第23話 終章5. (終)
「彼女の名前は、一条倖啼さん。えぇ、あなたが知っている一条倖啼さん、そのものですよ」
富樫がそう言った。
「あなたがどうして言葉を失っているのか、もちろん、わかりますよ。
様々な疑問があるとは思われますが、とりあえずひとつ目、なぜ彼女はこんなにも若々しいのか? 羨ましいですねぇ、彼女、どう見ても20代ですからね。我々のような中年には目の毒ですよ、こんな笑顔にいつまでも照らされていたら溶けてなくなってしまいます。まぁ、それはともかく、一ノ瀬さんや神宮さんたちから説明させるのも野暮ですから、ここからはもう一度、私の方から説明をさせていただきましょう。
まず彼女、一条倖啼さんですが、あなたが知っている一条倖啼さんそのものです。クローンだとか、生き別れの双子の姉とか妹とか、はたまたどこかの国の研究組織が作りあげたそっくりさんのロボットでも、それらのいずれでもありません。あなたが知っている一条倖啼さんそのものです」
倖啼はただ黙って算に向かって微笑んだ。算は今自分が見ている光景が信じられなかった。幸せな気持ちなど微塵もない。ただただ、純粋な驚愕があるだけだった。
「彼女、植物状態だったそうですね。私も、実はあまり詳しくないのですが……」
嘘だ、と算は即座に思った。根拠なんてまったくないが。
「まぁ、このように覚醒したのは今から1年前だそうです。お二人がいつものように読書会を開いているときに彼女は突然、目を醒ましたそうです」
「馬鹿な」
算はこれまた即座に反応した。そんなはずはない。
算は約30年前、もうほとんど一条は目覚めないだろう、と言われたのだ。もし目覚めるとすれば、それは奇跡に近い何かを待ち望むしかないとも言っていた。つまり何か? 1年前に、その奇跡が起きたとでもいうのか。
「『――神は存在しない。神は存在し得るものではないし、奇跡なども存在しない』」
「?」
「あなたの言葉だそうですね、算さん。一ノ瀬さんから聞きましたよ。
20年前に、私立S学園で算さんが一ノ瀬さんに向けた一言だそうですね。まぁ、もしかしたら算さんは覚えてないかもしれませんが、一ノ瀬さんが覚えておりました。
私と考えが同じで助かります。神なんてこの世にはいません。もし居たとしても……、居ると考えること自体非常に馬鹿らしいものがあると、私は思っております。しかし、あなたと私では考え方に微妙な違いがあります。〝神は存在しない〟、これは今も言いましたが、真だと思います。しかしね、私はあなたほど、ギュウギュウな理知主義にはなれんのですよ。まぁ、これは人によって言葉、表面は変わるのかもしれませんが、〝奇跡〟というものは存在し得るものだと思っております」
「…………」
突飛過ぎる驚愕を現在進行形で存分に受けている算に、今の富樫の言葉が頭でしっかりと処理できたかはかなり怪しい。たしかに算は神を信じていない。それはたしかであるが、20年前にそれを一ノ瀬に言ったなんてこと、だからどうしたとしか言えない。そもそも、話がどこに向かっているのかわからないのだ。
「20年前には人類にはまるで手が出せなかった領域に、今では当たり前のように踏みこめる。それは、言う人が言えば、〝奇跡〟と呼べるものではないでしょうか? 例えばそう、特に、20年前から時が止まっているような人間からしてみれば、です」
「――――!!」
その一言で。
算は理解した。富樫が何を言いたいのかを。
なぜ序盤に、あんな突拍子もないことを話したのかも。
「ウォールフ……脳挫傷区分……」
「その通りです。いやー、やはり算さんは察しが良い。察しが良くて助かりますよ、本当。その通り、ウォールフ脳挫傷区分の確立によって、救われた命がここにあったわけです。20年という時の流れが、まぁ実際には優秀な我が国の医師がということになるわけですが、それが彼女の命を救ったわけです。良かったですね、あなたが殴り殺した相手が復活してなくて」
「…………」
あまりにも不謹慎が過ぎる富樫のコメントであったが、核心はついていた。
「2例目の手術が彼女に対して行われました。新しい領域のものでしたので、金もかかりますし、人員も限られています。その両方を突破した功績者は何を隠そう、桜井校長です。まったくこのオヤジはどこにどういうコネを持っているのかわかりませんがそれはさておき、2例目の手術後もすぐに彼女は意識を取り戻さなかったそうです。しかし、しばらくしてから、彼女は目を覚ましました。一ノ瀬さんと、神宮さんの絵本の読み聞かせの声を聞いて、ね」
「………………」
そうか、そういうことだったんだ。
「あなたが出した結論というのがつまり……?」
「まぁ、もう良いでしょう。しょうもない問答もこの辺にして。私は次の仕事がありますから、この辺で失礼させてもらいますよ。あなたのこれからについても、桜井校長に提案をひとつしておきましたので、感動の再会が終わりましたら、聞いておいてくださいな。では、この晴れやかでお涙頂戴の場面に、私のような、禿げた醜い弁護士は邪魔でしょうから、失礼いたしますよ。桜井校長、あとはよろしく」
富樫は桜井に目を向けると、桜井は静かに頷いた。それを確認した富樫は踵を返し、背を伸ばし、たしかな足取りで、まるで一本の綱を渡るかのように綺麗なコースを残しながら歩き去って行った。それを算は黙って見つめ続けることしかできなかった。
「(仕事なんてないくせに…………)」
目を閉じ、やれやれという溜息と共に桜井は富樫との約束を思い出す。
もちろん、算の人生はこれで終わったわけではない。これからというものがある。算がこれから一条とどのような関係になるかは知ったことではないがもし〝何か〟があるならそれなりに先立つものが必要となる。もちろん、〝何か〟がなくても、だ。
■
「まぁ、こういう線でいきましょう。算君とやらに何かやりたいことがあるならばもちろん別ですが、私の事務所の職員として働いてもらうというのは。もし資格などを取りたいというのであれば、事務所で働きながらというのも別に良いのではないかと」
「いや、しかし、そこまで面倒を見てもらうというのも…………」
さすがに桜井は反対した。もちろんそこまでしてもらうのは有難いが、富樫にかかる負担は並々ならぬものになってしまうのではないか。
「いやぁ……まぁ……。それでも当事務所は、優秀な人材を欲していますからねぇ」
意地悪そうな笑顔を浮かべて富樫は言った。
■
「……久しぶりっ、算君」
黄泉の世界から戻った、体感時間だけで言えば少女とも言える存在はそう言った。
桜井は富樫が言っていたことを思い出す。神も奇跡も存在しないという算の主張に対して富樫は、「神の存在は信じないが、奇跡の存在は信じている」と言った。
その言葉が果たして本当のことかどうかはわからない。ただ単に算を納得させようと思って、なんとなくこの場の雰囲気を盛り上げたくて言っただけの出鱈目かもしれない。桜井は富樫という男のことを、並以上には知っているつもりだ。富樫という男は、そういう出まかせをいくらでも口に出せる男なのだ。知れば知るほど、知ろうと思えば知ろうとするほど、知ることができるのは、富樫という男の闇は深いという徒労にも似た感覚だけ。富樫という男について知りたいと思うこと、そのものが無意味なのだ。
しかし、その富樫の言葉をなぞるわけではないが、桜井自身、奇跡はあるのではないかと思える気にはなった。
算は両膝をついた。
まるで誰かがマリオネットの糸をぷっつりと切ったかのようだった。
そして、両手をつき、大声で泣き出した。
まるで、魂を吐き出すかのように。
いや、きっと、魂を取り戻しているのだ。
そしていつしか両手で顔を覆い、仰向けになって叫び続けた。
もちろん悔しく泣いたり、悲しくて泣いたりしているわけではない。
かといって嬉しくて泣いたりしているのか? と問われればそれはまた違うのではないだろうかと首を傾げたくなる。喜怒哀楽を飛び越えた、純粋な、あまりにも純粋すぎる驚愕という感情によって涙を流しているのかもしれない。人間の感情というのはよくわからないものだ。
この世界には言葉では言い表せないもの、現象、感情などいくらでも、それこそ、掃いて捨てるほどある。それをもしかしたら神と呼ぶのかもしれないし、奇跡と表すのかもしれない。
意味を突きつめて勘案しても仕方ない。
この場合、算はどんなことを思っていたのだろうと考える。
算は別に、このような結末を待っていたわけではない。考えてもいなかっただろう。しかし現実とはよくわからないもので、このような結末が彼を迎えた。彼は別に努力したわけでも奇跡を願ったわけでも、祈ったわけでもない。ましてや、神を信じたことも、ただの一度もない。ただ彼は、自分の夢を二人に託しただけだったのだ。つまり、努力や祈り、神への信仰心などは所詮無意味なのだ。少なくとも、算にとっては、それらは無意味なものであった。人生を生きることにおいては。
ただ彼は、生きていただけだ。前を向いて生きていたわけでもない。本当にただ、抜け殻のように生きていただけ。ただ、生きていただけ。
そしてただ、彼には少々、普通の人より冬が長かった。たった、それだけのことだったのだ。
朝日が、静かに昇り始めたのだ。
冬の朝は遅く、闇に包まれるのも早い。
しかし冬が終われば、春はもう、すぐそこだ。
(完)
冬の寒暁 Cold Dawn of Winter
ディープ・インパクト Dawn of Mysteria
冬の寒さが厳しい3月の夜明け -Dawn of Mysteria- 神宮由岐 - hyukkyyy @hyukkyyy-and-Yuki_Kamiya
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