第22話 終章4.
自分でもおかしな趣味であることは重々承知していた。いや、おかしな趣味、ではない。変な、悪い、気持ちの悪い趣味だ。自分の家とは方向がまったく逆だというのに、自分は一ノ瀬優貴と神宮由岐のあとをつけている。特に理由はない。
自称リアリスト入門者という自負がある自分が、こんな利益にならないことを進んで、誰からの強制でもなくやってしまうなんて。なんて愚かしいことか、と冷静に思う自分がいる一方で、そんな自分の卑劣で、悪趣味極まりないストーカーもどきの尾行、いや、もどきではなく、ストーカー行為を止められずにいたのも、また事実であった。
自分はなぜ、あの二人を見つめているのだろう。自分はなぜ、あの二人を見つめているという行動をとっているのだろう。
わからない、という体裁を保ってはいるが、その行動の答えは自分の中の冷静な自分がよく知っていた。算六夜は、一ノ瀬と神宮の中に、今では決して届かない、理想の世界を夢見ていたのだ。それは決して、二人が羨ましいとか、妬ましいとかいった感情ではなかった。というか、何かしら特別な感情で見ているというわけではない。ただ、美しいものを美しいと思って見ているだけだった。あれこそは、自分が昔夢見た世界だった。まだ自分が、幸せになれるかもしれない、いや、幸せそのものだった。その世界を、あの二人が、その世界を具現化していた。たかが中学生時代の恋愛関係ごときにそんな思いを抱くなんて馬鹿らしいと思うかもしれない。一般的にはそうかもしれない。しかし算にとっては、あまりにも昔過ぎる思い出であった。時間的に言えば、まだ、5年も経っていないというのに。人は失って初めて失った者の大切さに気付くというものだが、算にとってその言葉は少し違った。算は失って、その失ったものの光景を見て初めて、自分の失ったものの尊さを知った。しかし、それに対して後悔はしなかった。それは当然だ。自分が失ってしまったのは、自分自身の落ち度によるものではない。自分は最善を尽くした。最善を尽くしたし、一条を襲ったクズは自らの手で葬った。それは別に復讐のために殺したのではなく、一条を救うために咄嗟に殺してしまっただけだ。意味のない復讐とはワケが違う。それは真に残念なことに結果には結び付かなかったが、自分にとってそれは些細なことだ。できなかったことは仕方ない。それがべストを尽くした結果であるならなおさらだ。世の中には、どうしたって仕方のないことがあちこちに転がっているものだ。政治家が金に汚い、嘘つきであることぐらい、仕方のないことだ。彼らはそれが仕事なのだから。それを仕方のないことと割り切るのは、神がいると信じると信じて毎日祈り、未来の幸せのために現在の苦難を黙って耐えることよりよほど生産的で、合理的だった。そう思い、そう思うこと自体を決して苦と感じないところが算であった。そう思うことは『絶対に』間違いではなく真実で。そう思うことで算は自らに精神の安寧をもたらし続けてきたのだった。両親を事故で失くし、人間ではないただの獣を一匹駆除しただけで少年院送りにされた算にとって、神なんていないもの同然であった。人が神を信じるには、神を信じるに足る土台が必要なのだ。神の子が結婚の祝祭で水を葡萄酒に変えた奇跡のようなものが。今の日本では、その〝曰く〟はかなり致命的な一打であり、普通の人生を送るのはほとんど絶望的に近いものとするものであった。少年院送りだけではもちろん〝前科〟にはならない。人を殺したとはいえ、それは〝特別な事情があると勘案するにふさわしい〟とされるものであった。だから凶悪な事件を起こしたわけではないため、検察官送致、つまりは成人犯罪者とは違う少年院に送られ、前科がつかないような措置を取られたがその〝曰く〟はどうしても拭えない。拭ないだろうと算は思っていた。人の口に戸を立てることは不可能なのだ。人の好奇心をおさえつけられないことと同様に。つまり自分の人生はほとんど破綻しかけていた、と算は思っていたわけだ。そんな自分にとって神といえる存在は、(もちろん神なんて思わないが、あくまで仮に)桜井校長だけだった。自分に楽園を見るための観客席を用意してくれた恩人だった。遥か昔の人間にとって、劇場でこことは違う世界を生きる人間たちを演じる、いわゆる演劇を見ることが特上の贅沢だったこととまったく同様に、算にとって私立S学園の生活とは、それ即ち観劇と同義であった。そして、一ノ瀬と神宮はその劇を演じる主役だった。その2人は算に、自分が見たかった理想の世界を魅せてくれたのだ。すべての人間が幸せの世界を生きることはできない。それは算自身、あまりにも理解出来過ぎる事実であった。しかし、幸せの世界の演劇を見ることで幸せに似た感情を自らの中に疑似的に作りあげることが可能である。それも算自身が感じた、動かしようのない事実であった。そしてそれが、今自分ができる精一杯であること。それが、自然であることもまた、事実であるということを。
そしてある日、そんな演劇に邪魔をするものが現れた。おそらく酔っていたのだろう観客だ。その観客は演劇をぶち壊すために、観客席から舞台に上がり、演者を、演者の一ノ瀬を襲おうとしていた。だから算は重い腰をあげて観客席に上り、酔っていた観客を引きずり下ろした。それだけの話だ。金銭的な対価を願っての行動ではない。ただ、そこで素晴らしい演技を、それが算のためのものではないことはもちろんわかってはいるが、その演技を見せてくれたお礼に、マナー違反の客を駆除しただけのことだ。できれば演者には気づかれないように。まったく気づかれないように、というのは無理かもしれない。それが叶わぬことであるならば、せめて安らかに2人がその後の人生を送れるように、道筋を作って。それもできぬのであれば、せめて、2人の幸せを祈って。ここではない場所であっても、祈ることは、できるはずだ。祈るという言葉が不適格であるなら、願い続ける。
男の人影は、一ノ瀬優貴だった。
「では、特別ゲストの紹介です」
わざとらしくテンションを上げた声で富樫は言った。明らかに楽しんでいた。その声はもはや不謹慎とも呼べるほどの領域の声だった。
一ノ瀬優貴であると算がすぐさまわかったのは、一ノ瀬の顔が20年という時の流れを経てなお、ほとんど変わっていなかったからだ。もちろん、皺が増えているというのはある。だが、逆を言ってしまえば、ただ、それだけだった。一ノ瀬の顔は、まるで20年前の一ノ瀬が少しばかり徹夜をして学校に来ているのかのような、そんな錯覚すらしてしまうほどの、顔だった……。
一ノ瀬の顔は、とても寂しげだった。
算は一ノ瀬の顔を、瞳を見た。そして一ノ瀬も、算の瞳を見た。顔が合った。
互いに、すぐには何も言わなかった。何も言えなかった。
20年という時の流れは、あまりにも深い溝を二人の間に作りあげていた。
「まったく、変わってない」
先に声をかけたのは算だった。そうでもしないと、おそらく一ノ瀬は言葉を発しないだろうと、そう思ったからだ。
一ノ瀬は口を何度か開閉して、それからようやく言葉を発した。
「君は……大分、変わったな」
悩んで出した言葉がそれなのか、と算は驚いた。が、それこそ一ノ瀬優貴だ、と思った。
「元気で、やっているのか。……その、神宮さんと」
もちろん、わかっている。
一ノ瀬の後ろに縮こまって車椅子を押しているのが、神宮由岐であるということも。
でも、口に出してそれを確認するのが礼儀であると思ったのだ。神宮は顔を出していない。おそらくは何も言えないのだろう。いや、もしかしたら女の自分は男同士の会話に首を突っ込んではいけないと思っているのかもしれない。なんにせよ、一ノ瀬と神宮が破局していないのであれば、それはそれで結構なことだ。もし何かしらの理由で破局してしまっていたとしても、別の何かで幸せを補っているのだとしたらそれでも良いと思っていた。別に、二人が一緒になることだけが、幸せではない。幸せの形は、いくらでもある。不幸の種はひとつでないことと同じように。
「あぁ、お陰様で、ね」と一ノ瀬は言った。
一ノ瀬は一ノ瀬で、簡単に「二人で幸せによろしくやってます」とは言いにくい。それは算も重々承知していた。算は別に一ノ瀬を恨んでいるわけではない。算は一ノ瀬のことを恨んでいないことを一ノ瀬は理解しているだろう。しかし、それでも一ノ瀬は軽々しく幸せであるとは言えない。そして算は、一ノ瀬は複雑な想いでこの20年を歩んできたのだろうということをぼんやりと理解はしている。ひとつの言葉ですべてを表すことなんて、できるわけはないのだ。20年は、あまりにも重かった。重過ぎた。
「どうだった、この20年は」
言葉を言い終えた瞬間に、もう少し言葉を選べないのかと算は自分自身を叱咤した。
こんなこと、相手からすればどう考えても嫌味に聞こえてしまう。
「……あぁ、その件なんだが……」
算の予想に反し、一ノ瀬は落ち込みもしなければ傷ついた風でもないような返事をした。そして、何かを問うかのように富樫の方を向いた。富樫はいつもの笑みを浮かべながらゆっくりと頷いた。さっさとどうぞ、と言わんばかりの頷き方だった。
「実は、君に話がある。かなり重要な話だ」
「…………?」
算は困惑した。ここに来て、これから先の話の内容が読めなくなったからだ。この感じ、一ノ瀬と神宮が結婚することになったでは済まないような何かがあるように思われた。
「それでは、よろしいですか」
一ノ瀬は算にではなく、一ノ瀬にいる車椅子に座っている人物に声をかけた。
一ノ瀬が壁になっていて誰が座っているのかまったくわからなかった人物だ。もしかしたら一ノ瀬か神宮の介護している母親か何かかと思っていたのであまり考えないようにしていたが、そういった者ではないらしい。
「算。君に、紹介したい人がいる」
と言って、一ノ瀬は横に退いた。そして、算から車椅子に座っている人物がわかるような形となった。
「…………!!」
瞠目する、目を見開く、驚異的な、驚愕した。
人が何かしらの事象に衝突したとき際に驚きを表す用語は様々なものがあるが、果たしてそれらの用語に算が感じた衝撃を正確に表現できるものがあったかどうか疑わしい。
それほどまでに、算が目にしたものは、〝驚き〟に溢れていたからだった。
目の前にいる人物は、算がよく知る人物だった。
よく知るどころの話ではない。〝知り過ぎた〟人物であった。
「倖啼……なのか……?」
自分が発した言葉であるはずなのに、まったくその言葉に自信を持てずにいた。
こんな経験、算にとってはほとんど初めてに近いものだった。
自分の発している言葉と心情が、感情が、まったく別のベクトルに向けて突き進んでいた。まるで、自分は俳優のようであった。
なぜ、自分はこんなにも驚いているのか? ここに一条倖啼が居たから?
もちろん、それはあるかもしれない。冷静に考えれば聞きたいことはたくさんある。なぜここにいるのか? なぜ意識があるのか? いや、もしかしたら双子か何かかもしれない。そういった当然の、理知的な疑問はもちろん降って湧いた。しかし、それよりも、もっと心に訴えかける、言うなれば感情的な疑問が強く算の中にあった。その疑問とは。
一条倖啼の姿が、算六夜が覚えている姿とまったく同じなのはなぜか、という疑問であった。
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