最終話  生きる覚悟

 空は朝焼けで綺麗に彩られている。

 その輝きで満たされた道を、俺の家へと帰るために理沙とともに歩いている。

 佐久耶の家に戻る意味はない。

 さっきまで泣いていた理沙も今はだいぶ落ち着きを取り戻した。


 理沙がちらっと俺を見てきた。

「佐久耶はきっと・・・」

「いいよ。理沙。今、なにか言われると、泣きそうだから」

「・・・うん」

 それ以降、喋ることもなく俺の家の前まで着いた。

「じゃあね、御剣・・・」

「ああ・・・じゃあな」

 理沙の背中を見送って、家のドアを開ける。

「・・・ただいま」

 久々に佐久耶の家じゃなく、自分の家に帰ってきた。

 もう心も体も疲れきっていた。

 なにもする気が起きないのに、ただいま、と言ってしまったのは癖だろう。

 そう思うと、笑えてくる。

 けど、笑えなかった。

 かわりに涙が溢れてきた。公園で、枯れ果てたと思っていた涙がまだまだ溢れてくる。

 あの公園・・・

 佐久耶が死んだあとで、炎の剣との契約どおり、悪魔を全て殺した。殺したのは俺じゃなくて、剣そのものだった。

 悪魔を殺すことなんか考えていなかった。ただ佐久耶のことだけを考えていた。

『ふふっ。内緒』『まだ行かないの』『ちょっと緊張しちゃって』『私に似合ってるのかな?』『こうすれば、はぐれないね』『私が好きで、大切な・・・』

 悪魔が切り裂かれるのを眺めながら、思い出が溢れてきていた。

 学食でのカレーうどん。彼女の笑顔。服を買ったこと。手を繋いだこと。最後の涙。

 涙で悪魔なんてよく見えていなかった。

 そして、それからしばらくして・・・

 頬をかなり強く叩かれた痛みで、意識を自分の心から外へと向けることができた。

 全てが終わった公園に泣いている理沙が目の前にいた。空の色も青に戻っていて通常空間に戻ってきていた。

 ごめん。理沙。俺のせいだ。

 それしか言えなかった。

 理沙だって、俺以上に親しい友を数多く失ったのに送ってくれた。

 理沙は、本当の意味で強いと思う。

 俺は、そんな理沙に学校でどんな顔をして会えばいいんだろう?

 でも、佐久耶は、そこに存在していない。

 そう思うと、また泣けてきた。

「おかえり、御剣」

 母さんが2階から降りてきた。

「ごめん。起こしちゃった?」

 慌てて涙を拭く。親に涙を見せるのは恥ずかしい。

 そこで、母さんも、泣きそうな顔をしているのに気づいた。

「母さん?」

 なんで母さんが、こんな顔をしているんだろう?

「・・・佐久耶ちゃん、夜更けの戦いで死んじゃったのね」

「えっ?」

 なんで、母さんが知っているんだ?

「母さん。なんで、それを・・・?」

 母さんは、鼻をごしごし擦ってから、顔を上げた。

「私は誰の母親よ?あの戦いに気づかないわけないじゃない」

 ・・・そういうことか。

 神藤は、母の姓だ。

 俺はその名と血を受け継いでいる。

「母さんも天使の力を?」

「ええ。元天使だけどね。力が衰えちゃって、だいぶ昔に引退したけど。やっぱ歳には勝てないわ。さっきの戦いの最中も、足手まといにしかならなそうだったから、ずっと家に隠れていたけど。でも、まだまだ現役でもいけそう。佐久耶ちゃん、この家に来たとき、私の遮蔽奇跡を見破れなかったからね」

「だから、母さんは、俺を佐久耶の家に行かせたの?」

「そうよ。佐久耶ちゃんを見た瞬間、天使であることが分かったわ。同時に、パートナーを失っていることもね。あんな悲しい眼をしている天使なんて、そうそういないから。だから、あんたを佐久耶ちゃんの家に行かせたの。パートナーがいない天使なんて、悲惨すぎるから。彼女にまで、それを味わいさせたくなかったの」

 彼女にまで・・・か。

「母さんもパートナーを失ったんだ?」

「1度だけあるわよ。っても、そんなの一度も経験しないほうがいいに決まってる。私は戦闘寄りの力を持っていたわ。油断した隙に補助の力を持った彼女は殺された。私にもっと力があれば護れたのに」

 そこまで言って、俺を指さした。

「だから、生まれてきたあんたに、エーテルが確認できたとき、名前を決めたの。御剣ってね。大切な存在を護れるための才能を授けさせるために」

 才能を授けさせるために。母さんは、名の秘密を知っていたんだ。

「母さん、俺さ・・・」

 戦いのことを、全て伝えた。

 暴走。白い世界。エーテルの増大。炎の剣。堕天使。佐久耶の死に触れたときには、また泣きそうになってしまった。

「そう。そんなことがあったの・・・私は、間違えていたのかしら?才能があればあるほど、暴走するなんて。御剣が死ぬ危険を増やしてしまったのかしら・・・」

「母さん、それは違うよ」

 自分でも驚くほど、強く断言していた。

「俺は強くなれたから、ここまでこれた。母さんは佐久耶が愛したこの町を護れるだけの力を与えてくれた。だから、御剣の名を誇りに思ってるよ」

 死の間際、佐久耶は言った。

『御剣は、私たちで護ったこの町で生きて。この町で・・・』

 だから、生き残った俺は、佐久耶と護りぬいたこの町で生きていく。

 それは佐久耶の最後の願いだから。

「御剣、あんた・・・」

「ごめん。ちょっと寝るね」

 滲み始めた視界で階段に足をかける。

 もう、これ以上、ここにいられなかった。

 母さんは、俺が佐久耶を守れなかったのに責めるようなことを一切しなかった。

 それが、嬉しくもあり、それ以上に悲しかった。


「おはよう~。神藤君」

「あっ。おはよう。藤田さん」

 教室前の廊下に溢れる朝日が眩しい。

 けど、眠い。深夜に感じた鏡魔の気配を追って、明け方に消滅させたからだ。

 あの戦いが終わった後も、以前と変わらずに鏡魔は姿を現してくる。

 でも、佐久耶が俺を強くしてくれたから、1人でもこの町を護れることができる。

 新しいパートナーは現れない。

 元が人間であるためかもしれない。

 人事部とやらに登録されていないとかの理由だろう。

 でも、理沙は言った。

『天使の数が一気に減ったから、地上への派遣はしばらく無理じゃないかな? 悪魔も甚大な被害を受けたらしいから、しばらくは何も起こらないと思う。それに鏡魔だけなら、生き残った地上の天使が協力すれば、対処できるからね』

 けど、俺は誰にも頼らずに戦っている。

 馬鹿な考えかもしれないけど、そうやって戦っていれば、佐久耶が隣に現れてくれそうだから。

 大きな欠伸が出た。

 廊下から見える桜の木はもう葉桜も終わって枝だけになってしまった。

 視線を桜から教室の中へと移す。

「おはよう。みつる」

 席に着いた俺に理沙が挨拶してきた。

「おはよう。理沙」

「おはようさん!御剣」

 達也がやってきた。その後ろには、芳樹と玲人もいる。2人へも、挨拶を交わす。

 玲人が俺の正面へと回ってきた。

「御剣さ。今日の放課後、ゲーセン行こうよ。暇でしょ?」

「げっ。今日も?」

 玲人は、週3日のペースで、ゲーセンに誘ってくる。奢ってくれるのは、嬉しいけど、さすがに飽きてしまう。

「だって、達也と芳樹、下手なんだもん。僕とまともにやりあえるの御剣だけだからさ。だから、行こうよ~」

 くっ・・・さすが玲人。つい護ってあげたくなる存在NO.1。そんな存在に、悲しそうな顔をされると断りづらい。

「・・・分かったよ。行こう」

「やった!」

 嬉しそうに席へと戻っていった。

 残った芳樹が俺を見てにやけている。

「大変だな、お前も」

 何を言うか。旅は道ずれだ。

「お前も付き合えよ」

「うげっ」

 嫌そうな顔をした芳樹の後ろに、ノートを頭の上で懸命に振っている玲人が見えた。

「芳樹ぃ!ごめん!御剣をゲーセン誘うので忘れてたぁ! これ!今すぐやんないと!ノート!1限の数学ノート写さなくていいの!?今日が提出日だよぉ!」

「やばっ!忘れてた!」

 芳樹は席まで走りながら戻って鞄を漁りだした。新任の数学教師である武山は、宿題を忘れるとかなりうるさい。

 残った達也が周りを気にしながら真剣な表情で顔を近づけてきた。

「御剣。姫から連絡ないのか?」

 小声だった。他の男子には聞かれたくないらしい。

「ないねぇ」

「そうか・・・元気でやってるのかなぁ」

 達也は懐かしむように少し笑った。

 教室の前のドアが開いた。

 担任の将軍がホールムールのために、教室へ入ってくる。

 達也が、また後でな、と言って、急いで席へと戻る。

 その背中を見つめながら、思った。

 ・・・元気でやってる、か。

 海外留学。

 達也を含めた学校の生徒は佐久耶のことをこう聞かされている。

 理沙が天界からそう指示されたらしい。

 初めの1週間は学校中が佐久耶の話題で持ちきりだった。

 でも、1ヶ月たった今、佐久耶が話題になることはなくなった。

 あっても、せいぜい達也ぐらいだ。

 とんとんっと左から肩を叩かれた。

「みつる。ちょっと」

 理沙が細い指先で天井を示している。

「放課後、屋上に来て。大切な話があるから。お願いよ」

「まさか・・・愛の告白?」

「殴られたい?」

 殴られる。今すぐに殴られる。ぞくっとするほど、本気で睨まれた。

 理沙とのこういう関係も以前のままだ。

 失いたくはないと願った日常がここにある。

 ただ、佐久耶だけがいない。

「冗談だよ。でも、放課後は、玲人との約束があるんだけど。今じゃ無理なのか?」

 理沙にだって、玲人との会話は聞こえていたはずだ。なのに、それでも放課後を指定してきたのには、理由があるのかもしれない。

「ここじゃ、話しづらいのよ・・・ヒミナのことだから」

「・・・ヒミナか」

 理沙の元パートナーであり、親友でもあり、そして堕天使となったヒミカ。

 そのヒミカが、死ぬ間際に理沙に頼んだことがある。

 妹のヒミナを探して。護って。

 理沙はそう頼まれた。それについて、なにか分かったらしい。

 理沙が生きる理由として選んだ親友の願い。俺もそれに無関係じゃいられない。

「分かった。玲人には遅れて行くから先に行っててって言っておくよ」

「悪いわね。時間とらせちゃって」

「なに言ってるんだ。俺にとっても大切なことだからな」

 将軍が教室を出たのと入れ替わりで武山が入ってきた。

 理沙がくすっと笑う。

「芳樹、残念ね」

 理沙の言うように、武山の姿を確認した芳樹のシャーペンの速度が格段に上がった。けど、同じくらいのスピードで、消しゴムも動いている。かなり慌てているらしく、どうやら間に合いそうもない。

 授業に備えて、数学の教科書とノートを取り出す。

 遠くから紙が切れるような音と間の抜けた『あっ』という声。

 さらば、芳樹。

 心の中で級友に別れを告げた。

「よし!じゃあ、ノート集めるぞぉ!」

 武山の無情な声が教室に響いた。


 屋上は少し暖かい風が吹いている。

 佐久耶に天使と告げられたあの日から比べれば、かなり暖かい。

 屋上に着くと、すでに理沙が備え付けのベンチに腰掛けていた。

「ごめん。遅れた」

 理沙の隣へと腰を下ろす。

「それで、ヒミナは?」

 理沙が空を仰いだ。

「ヒミナね。もう死んでいたわ」

「そうか・・・」

 朝の理沙の様子から、なんとなく予想はしていた。それでも、気持ちが沈んでしまうのを止めることは出来なかった。

「これは天界の調査で判明したことなんだけどね・・・ヒミカが堕天使になったのと同じ頃に、天界でも、多くの天使が一斉に堕ちていたわ。そして、そこに共通点があった。堕天使となった天使の血族、少なくとも1人以上が行方不明。 それが判明した現在、発見された行方不明の天使は15名。その全てが死んでいた。その中にヒミナはいたの。行方不明になったのは悪魔の仕業という見方が強いわ。そして、それはほぼ事実。だから、ヒミカは堕ちるしかなかった。大切な妹を助けるために。でも、ヒミカが死んでも、ヒミナは帰ってこなかった。ヒミカは間違ってたんじゃないかな?」

「間違ってなんかいないさ」

 ヒミカは、きっと騙されているのを知っていた。それでも堕ちた。妹を護りたかったから。妹を失うことが耐えられなかったから。堕ちることで、妹を助けられるだけの望みが少しでもあると信じていたから。

 でも、心の底では信じ切れていなかった。

 だから、天使から放たれた炎を避けることはしなかった。

 妹のヒミカも、理沙も大切だから。自分が死ぬことでしか2人を護れないと考えたから。

「大切なものを護ろうとしたヒミカが間違えているはずがないだろ?」

 理沙は少しだけ頷いた。

「・・・ねぇ、私はなにを理由に生きていけばいいの? 私が生きる糧としていたヒミカからの願いは、ヒミナの死で終わってしまったわ。それに、ヒミカやサキルだけじゃない。他にも多くの親友を失ったのに、なにを支えにして生きていけば・・・」

 理沙がこれまでにないほど打ちひしがれている。その姿を見て、3日前の朝に理沙が言ったことを思い出した。

『今日の朝早くにね、天界から戦死者についての報告があったわ。そしたらね、一緒に育った仲間が8人も死んじゃってたの・・・なんか、いきなり寂しくなっちゃった』

 だから、理沙の近くには誰もいない。佐久耶もいなくなった。

 長いようで短かったあの戦いで死んだのは、天使だけじゃない。

 エーテルを持った人間も含まれている。

 隣町の高校生2人と中学生3人があの戦いの深夜から行方不明になっていて、今も発見されていない。あの異空間で何かあったに違いない。

 それでも・・・

 理沙は生きている。

 理沙は生きているんだ。

「お前は生きる理由がなくても、これからも生きていくべきだと、俺は思う。生きている理沙には、死んだ者たちが成せなかったことができる。だから、理沙はサキルやヒミカの分まで生きていくべきだ。生きる理由を探すために生きればいいじゃないか。俺はそう思うよ。まぁ、人間の言う綺麗ごとかもしれないけどね」

 でも、心の底からそう思う。

 佐久耶が命がけで護ったこの町で、佐久耶を思って生きていくこと。

 それが、俺にとって佐久耶に成せることだ。

 この町を護ることが佐久耶の願いに答えることになるから。

 理沙が頭を小突いてきた。

「馬鹿みつるのくせに生意気よ」

 そして、ベンチから立ち上がる。

「でも、ありがとう」

 背中を向けたままで、力強く言われた。きっと、恥ずかしいんだろう。理沙の意外な一面に漏れそうになる笑いを堪える。

「じゃあ、帰るね。また明日」

 同じように背中を向けたままで言われた。

「・・・ああ。また明日」

 理沙が屋上の出入り口へと姿を消すと同時に、屋上は静けさに包まれたけど、俺はまだ立てないでいた。

 ・・・また明日、か。

 そうだよな。生きてさえいれば、また会えるんだ。

 そんな当たり前のことさえも、失ってみないと分からない。

 佐久耶を失って、初めて分かった。

 佐久耶に、また明日、と言葉をかけることは、もう二度とない。

 思わず出た溜息は、微かに震えていた。

 ・・・なぁ、佐久耶?

 日が暮れ始めた空を見上げる。

 ・・・やっぱ、俺・・・寂しいよ。

 溢れそうになる涙を堪える。

 ・・・なんで、お前を護れなかったんだろうな?護れていたら、笑いながら話せているのに。悔しいよ・・・

 溢れてくる涙で、夕暮れ空が滲む。

 ・・・なぁ、佐久耶?なんで、何も言ってくれないんだよ?・・・返事してくれよ!佐久耶!お前の声が聞きたいよ。顔が見たいよ。お願いだからさ・・・佐久耶!

 見上げた夕暮れの空。

 もちろん、佐久耶の姿はなく、答えてくれることはなかった。


 その日、夢を見た。

 佐久耶が、あの青いワンピースを着て、手を振っている・・・

 そんな夢。


 相変わらず、朝の電車はきつい。

 顔馴染みとなった禿げ上がったサラリーマンのおじさんは、鏡の中で誰かを相手に怒鳴ることはなくなった。飛鳥がいなくなったことで、電車で顔を合わす2人は変わってしまったからだ。電車の中で笑うことはなく、どこか憂いを帯びたような感じになり大人びた。

 きっと、この2人にとって、飛鳥を笑わせることが楽しかったんだろう。彼女の笑顔を見るのが嬉しかったんだ。

 そう思うと、胸が痛む。

 いかなる理由があろうとも、最終的に飛鳥の命を奪ったのは俺だ。この2人から笑顔を奪ったのは俺だ。

 居た堪れない気持ちになり、目を逸らす。

 後ろにいるサラリーマンの反射した姿を見るために、鏡に集中する。

 俺の窓際ポジションを過去に5回奪ったことのある若いサラリーマンは、鏡の中では、やけににやけながら、誰かに話しかけていた。

 あの締りのない笑顔を向ける先は・・・女性だろう。彼女か、結婚相手か。サラリーマンの年齢と、はじける笑顔から考えれば、おそらく後者だ。

 俺とこの若いサラリーマンは知らぬ中じゃない。っても、俺が一方的に知っているだけだけど。それでも、心の中で、窓際ライバルに祝いの言葉を伝えた。

 おめでとう。その彼女を大切にな。絶対に失うなよ・・・

 心の底から、そう思った。

 電車が駅について、改札を抜ける。

 サラリーマン群と別れて、広くなった高校への道をゆっくりと歩く。どうせ、まだまだ遅刻はしない。

「神藤!おはよっ!」

 自転車に乗った女子のクラスメイトが、追い越し様に挨拶してきた。

「ああ!おはよっ!横山さん!」

 だいぶクラスに馴染めてきた。

 時間が解決してくれるかもなんて、もう期待していない。今のクラスメイトとも、俺から学食で話しかけたのがきっかけだ。

 俺自身を変えていきたい。飛鳥のために。そして、佐久耶のために。

 それからも、何人かのクラスメイトと挨拶を交わして校門をくぐる。

 教室へ着いて席に座ると、理沙がにこにこしていた。なんか、馬鹿っぽい。

「おはよう。理沙」

「おはよう!御剣」

 そして、やたらと機嫌がいい。

「どうした?なにかあったの?」

「ふっふ~ん。べっつにぃ~」

 こういう時の理沙は、かなり嬉しいことがあった後の理沙だ。ヒミナのことで沈んでいたのは、完全に払拭されているように見える。

 昨日の放課後から今朝までの間に、間違いなく何かあった。

「おはようさん!御剣!」

 さらに問い詰めようとするところで、達也たちがやってきたので、聞くことができなくなった。

 やがて、ホームルームが始まる時間が近づいてきて、3人が自分の席へと戻っていった。

 机の上に理沙の手が伸びてきて、リズミカルに机を叩く。

「みつる♪みつる♪」

 そして、跳ねるような口調で呼ばれた。

「放課後、屋上に来て」

「えっ?また?だって、昨日も屋上に呼び出されたのに」

「いいから屋上に着てね。絶対よ」

 馬鹿みたいな笑顔を見ていると、理由を聞くのも馬鹿らしくなってしまった。

 わざとらしく大きな溜息をついて答える。

「了解。行きますよ」


 傾き始めた太陽に照らされた屋上には、誰もいなかった。

 ・・・理沙の奴、人を呼び出しておいて、遅刻かよ。あの能天気馬鹿笑顔が。

 心の中で毒づき、待つことにした。

 なんだかんだ言っても、俺にとっての理沙は同じ経験をして、大切な者を失った者として大切な存在だ。

 そういう意味では、俺にとっても理沙にとっても、あの戦いについて話せることができるのはお互いしかいない。

 だから、今日もそれ関連だろう。

 そんな友を蔑ろにできるほど、精神の強い人間じゃない。

 これ以上、日常を失いたくない。

 俺の周りから誰かが離れていってしまうのは、もう佐久耶だけでたくさんだ。

 ベンチに腰掛けて、待つことにする。

 風が心地良く眠気が襲ってきた。


「・・・っくし!」

 寒さで目を覚ました。

 空には星が瞬き始め、遥か向こうに少しだけ夕暮れが残っているだけ・・・

 おいおい。マジかよ。理沙のやつ。そりゃ、眠った俺にも責任はあるかもしれないけど、それでも、これは・・・今、何時だよ。

 携帯を取り出そうとした拍子に体から何かが落ちた。

 暗くてよく見えないけど、見知ったシルエットな気がした。

 ・・・女子生徒の制服か?

 でも、なんで俺の体の上に?ここまで、飛んでくるような風は吹いてなかった。誰かがかけてくれたとしか・・・

 そっか。理沙だ。

 寒い中で寝ている俺を気遣って、制服をかけていってくれたんだ。でも、寒い中で話すのに寝起きだときついと思って、暖かい飲み物でも買って来てくれてるのかもしれない。

 理沙はよく気が回る。何回助けられたことか。

 戻ってくるのを待つことにして、屋上から町並みを見下ろす。

 綺麗な町。田舎っぽいけど、懐かしい感じがする。なにより佐久耶が護った町。

 なのに俺は佐久耶を守れなかった。

 けど、佐久耶は命をかけて、この町を護りきった。

 だから、俺が絶対に護ってみせる。

 それしでか、佐久耶の願いに答えられることができないから。

 屋上への扉が開く音がした。

 やっと理沙が戻ってきた。

 少し怒った態度を見せても、問題ないだろう。待たされたのは、事実なんだからな。

 入り口に立っている理沙へと、顔を向ける。

「遅いぞ、理沙。今、何時だと・・・」

 ・・・俺は、とうとうイカレてしまったらしい。こんなのはありえない。

 悲しみが人を壊すとは聞いたことがある。

 けど、まさか、俺がそんなことになるなんて思わなかった。

 確かに、そこには缶ジュースを手に持っている人がいる。

 だが、それはありえない。


 金色の髪の少女が微笑んでいる。


 その懐かしい笑顔に、頭の中が真っ白になり、一歩も動けなくなってしまった。

 けど、その姿は、夜の訪れとともに消えてしまいそうに儚い。

 ・・・これは夢か?

 だから、触れることで存在を確認したい。

 恐る恐る触れる。流れるように指の隙間から逃げていく金色。

 確かにそこに存在していた。

「どうして・・・生きて・・・」

「ベルフェゴールとの戦いで死んだわ。でも、あの戦いで貴方の功績を認めてくださった4大天使が神に進言してくれて、パートナーとして戦った私を生き返らせてくださったの」

「じゃあ、また俺のパートナーに?」

「私は・・・」

 何か言いあぐねているかのように、言葉を切った。

「私は罪人なの」

「えっ?」

「7つの大罪の1つを犯した愚かな天使。 神があの戦いでの功績を評価してくださったから、死なずにすんだのに・・・でも、私は罪を犯した。ベルフェゴールと同じように罪を犯した。だから、今の私はもう天使じゃないのよ。そして、私が犯した罪の責任は、あなたにもあるのよ。御剣」

 ・・・なんてことだ。護れなかっただけじゃなくて、そんなことまで・・・

「ごめん・・・」

 謝ることしかできなかった。

 と、くすくすと笑い出した。

「なんで、謝るの? 責任があるからって悪いわけじゃないわ」

 微笑んだままで俺へと歩いてくる。

「人間に恋をしたのは、私自身の責任よ」

 自分の耳を疑った。

「それを神に知れて私は裁かれた。人間として人間界に追放されてしまった。だから、今はか弱き人間の女の子なのよ」

 笑った彼女が胸に飛び込んできた。

 事態が把握しきれずにいると、缶ジュースが落ちる音と暖かい感触で意識を戻された。

 嬉しさをありのまま伝えようと抱きしめると、俺の胸へと顔をうずめてきた。

「ただいま。御剣」

 大切な存在が、俺がいる場所に帰ってきた。

 天使であろうと人間であろうと、そんなの関係ない。

 大切な存在であることには変わりない。

 この地で、この高校で、一緒に生きていける。

「おかえり。佐久耶」

 失いたくないと願った日常が戻ってきた。

 そして・・・

 これで、遊園地へ行ける。

 青いワンピースが似合う夏にもなる。

「遊園地、行くだろ?」

 昨日の夢。佐久耶が手を振っていた夢。

 4大天使に感謝しなければならない。

 そして・・・さらに感謝しなければならない存在が彼方の空にいる。

「もちろんよ。約束だもの。好きな御剣と一緒に行くって。そう言ったじゃない」

 その答えに胸が満たされた。

 細い体を思いきり抱きしめながら、天を仰ぐ。

 姿も見たことない存在だけど・・・

 神よ。あなたの偉大なる裁きに感謝します。

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