってすぐ、一騎は先程の男子生徒たちに呼び出され、人気のない校舎裏へと連れてこられた。


 どうやら彼らは、一騎の態度にまだ腹を立てているみたいだった。眉間に寄った皺が怖いし、握りこぶしを作るのはやめて欲しい。暴力は苦手だ。


「テメェ、なんか調子乗ってんじゃねぇのか、オイ?」


「な、なんのことですかね?」


「とぼけてんじゃねぇよ!! どんな手を使ったか知らねぇが、霧島さんに気に入られてよぉ!! 勘違いしてんじゃねぞボケッ」


 ペッ、と唾まで吐き捨てられて流石に一騎も瑠衣を恨んだ。

 まさかここまで腹に据えかねているとは。というか全部、瑠衣が悪い。


 そもそも一騎と瑠衣が知り合ってまだ一ヶ月弱。

 一騎は高校二年の六月というこれまた微妙な時期に、『家庭の事情』で編入してきたということもあって、クラスになかなか溶けこむことが出来なかった。


 そんな彼を注目の的――悪目立ちともいう――にせしめたのが、霧島瑠衣という存在だった。


「クソがよぉ、俺らがどんな気持ちで霧島さんに話しかけてると思ってんだテメェ? こちとら毎朝欠かさずニュースチェックして話題には事欠かねぇようにしてるっつうのによぉ!?」


「そうだぞゴラァ、霧島さんと勉強の話するために、毎日家で三時間予習してんだぞテメェ!?」


 めっちゃかっこいいな、オイ。なんという涙ぐましい努力か。しかし報われない悲しさよ。


「で、でもそれとこれとは別問題じゃないですか、ね……?」


「うっせぇボケぇ、一発殴られろやぁ!!」


 突如、拳が降ってくる。


 一騎の背は一七〇センチも無い。対して男子生徒は二人して一八〇は軽く超えた恵体だ。

 そんな体格差から繰り出されたパンチ。見た目ヒョロヒョロな一騎には当然避けられる筈はない――


「――――」


 のだが。


「ぐぇぇ!? い、痛でぇぇッッッ!?」


 あろうことか、一騎は壁を背にした状態から見事な体捌きで反転。勢いそのまま振りぬかれた拳は綺麗に壁を殴りつけた。

 呻く男子生徒を尻目に、一騎はすたこら逃げる姿勢。 


「チッ、待てやこらぁ!!」


 もう一人の男子生徒が一騎に掴みかかる。しかし一騎はまたしてもひょいひょいっとその手を掻い潜る。当たらないどころか、触れることさえ出来ていない。


 ぜぇ、ぜぇと息を吐く男子生徒に一騎は、


「あの……ホント勘弁してくれませんか……?」


「クソッ。おい、お前はそっちからだ」


「わかった。……覚悟しろやテメェ」


 聞いちゃくれない。二人共、目が血走っていて完全にキテいる。

 流石に二人相手は一騎でもしんどい。あくまで一騎が得意なのは逃げることであって、戦うことじゃない。

 でもそれは、だが。


「しょうがない。ツケは絶対後で払わせる。――あ、なんかマジで腹が立ってきた。全部アイツのせいじゃねぇかよ」


「何、ブツブツ行ってやがんだテメェ!!」


「ぶっ殺す!!」


 そして彼らは同時の攻めに出た。

 先に飛んできたのは右拳。

 一騎は軽く後ろに体重を移動させる。たったそれだけの動作だが、大振りの右フックは軽く空を切った。めちゃくちゃな体重移動は見え見えだ。しかしそれでも、次の一撃が控えている。

 にゅっと出たように一騎の懐にもう一人が左から拳を繰り出す。もう一度フックだ。それは先程よりも鋭く早い。


 しかし一騎は慌てなかった。それよりも早く、拳をそこへ置いてきたから。


「ゴフッ」


 綺麗に決まったボディーブロー。それも相手の体重を利用した一撃だ。一騎の反撃を全く予想していなかったと見える男子生徒には、思いもよらぬ一撃だったに違いない。


 崩れ落ちる友の姿に、奮起をみなぎらせたもう一人が、固く拳を握りしめる。


 ――これじゃどっちが悪者だよ……っ。


 そんなやるせなさを感じながら一騎はしかと向き合った。


 一騎が反撃に出ることをもう相手は知っている。より警戒心が強まった様子の彼は思いの外、冷静だった。激高して襲いかかってくれるならばやりやすい事この上ないのだが。


「カーシー先生なら、うまくやるんだろうけど――さっ!」


 師の姿を思いながら、今度は一騎から仕掛けた。グッと身体を沈み込ませ、一歩で飛び込む。

 ギョッと目を剥く男子生徒。もうその時点で虚は突いたも同じこと。

 一騎は寸分違わず、がら空きとなった顎に向け打つ。

 ――掌底。


「が、ハ……」


 ぐらぐらと身体を揺らしながら、倒れこむ男子生徒。その身体をガッチリと抱きしめ、一騎は地面に横たえてやる。


 そしてふぅと息を吐いて。


「あ~どうすんだよこれぇ……」


 と、まさかの暴力事件の現場に残された一騎は一人、嘆息する。こんな状況誰かに見られでもしたらどうしよう。

 いよいよ地味な生徒の肩書が無くなってしまうのではないか。いや、そんなものはとうに形骸化してはいるのだけど。


「あらあら、お困りのようですね、一騎くん?」


 不意にかかる声。どうやら今、最も一騎が物申したい人物の方からお越しくださったようだ。


「この……瑠衣ぃ、お前ぇええええ!!」


 呼ばれた少女は校舎の影から不適な笑みを浮かべながら、その姿を現した。


「大変でしたねえ、一騎くん。お怪我はありませんでしたか?」


 面の皮が厚いとはこの事か。

 トコトコと何食わぬ顔で近づけば、さわさわと一騎の身体をまさぐる瑠衣は本気で心配げな表情で一騎の顔色を伺っている。

 あぁ、くそう。動悸が止まらない。これはきっと恋じゃない。ただの怒りだ。


「それにしても、ちょっと期待はずれでした。一騎くんの"眼"、見たかったのに」


「おまっ、まさかそのつもりで……?」


「さぁ、どうでしょう」


 小悪魔のように小首を傾げる瑠衣。その仕草が様になっているのが質が悪い。誰だって彼女に恋をしてしまう。そこで寝ている二人は憐れな犠牲者たちだった。黙祷。


「まぁいいや、そこの二人、いつもの様に頼むよ」


「え、嫌です」


 即答だった。


「あのな、こいつらはお前のせいでこうなったの分かってる?」


「はてさて。――というのはまぁ冗談ですけれど、一騎くんは別に"眼"を使っていないのですから、私の力は必要ないのでは?」


「この人達のことは不可抗力で終わりにしたいの。それに今度は、倍の数から襲われたりするかもしれないだろ」


 こういう奴らの横の繋がりというのは恐怖だ。一度目はうまく撃退できても、明日には数が増える。

 報復を恐れるなら手を出さないのが一番賢い。だからにするのが一番いい。


「なるほど、その手がありましたね! 大多数相手なら一騎くんの"眼"が見られます!! では私はこれで!!」


「ちょっと、まてーい!!」


 立ち去ろうとする瑠衣をグワシッと掴んで引き戻す一騎。


「ねぇ、話し聞いてた!? 危ないって言ったじゃん俺!! 助けてよ!!」


「そう卑下しないでください。私はあの眼になった一騎君はとっても素敵だと思います。きっと大丈夫!!」


「話し通じねぇなぁ!?」


 大きな胸を張ってポンと叩く瑠衣。なんで自分のことじゃないのにそんな自信満々なんだこの人。


「ふむ、しょうがありませんね。そこまで言うのならばつかってあげましょうか、私の異能ちから


 ようやくかと、ガックリとうなだれる一騎と対照的に、弓のように眼を細め、笑みを浮かべる瑠衣。それはどこか蠱惑的に見えた。


 ――瑠衣の異能。

 それは他人の記憶を改ざん出来ること。

 新たな記憶を植え付けたり、記憶を削除したり。都合の良い方向へと強引に向けさせる、一歩使い方を間違えれば犯罪につながりかねない邪法。


 とはいえ、瑠衣ならばその心配は無いと一騎は思う。


 彼女がいなければ、一騎はこれまで『レッズ』として正義の味方の正体を隠したまま生活など出来なかった。

 こうして一騎の正体がバレていないのだから、その分の信頼ぐらいはしても良いはずだった。


「さて、と」


 そして瑠衣は地べたに顔を付けている二人の男子生徒の側によると、彼らの頭のあたりで掌をかざした。その能力を使用する時に条件のようなモノは特に無いらしいが、こうした方が集中が出来るのだとか。


 そうしているうちに瑠衣は「終わりましたよ」なんて言ってこちらを向く。流石に慣れたものだ。手際が良い。


「さんきゅな」


 と言った一騎に瑠衣は肩をすくめて、


「一騎くんも難儀な性格ですからね。目立ちたくないくせに、正義の味方なんて」


「…………」


 分かっている。けれど一度始めてしまったことだ。途中で辞めることはない。


「ふふ、でも、ならずには要られないのだから困ったものですよね」


「それは、そうだけど……」


 一騎にも、瑠衣のように不思議な力がある。

 いつの間にか目覚めたそれは、人が自然と歩けるように、さも当然とばかりにこの力は一騎のなかにあった。


 そして一騎は、その力を使うと決めたのだ、正義の味方になるために。いや、正義の味方になろうとしたから、この異能を得たのか。


「一騎くんは私の力に安易に頼り過ぎです。少しは自重してくださいね?」


「それは悪いと思ってる。えっと、そうだ。金城さんは大丈夫そうだったな」


 昨晩のストーカー事件。

 真夜中ということもあって一騎の顔は見えなかっただろうが、待機させておいた瑠衣に保険として葉月に能力を使ってもらっていた。


 一騎の情報を消去して、レッズに関する記憶だけを残す。


 それは、一騎がレッズなどという人助けをする理由の一つでもあった。

 レッズ――その存在を、広めるという理由。


 彼女はただ一人、そんな一騎の目的に賛同する協力者なのだ。


「気掛かりなのはあのストーカーが何者かということです。彼女を逃がしたまでは良かったのですが、ストーカーも一緒に取り逃がしてしまいましたから。本当に一騎くんのおマヌケさん」


 そう言って、瑠衣は細めた眼で一騎を見る。


 一騎が金城葉月を見かけたのは偶然だった。

 日課としているパトロールで、たまたま通りかかった時に襲われている彼女を見て、彼はレッズとしてストーカーを撃退した。

 しかしあのあと、ストーカーには逃げられてしまったのだった。


「そ、それは……逃げ足が早くて……」


「ストーカーの特徴の一つでも解っていれば話は早いのですが、黒のパーカーなんてありふれていますしね」


 より一層うなだれる一騎。瑠衣は、はぁ、と大きく溜め息をつく。


「過ぎたことは仕方がありません。ただ、より警戒は強めないといけないでしょうね。また彼女を狙ってくる可能性はありますから」


 一騎は、「そうだな」と力強く頷く。


 彼女との付き合いはまだ短いが、一騎は少なくない信頼を寄せている。

 一騎一人では解決できなかった事件もあった。そんな時、彼女の洞察力と能力が解決に導いたことが多々あるのだ。


 今回もまだ終わっていない事件に、早速彼女は捜査に乗り出す気のようだ。


「それはそうと」


 ふと瑠衣は唐突に、笑みを浮かべてみせる。

 その笑みは、どこか邪気を放っており、瑠衣がこの顔をするのは決まって、一騎を困らせてやろうと考えている時だ。


「私に、ただで能力を使ってくれなどとは言いませんよね? 先程から感謝の気持ちが一騎君から伝わってこないのですが?」


 一騎は、来たかと身構えた。

 彼女の要求。これがあるから、一騎は彼女に協力を求めるのを躊躇うのだ。

 瑠衣は確かに心強い味方だ。しかし、無償の協力者というわけではない。


「いや、でも今回はお前のせいで俺が酷い目にあったわけで……」


 瑠衣はずいっと一歩、一騎の方へと近付く。


「それはもういいです。今回の分は金城さんの分ですから。それにまだまだ払ってもらっていないのがいくつも」 


 一騎は顔を強張らせ、


「あ、ありがとうございます……い、いつも感謝してます」 


 一騎の礼に、しかし瑠衣は首を振って、


「一騎くんの安い感謝なんてなんの身にもなりませんよ。一騎君の行動で示してほしいのですが」


「行動って、ぐ、具体的には……?」


 ニヤリと口の端を釣り上げ、瑠衣は待ってましたと言わんばかりに、更に一歩、体が密着する距離まで踏み出した。


「――キスが良いです」


 蠱惑的な甘美な響きが耳の奥の鼓膜を震わせ、その震動は秒と経たずに心臓へと到達した。

 脳内は既に混乱状態を示し、体温を上昇させていた。

 しかし、一騎は精一杯の意志力で精神を落ち着かせ、言葉を発した。


「な、何を言いだすんだよ! そんなことで感謝の気持ちが伝わるか!」


「少なくとも私は嬉しいですよ?」


「いや、でも、そ、そのキスってのはそういうのじゃ………!!」


 瑠衣は嘆息して、


「はぁ、何を乙女みたいなことを言っているのですか。私は一騎君の事、素敵な男性だと思っていると再三お伝えしているではありませんか。普段はヘタレで間が抜けていますけど、少なくともあの眼になった一騎君はとっても格好いいと思いますし。私を助けてくれたのだって一騎くんです……。一騎君はそんなに私とキスをするのが嫌ですか?」


 上目遣いで一騎の瞳を覗き込む瑠衣。頬が心なしかほんのりと桜色に上気し、どこか熱っぽさを感じさせる。

 夏の日射しによる熱か、額には汗が滲む。いや、そんなものなど関係ない。ただ、目の前には絶世の美少女が立ち、迫ってきているのだ。男として、これが興奮しない訳がない。


「そ、そんなことない、けど。っていうかむしろこっちがご褒美っていうか……」


「なら、いいじゃないですか。なんなら唇だけとはいいません。一騎君の好きなところにさせてあげてもいいんですよ?」


 一騎はその言葉に眼を剥いた。瑠衣は今、自分が何を言ったのか分かっているのだろうか。それはつまり、あそこやあんなところにまでしてもよいということか。


 一騎の反応を楽しむように、瑠衣はいたずらっ子のような笑みを浮かべ、


「どこがいいですか?」


 そう言って瑠衣は桜色の小ぶりな唇を指差し、


「オーソドックスに、ここですか?」


 一騎の眼は瑠衣の細く白い指先を追いかける。

 次に、夏用のブラウスのボタンを二、三個外して、チラリと見える胸を指し、


「それとも、ここ?」


 瑠衣の明らかに小さいという部類ではない形のいいバストの一端が見え、一騎の脳内は一瞬にしてその推定Fカップの胸で埋め尽くされる。


 ただ瑠衣の手はより強烈な魔力を秘めた箇所を守る、スカートの裾へと伸びる。その守護者の端を徐々に持ち上げ、


「それとも――変態の一騎君はこっちがいいんですか?」


 瑠衣の秘部が姿を表そうとしたその時、


「あ!」


 キーンコーンと、校舎のチャイムが、昼休みの終了を告げた。

 瑠衣の魅力に一騎は一種の陶酔感に襲われていたが、そのチャイムが一騎を現実へと引き戻した。


「ハッ!? チャンス!!」


 一騎はこれを好機とばかりに、瑠衣の呪縛を解き放ち、その場から駆け出した。


「あっ、一騎君ッ!?」


 慌てて引き留めようとする瑠衣。

 一騎は振り向いて今すぐに自分の本能に正直になりたい気持ちが湧いた。しかし、それに呑まれたときにどうなるか解らない、後が怖いといった恐怖が一騎の脚を走らせた。

 しかし、そんな安っぽい見栄のようなものは、自分がただのヘタレであるということを証明するものにしかならなかった。


 一人残された瑠衣は微笑を浮かべ、


「ふふ、やっぱり一騎君は面白いです」


 そんな呟きを残す彼女の表情は悪戯好きな小悪魔のようであった。

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