変わらない毎日と変化した日常
小淵執悲
第1話
―――僕は人間が嫌いだ――――
最近このような言葉をよく口にする人間を一人知っている。
―――別に全ての人間が嫌いなわけじゃない、大多数が嫌いなだけさ―――
こうそいつはぬかすが、普通に考えてもみろ、全ての人間が好きな奴なんてこの世に存在するもんか。人には趣味嗜好に容姿性格、バックグラウンドから価値観に至るまで全く同じの人間なんて存在しない。合う、合わないがあって当たり前、ただお前はその負の部分が他と比べてデカいだけ、言ってしまえば…それだけ他人を許せない、懐が狭いだけだ。ただそんな人間がどういう末路を辿るのか、興味が無い訳ではない。しかしまあ、そんな人間がこの狭く閉塞した村のような極東の島国において生きていけるのかと問えば、どうなんだろうかと口を濁すしかない。例えば今この通勤・通学ラッシュの混雑する電車の中、隣の男性の明らかに自分の数倍はある体躯に圧迫され、逆隣りの三十路、四十路あたりの女性が香水の匂いをまき散らしながら化粧をし、目の前に立つ女子高生二人組が密着型のイヤホンを越えてその低俗な会話を響かせているこの状況に置かれれば、そいつは一体どのような反応を見せるのか、気にはなる。
バカバカしい、閑話休題だ。
こんな無駄な事を考える時間があるならもっと別の事にこの少ない脳ミソを使った方がいい、それこそ今日の講義の―――。良く考えなくとも今日の授業でまともに教授の話を聞いた事のある授業はあるのか、いや無い。―――反語になってしまった。別に教授が嫌いだとか授業が下手糞だとか、教授陣に原因を求める気は無い。ただ何となく、そんな気になれていないだけだ。
大学の最寄りに着き席を立つ。改札を通り周りの人の流れに従い歩みを進める。このくだらない毎日の繰り返し、ただそんな生活に飽きていた。大学直前の橋を渡りはじめると風が強くなった、毎日のこの生活に学生たちを追いやるかのように。
指定はされていないが大体席は決まってくる。三年にもなればそう言うものだ。仲の良い者、反りが合わない者、そう言うのは初めの数ヵ月で大体分かり、そして固定されていく。別段変わる事のない日常の一幕、友人と挨拶を交わしいつも通りの席に着く。どこからともなく「佐藤、お前まだ人間嫌いとか言ってんのか?」や「なんだカズト、まあだそんな事言ってんの?」というような会話が聞こえてくる。反応しない程度に無関心を装い、ただ会話の内容に少し耳を傾ける。ただの講義までの暇つぶしだ。例え講義が始まったとしてもする事は何ら面白くもない、スマホでゲームか、タブレットPCでレポートか。こんな毎日の繰り返し、意味を見出すことは難しい。将来の夢?無い訳じゃない。これだけでもマシだと思うのだが、どう考えても二十歳を超えた大人が親の金に加えて奨学金という借金を抱えながらも無為な毎日を過ごしている、これに更に目的が無いなんて追加したら阿呆ではないだろうか。バイトをいくらしようが大した学費の足しにはならず、逆に自身の学業に支障をきたすというレベルで行う者もいるが、それでは本末転倒も良いところ。それに比べて・・・別段成績が悪い訳でもないが、良くもない。そのうえバイトも細々、さあどうする?いったい何度目になるんだろうな、この問答は。
講義が始まって間もなく、ギリギリの所で入室し出席を取る人を待ちながら教授はゆっくりと口を開く。
「君達、今は楽しいかい?」
正直耳を疑った。教壇に立つ教授は一年の最初期から講義を担当していたが、このような言葉は初めて聞いた。薄汚れた白衣に身を包んだ爺さんが、自らが灰色の大学時代を送った事を笑って話している。別段おかしな風景ではないのかもしれない、講義に入る前の軽い雑談、それだけなんだろう。塾の講師の経験もあるが、その時先輩講師に「講義は全て講義講義していては生徒には届かない、休息の雑談は必要だ」と言われた事をふと思い出す。確かにとは思ったが、別段重要性を実感する事は無かった。だが今この瞬間、今まで、少なくとも最近一年間は自分が進む気のない方向の講義、そう割り切って聞く事のなかった講義に、こうして耳を傾けてしまっている。普通、日常、それがどこか遠くで、それでいて目の前で叩きこわされたかのような爆音と共に崩れ落ちていく、そんな錯覚に陥った。なんの心象の変化だろうか。三年に対する今年度初の授業だからだろうか、多くの生徒は何の感情も抱かず粛々と先に起こった事を受け入れているようだった。まるで今この世界で、事の異様さに自分だけが気が付いていて、そして周りの流れに取り残されてしまったかのような、そんな感覚に囚われていた。
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今日最後の講義が終了して教室を出る瞬間になってもこのふわふわとした不安定な感覚が抜け切れずにいた。友人達は皆気にした様子もなく、直ぐにバイトやサークルへと駆けて行った。今日の最終コマに講義は無い、少しだけ早い帰宅だ。この後は電車に乗り家に帰り、コーヒーを飲みながら漫画や小説を読んで寝る。そんなものだろう。
普通だ
『今は楽しいかい?』、こんな言葉に何故こんな気持ちになってる?・・・簡単な事、今俺は、つまらないんだ。ただその事を定年間近の爺さんに指摘され、不覚にもその通りだと思わされた、その何処か新しく、そして悔しい感覚に溺れていたのだろう。『君達はまだ若い』、そりゃあ三倍も人生生きてるような人から見たら若いさ。『何を諦めている?』、別に諦めたつもりは無かった。ただ、どうしてこんなにもその言葉は刺さるのか。『新しいことを始めるのに年齢は関係ない?それは嘘だ。私くらいになれば何も始められない』、自嘲気味に笑う爺さんの言葉に何を思った?『別に何もゼロから始めなさいって事が言いたいんじゃない、少し変化を持たせてみるだけでも良いんだ』、ああ、なんて簡単な事をこの人は簡単に言うんだろう。心の中でピーマンみたいな顔してるなって思っててごめん。ああ、ほんの少しで良いんだ、今の生活に何か変化が欲しかった。趣味は多い訳じゃないが無い訳じゃない。なんで今まで何もせず過ごしていたのか、少し恥ずかしくなったからかうつむき加減になる。いや、思わず上がる口角を周りに悟られたくなかったからかもしれない。朝は大学の方へ追いやるようだった風も、今は少し違った日常に踏み出さんとする俺を後押しするかのように吹いている。少し、本当に少しだけだが、何か変わった事をしようと思えた。
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意気込んでみたは良いモノの、何をする事も無い。ただ電車に乗ってしまった身としてはこのまま家に帰るしかない。ただこれでは何も変わらないわけで、ただ大学の付近は何も無い、家に帰るまでは何も変えようが・・・。
バカらしい
これじゃ何も変える気がないじゃないか。くだらないと思いながらも席を立つ。まだ帰宅ラッシュにはまだ早い空席の目立つ車内で座らない人間は居ないわけではないが数は少ないだろう。まあそんな奇異な人間を気にするほど暇な人なんていないだろうが。車窓から見える景色は都会でもなく田舎でもない、中途半端な景色。高い建造物は無い平淡な街並み。・・・嫌いじゃない。何を思ったわけでもないが立ち上がってから三駅目、今までその名前すら気にした事のない駅で下車する。線は二本の改札は一つ、出口は東と西の小さい駅。特に理由はないが東に向かい、階段を下りる。ずっとふわふわしていた感覚は、やっとで地面を見つけたように静かに安定感を増す。足取りは重くは無い、ゆっくりとだがしっかり進んでいた。視界のゆっくりした速度、それにそぐわないほど感覚は疾走し、次々に入れ替わる脳内の景色とゆっくりと移る視界、その矛盾、違和感に思わず上がる口角を抑えられない。今巷の女子高生が自分の姿を見たら「キモい」と言うだろう、そう確実に思えるほどだが、ただこの感覚は・・・嫌いじゃない。久しく味わっていなかった、高揚感とでも言えばいいのだろうか、言い表せぬが嫌じゃない感覚に現実がやっとで着いて来た、そんな感じだ。ただ途中下車して所々に自然の残る住宅街を散策しているだけなのに。我ながら単純だと思う、でも、だからこそ楽しめる。聞く人が聞けば馬鹿と言うだろう。その程度の事でも自分にとってこんなにも違った景色を見せてくれるとは、たまには講義も耳を傾けてみるものか、初めて来たにもかかわらず昔を思い出させてくれる古びた公園はそう思わせてくれるには十分なものだった。
足元に転がって来たボールを公園で遊ぶ子供に軽く蹴り返す。最近の生活ではこんな場面に出くわすことも無い、なんでもない事なのに何故か嬉しくなる。公園のわきにある路地に足を運べば先ほどの住宅街とは一風違った光景が広がっていた。方向感覚が間違っていなければ奥に見える比較的大きな道は駅に向かう道だろう。今足を運んだ細く夕方の今となって薄暗い道は子供は足を運びにくいような雰囲気を醸している。まあ自分が小学生の頃なら鬼ごっこ等で迷わず利用しているであろう程度のものなので、別段人通りが少ないのかと問われればそうとも言い切れないような道だ。先ほど遠くで電車の走る音や振動が聞こえたが、先ほどの想定が当たっていたようで奥に見える大通りを人が多数通り抜けていく。ただ誰一人としてこの道に入ってくる気配は無い。人通りに関しては想定を外したように思える。なんでわざわざこんな道に足を踏み入れたか、それはただ気になったのだ、薄暗い道に一つ存在した看板が。何の店だろうか、こんな微妙な裏路地とも言えぬ場所だ、スナックか何かだろうか、そんな事を思いながら足を運んだ。看板にはただ、こう書かれていた。
【 こうひぃ おかわり自由、 】
ただ立てかけてあるだけの黒板に白いチョークを用いて書いたんだろうその文字がいやに可愛く見えて、しかし異様にも思えた。この看板があるのは古風な建物の前で、戸はいかにも古書堂にありそうな様相、窓は全てレースがかけられており中を窺うには腰をかがめて覗く様にする必要がある。流石にこんな道でそんな行為をしていたら変質者として通報されてもおかしくないので逡巡する。ただ「ああ喫茶店だったのか」と通り過ぎればいいだけなのかもしれないが気になってしまったのだ、このたった一つの看板のみで、さらに言えば最後の点は何なのか、立地も様子も全く集客を目的としてないこの店に。浮かれているのかもしれない、今日最初の講義で何も無ければ来る事のなかった、ただの思い付きで降りた駅で、散策の最中に見つけたこの店と、何か運命めいたモノがあるんじゃないかと。実際そんな事はなく、ただの喫茶店でしたごちそうさまですと終わるかもしれない。最早やってすらいないかもしれない。それでもただ、ここに来たという事を、止まった視界とは裏腹に駆け続ける高揚感を、ゆっくりと噛みしめたかっただけなんだと思う。
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「いらっしゃい」
そう言うのは温和な笑顔を浮かべた、初めて好々爺とはこういう人なんだと思わせるような老人。店内の雰囲気はゆっくりとした雰囲気で何処か違う世界、こんな事を言うと趣味がばれそうだが時の流れがどこが違うような感覚に囚われる。いらっしゃい、この言葉を言われたということは、認識が間違っていなければここは客商売を生業としていると考えて良いはずだ。何を言われることも無いので席を探す。入り口はカウンターに対して正面ど真ん中、店内は少し暗めの照明に照らされていて、カウンターの席とテーブルの席が半々、元々そこまで多く客を入れる気の無いような席の数だ。カウンター席の左端に一人いるくらいで他に客の姿は目に入らず、軽く流れるクラシックが落ち着いた空気を醸し出している。一人の客は原稿用紙に何かを書いているようで、ペンの走る音が絶え間なく聞こえてくる。カウンター客の逆端のテーブル席、そこに壁を背に店内を見渡せるような位置で腰を下ろす。ああ、普通の喫茶店だ。それがやはり嬉しくて、ただ流石にここでにやけるのは自重して、テーブルに置いてあるメニューに目を通す。別にここの喫茶店に始めて来ただけであり、家でコーヒーを飲む程度にはコーヒーは好きだし、喫茶店の落ち着いた雰囲気は好きだ。普段生活してる中でも大学の友人とチェーン店や個人経営問わずで喫茶店を巡る事もある。いや、一人でっていうのは初めてか。必ず目の前には誰かが居た、その癖でテーブル席を選んだのかもしれない。メニューに目を通して裏面に返したあたりで店の裏から高校生くらいの女の子が制服にエプロンという姿で出てきた。バイトだろうか、軽く店主であろう老人と会話をして作業に入っている。メニューは表面が飲み物、裏面が食べ物と簡単で良くある作りだ。今日は別に何か食べに来たわけでもないので表面に戻す。コーヒーに紅茶、定番のものはしっかり網羅されているだろう。軽く顔を上げ、手を挙げると目の合った女の子がオーダー伝票を手に寄ってくる。
「ご注文をお伺いします」
丁寧で優しい声だな、そう感じる良く通る良い声だと思う。前行った個人経営のお爺ちゃんの注文取りは酷く聞き取りずらかったなと思い出しながらもう一度メニューに目を落とす。
「オリジナルブレンド、お願いします」
この瞬間、一瞬で何かがヒビ入ったような感覚に襲われた。なんだ?
「オリジナルブレンドでよろしいですね。他にご注文はありますか?」
首を横に振ることで答え、少々お待ちくださいと言う店員を見送ったところで気付く。何をしてしまったんだ俺は。その感情は全身を蝕むように広がった。今俺は何を頼んだ?ブレンドコーヒーだ?ふざけるな、今日は何を思ってここに辿り着いた。考えてもみればどうでもいい事なんだと思う。でも今確実に俺は後悔してる、間違えたんだ。ブレンドコーヒー、俺が初めて行く喫茶店で必ず頼む物。間違えなく、「今まで通り」の選択をしたんだ。大学を出てから全て新しい事をしたのか、今まで通りの事を全くしてないのか、そこまで厳密にする意味があるのか、様々な感情が奔流となり渦を巻き、そして抜けていく。違う、これはただの自己満足で、ただ自分が納得していればいいんだ。だからこそ、今俺は納得出来ない選択をした、それが問題なんだ。はたから見たら俺はどんな顔をしてるんだろう、ただただ放心して何も無表情に固まってるのだろうか。そんな事はどうでもいい、俺は今、間違えた。
「ばっかみてえ」
思わずそんな言葉が口に出て、少し笑う。本当にバカみたいな話だ。教授の話に少し影響されただけで変に考え動いただけの結果だ、元より何も得るものがなければ失うものも無い、自己満足に失敗しただけの阿呆だ。むしろ今日の結果はこんな所に喫茶店を見つけた、それで良いじゃないか。十分新しく、いや、久しく感じていなかった高揚感?を味わえた、それで今日は良いじゃないか。そう考えたら幾分か気が晴れる。変に考える事が無くなって好きなコーヒー、新しい喫茶店で初めて飲むブレンドコーヒーは少なからずウキウキするものだ。今日一日を通して味わったあの高揚感には遠く及ばずとも、楽しみなものじゃないか。店主、いやもうマスターと呼ぼう。マスターがにこやかにハンドルをを回すと、だんだんとコーヒーの香りが漂ってくる。ああ、今挽いているのか、しかもあの手動のミルで。良いじゃないか、最高じゃないか、中々味わえるものじゃ無い、単純な俺の脳ミソはたったこれだけ、注文を受けてから豆を挽く、それも手動のミルによって、この事だけでもう高揚している。なんでこんなにもバカなんだろう、こんなにも簡単に高ぶるならなぜ今までの生活でこれが無かった、そう思わずにはいられないレベルで気分がいい。チェーン店ではまず無い、急ぐ必要がないからこその手法、そして何より、こんな穴場を自分一人が見つけた、大学の友人は知らないであろうこの場所を自分が見つけた、その事実が、より一層のスパイスとなって俺の中を輝かせている。単純でバカみたいだが、それでいい。何に落ち込んでたのか何んてもう忘れた。むしろこれはルーティン、初の喫茶店ではブレンド、そう決めようじゃないか。ちょっとした矛盾に気が付きつつも敢えて無視をする、そのくらいで丁度いい。そうこうバカみたいな考えを巡らせてるうちに、マスターはコーヒーを淹れ始めている。勿論、手で、ゆっくり、ゆっくりと。
出されたコーヒーは勿論最高だった。正直舌が肥えてるわけじゃないが、ただ最高だった。落ち着いた雰囲気の中コーヒーを飲みつつ小説を読みふける、一人で来たのが初の俺としては初めての試みだった。良い、こういうゆっくりとした時間、忘れていたのかと問われても頷けないが、改めてその良さを実感する。カウンターの奥にサイフォンも存在しているし、いつかはあれで淹れたコーヒーを口にできるかもしれない。小説も数十ページ進んだろうか、そろそろ犯人の目星くらいついても良いと思うが全くそんな気配のない推理小説にヤキモキしながら最後の一口を飲む。初めはやはりブラックで飲み、少し経てばミルクを少量だけ入れて飲むのが好きだ。熱いうちでないと楽しめないおいしさもある、必ずそこは味わいたいのだ。ただその後はいつもまちまち、ゆっくりと数十分掛ける時もあればものの数分で飲み切ることも少なくない、ただ今は小説があったためゆっくりとしたペースになっただけだ。手を挙げて店員を呼ぶ。いつの間にかカウンター席の客はスパゲッティをむさぼるように食っていた、少し苦笑するレベルで。
「すいませんね、あの人いつもあんな食べ方なんです」
近づいて来た店員さんはそんな事を言う。顔に出ていたか、流石にそれは他人の気分を害する、少し気を付けよう。無意識なので改善できるとはミジンコ並にも思わないが。
「いえ別に、ところで少し聞きたい事があるんですが」
「はい、どうされました?」
お互い苦笑気味だったがそのまま気になっていた事の質問に入る。メニューにはコーヒーの欄の最上部に500円と記されているのみ、他のどこを探しても見当たらないのだ。
「店の外にあった看板の、おかわり自由ってやつに関してなんですけど」
そう言うとやっぱりとでも言いたいような顔をしてちらりとマスターの方を見る仕草をする。マスターの方はしてやられたと言うような反応をしつつも笑みは崩さない。
「すいません、分かりにくいですよね。簡単に言ってしまえばこちらのコーヒーの欄、どれでも飲み放題という意味です」
「ああ、なるほど。・・・へ?」
そんな馬鹿な、という感情は全く隠される事無く俺の顔に出ていると思う。だってそうだろう、普通一杯が300円以上するもんだ、ましてや全部人の手、一杯にかかる値段は500円でも安いと思う。なのにそれが飲み放題?採算がどうのの話じゃない。
「ふふ、うちは採算を取るのが目的じゃない、ただ祖父の道楽の為にあるんですよ。だからお気になさらず、どんどん頼んでくださいね」
そうは言うが、いくらなんでもそれは、と思わずにはいられない。でもマスターも店員さんも慣れたような反応、やはりこの反応は正常なのだろう。
「じゃあ、マンデリンで」
「はい、承りました」
最後に音符が付きそうなくらいの感じで答えて戻っていく。呆気にとられたままではどう見ても阿呆だ。少し頭を落ち着かせて小説に戻る。ただ、一抹の不安と大きな高揚、期待感だけは、胸のうちで燻っていた。
「おう」
どれくらい経ったんだろうか、小説はクライマックスに入りコーヒーは既に4杯を飲み終えた。マンデリンに次いでキリマンジャロ、今飲み切ったカップにはカプチーノの泡が付着している。そんな折に店に入って来たのは一人の男だった。髪は完全に白くなりきっていて、それをワックスでオールバックに固めている。常連のようでマスターは「いらっしゃい」と一言言うと既に豆を挽き始めていた。男はちらりとこちらを見たが、何も反応する事なくつかつかと歩みを進め一発スパーンとカウンター端の客を引っ叩いて一つ席を空けて座った。どうやらあの男も常連のようだ。ワイワイと言い合いを始めたが気にする事ではないし、新参の俺がどうこう言うのは気が引けた。スマホで時間を確認したら店に来てから既に1時間半は経っている、妙な居心地の良さだった。そろそろ帰るかと思い伝票を探すが見当たらない、しばらく前に勤めていた居酒屋のスタイルを思い出し荷物をまとめてレジへ向かう。レジは出入り口の近く、俺が立ったのと同時に店員さんが動き出しているので問題ないはずだ。聞こえてくる二人の言い合いは「お、今度はえらく続いてるな、作家大先生か!」「うるさい、気が散るから向こうで話しててくれ」「何を?若いもんが・・・」といった具合でだっはっはという笑い方が特徴的な男が一方的に絡んでいるだけのようだ。少し距離が近づいて分かった事は、男は割としっかりした足取りや姿勢、声の通りから初老程度の歳だと思っていたのだが、見立てよりも幾分か歳を召してるようだった。
「お会計、500円になります。はい、丁度お預かりしますね」
何の問題もなく500円、税込みだ。感動すら覚える。500円玉は無かったが100円玉が6枚あったので札をくずさずに済んだ。たったそれだけの事なのに今日は嬉しく思える。
「またどうぞ」
定型文句だろうが社交辞令だろうが、その言葉に気を良くしつつ店を後にする。そんなちょっとした発見、大学三年春の事だった。
変わらない毎日と変化した日常 小淵執悲 @syuuhi_obuchi
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