リンボウ・テンミリオン~ナスルと煉獄の一千万年~

鱗青

第1話 予言の少女




 口の中に緑茶の芳香が広がり、俺は至福の時を味わっていた。絹と共に送り届けられる東洋シーニーの貴重な、とろけた銀よりも高価なエッセンス。

 嗅覚。これは俺の顔のど真ん中に居座る、虎人の中でもデカっ鼻とよく言われる器官が与えてくれる、最大にして最高の感覚だ。

 渇いた喉を潤すその爽やかな香味を吸い込む。うまい。ぬるくなくさりとて熱くもなく、内臓を清流に浸される気分。

 まるでうねる象の鼻のように枝を伸ばした生命力に溢れる大樹。その幹が無数に生い茂る平野。俺の居る場所からなだらかな下方に広がる、視界を塞ぐこともなく自然にあるがままに育ったその森の彼方には、バラやチューリップ、百合の花が極彩色の霞のように飾る山々。

 俺、ナスル=ビン=アル=ウルテペは、虎人の隈取りのある体毛を煌びやかな衣装で覆っていた。

 己の体毛よりも複雑な紋様を染めつけた金糸銀糸の織物を身に纏い、茶の入ったグラスを掲げる。これは硝子ではなく水晶から削り出し、歴史も距離も遠いローマの職人の手による逸品。これ一つでも、豪勢な邸宅が建つほどの価値が見出せる。

 満足感に微笑を禁じ得ない俺の馬の脚のように太い腕に、シナモン色の細い女の手がするすると這い登り絡みついた。

「ねぇン、ナスル様ァン。何を考えておいでなのォ?」

 俺は静かに、この楽園の行末をさ、と応える。

 右に侍るその女の指が俺の胸元から毛溜まりをくすぐる。女の髪は亜麻色、胸つきは小高い丘。腰のくびれは蜜蝋、尻は二つの月。瞳は夜のように輝き、砂糖菓子よりも甘そうな唇が誘って笑う。

 すぐさま俺の衣装の股間がめきめきと隆起する。歓声を上げる女。

 しかし女は一人ではない。右だけでなく左にも、後ろにも、足元にも、同心円にぐるりと俺を取り巻く裸に近い天女のような彼女達全員を果たして満足させられるのか?

 試してやらなければならない。天の主アッラーフの決め事のように、夫たるもの、妻には全員、平等に接しなければ。

 俺は帯を解き、ばさりと肩から脱ぎ捨てる。俺の逞しい胸板、脂肪がついてはいるが分厚い腹筋。そしてその下の、日々の女達への愛撫で鍛え上げられた攻城杭に女達は嘆息する。

 さて、どいつから抱いてやるか?いや、悩むのは時間の無駄というものだな。とりあえず手近な女を乱暴に引き寄せ、脚を割るように腰を入れる。腰に巻いた絹のうすものを引き千切り、乳首に現れた処女のしるしも眩しい胸を揉みしだき、悦びとも悲鳴ともつかない声を上げる唇を己の口で塞ぎ、可憐な初花を貫通させようと

パパアビー

 と、腰の角度を整える。さあ、この谷間に突っ込んで、俺だけのものにしてやる。ここにいる女達に俺の精を注ぎ、やがて俺の子供を孕むま

「ちょっとパパ、何やってるの」

 孕むまで。俺こそはこの楽園の支配者、ただ一人の天国のアダム。雄叫びを上げながら

「このクサ親父!!」

 耳をつんざく不吉な罵声と共に、俺の左頬へ平手打ちが炸裂した。

 ここはロバの引く馬車の上。楽園の玉座と思っていたのは日差し除けの幌が申し訳程度にかけられた荷台で、俺が処女天女と夢想してかいなに抱いていたのは燕麦の麻袋で、目覚めてみれば俺は汗と汚れに染められた片方の肩を出した貫頭衣を熊の皮のベルトで留めた山賊の姿だった。

 素晴らしく幸福な夢は、神酒の大海をたゆたうようなものだ。流れ流され、漂流する流木が陸地にたどり着くように自然に優しい朝陽に抱かれて目覚めるのが最良とすれば、無理矢理起こされることは真冬の荒野でなけなしの暖を取るための服をひっぺがされるようなもの。

 俺はグルルルと唸り声を漏らして身体を起こす。スッキリ爽やかとは程遠い気分で顔をこすると、潰れた右眼のアイパッチがずれた。

「信じらんない、寝てるなんて。無防備にもほどがあるわよ」

 不機嫌なせいで冷たい口調なのではなく、生まれ持った性質がアララトの万年雪より凍りついているのだと一声で分かる。

 言葉のぬし、ミルクとバターのごとく黄金と白銀の入り混じるまだらな金髪、月のように白く秀でた額、曙光の頬に夕陽の色の唇の娘は、碧い瞳をギラつかせて叱責の科白を紡ぐ。

「パパってさ、一応?仮にも?この国じゃ逮捕即死刑の令が出回ってる、泣く子も黙る有名な大盗賊なんだっけ?それが大の字になってグースカ荷馬車で昼寝って?うちマジ信じらんないんだけど」

 他の娘が吐いた科白であれば「ルッセこの糞小娘!その舌引っこ抜いてこの腰の半月刀で千切りにして踏みしだいて小便を垂れてやるぞ!」とでも脅しつけるところなんだが。

 だが、そう、この娘はーーー曲がりなりにもこの俺様の娘であるのだから、そんなことはできない。代わりに王宮の近衛兵でも怯む凶悪な視線を送ってやる。

 が、当の娘の方はどこ吹く風で、

「フンっ!」

 とそっぽをむいたきり、むくれて黙り込んだ。やれやれとため息をつくしかないな。

「機嫌直せぇよアルマ。このあたりはまだ街道の手前や。手配書を握ったボンクラ兵どもはおらんけえ」

 東のチェチェンの向こう、遠い国の名で林檎を意味する名を呼ばれても娘は振り向かない。横顔で耳たぶのリングが揺れる。そこに連なる細っこい首の下で、一組の林檎がーーーいや、特大の柑橘オレンジというべきかーーーともかくオッパイだーーーが、車輪の振動に合わせて小刻みに震えていて、束の間目を奪われる。

「なぁおい、俺達ゃたったの2人っきりで旅してんやぜ?イライラすんなって。な?お、それともアレの日か?」

 ポンと肩を叩いた俺は、いきなり荷台の反対側まで突き飛ばされた。

「いやぁぁぁ!なんなのよ、その、そこのソレ!」

 頭と尻が逆さまになってでんぐり返し状態。ソレ?ソレって、俺の股座(またぐら)なんか指差して何を…って、股間を見上げて思い当たる。ああコレのことか。

 さっきまで見ていた夢の余韻と男の寝起きのちょっとした生理現象というやつで、俺様のしたばきがその下の器官によってグイグイビクビク押し上げられている。

「もー!クサイだけならともかく超下品なんですけど!そんなのしまって!ちょん切って!!」

「アホぬかしたらあかん!これぁ男のシンボルや!朝勃ちぐれぇでギャースカぬかすな!!ヒステリーワガママ娘、ええ加減にせんと乳揉んだるぞ!!」

「何言ってんのよヘンタイ!もう朝どころか昼間よ!!」

 とすかさず罵り返された。ワシは両耳を塞いで、そのまま頭をかきむしる。

 やれやれ。まったく、やれやれやな…

 どうしてこんなことになったのか。欲しいと思って持った娘でなし、どころか頼まれたって面倒を見続けるのは願い下げなのにーーー

 わいは、このアルマを捨てられへんねやな。

 突然の豪風に煽られて、幌がばふぅと膨らんでまくれる。俺は慌てて荷台の柱の結び目をチェックしようとしたが時既に遅し、巨きな布は風に巻き取られて舞い上がり、鳥の化け物のように翔んでいく。

 灌木と岩が大地にへばりつく荒野をぽつねんと疾走(というより駆け足)するオンボロ荷馬車。それが、俺達の置かれた状況だった。

「おい、アルマ」

「なによ」

「何とかしぃ」

 はぁ、できるわけないでしょ!?と文句をぶぅたれる娘に、そんなら仕方ないわなと荷台からロバに鞭をくれてやった。わずがばかりだがスピードアップ。

 この幌馬車…幌が飛んでって今はただの荷馬車には、あいにくと日時計・火時計・砂時計なんて良い品物モノは積んじゃいない。太陽の傾きから察するに、午前の終わりといったところか。

「もー、こんなに日が照ってたら肌焼けちゃうじゃん!どーしてくれんのよ!」

「どーせいっちゅんじゃ!そないに文句たれんなら協力の少しもしい!…んっとにお前は根性がこう、びゃびゃびゃーっと曲がりくねっとるのう」

「あーもー、なんでこんなのが父親なのよ!甲斐性なし!!」

「ワイやって好き好んでお前みたいなんの父親になったわけやない!!」

 不毛極まる言い争いのさなか、荷台にハゲワシの輪郭の崩れた影が横切る。

 ここはインドにほど近いペルシャ、岩石砂漠の一地方。生気が満ちる原色の青空と金色の太陽とは裏腹に、死の影も濃い。飢えに渇き、野盗にはぐれ軍人、はたまた原理主義者セクト。命を落とす危険は様々だ。

 黙っていれば可愛い顔を常にしかめさせる娘に溜息をつき財布を取り出す。熊皮の袋は使い込まれてはいるものの頑丈で、中には金貨が数枚、銀貨数十枚がこすれ合ってチャリチャリと鳴っている。

「こんだけありゃぁなんとかなるか」

「どれどれ?」

 アルマが覗き込んでくる。無駄にでかい乳房が腕に当たってきてなんともむずがったい。俺の右の中指の指環が太陽の反射を左眼に射込み、フッと我に返させる。

「なーによ、こんだけ?シケてるぅ」

「こんだけ、ってなぁお前、こないだのヤマのアガリを大方消費したのは誰やっちゅう話やぞ」

「妾はグルメなんだからしょーがないじゃない?可愛い娘を飢えさせるなんて父親失格よ?」

 せやからワイもふんばっとるやないか!というこちらの意見は髪の毛の房をいじる小娘にフーンと鼻先で流される。

 ああ、ほんまに男親っちゅうんはなるもんやないな…

「あ!見てみてパパ!」

 指差す方向には椰子の木があった。ひょっこりと現れたその向こうには、倍々に姿を増やしていく椰子の林があり、地面の色も精気無い白からうっすらと茶味がかってきている。

 街が、オアシスが近い証拠だ。

「ねーパパ!今度の街が大きかったら絶対良いモノ、ゲットしてきてよね」

 先程とは打って変わった笑顔。媚びることを知らないからこそ、機嫌を損ねれば悪霊のように底意地が悪くなるし、喜んだときには今のように心までとろかしそうな表情をする。

 尊大な無邪気さと、傲岸な愛嬌の入り混じる我が娘。

 まさに女悪魔やな。

「わぁかった!このナスル様にまかしとき!」

 ロバに鞭を振り上げたそのとき、進行方向に椰子の木立の影から小さな布の塊がまろび出てきた。

 いや、ただの物体ではなく、それは襤褸ボロをまとった子供だった。こちらを見上げ、驚きと恐れに大きく開いた菫色の瞳、浅黒い地毛の孔雀人の、まだあどけない面。ーーーそのこめかみに、٤٨と数字が刻印されている。

 よくある、混血の奴隷の少女。焼印の痕は古そうだ。

 いや、冷静に観察してはいるが、俺はその間に荷台から前方に飛び降り、その子を抱きかかえ荷馬車の進行方向から逸れて転がる。とっさの判断だった。

 アルマがこの事態に荷馬車を止め、俺の方へ小走りにやって来る。

「なにやってんのパパ!その子にケガさせてない!?大丈夫なの!?」

「いひゃ、まずワイの心配をしひょよやぁ」

 口の中に違和感があって、ゴロゴロしたものをベッと吐き出す。どうやら頬を打った拍子に折れたらしい歯が一つ、血と唾液にまみれて椰子の根元に落ちた。

「あー、やっちまっひゃ。アルマ、ワイのイケメン台無しになってないか」

「大丈夫、元からブサイクだから」

 俺の腕から奪い取るように少女を抱き起こし、激しく揺さぶる。

「オイオイ、こういうときはあんまり動かすもんやない。そっと寝かしとかんと」

「だってーーーだってもし死んじゃってたら!」

 人間がそう簡単に死ぬかいと言う俺を睨むアルマの瞳は既に潤んでいた。コイツ、ふてぶてしいくせにこういうところは弱っちいから困るーーー

 と、その子が目を覚ました。



 驢馬の前に飛び出して感じた、振り上がる蹄に宿る死の天使の澄まし顔。

 ああ、とと様、かか様、戦に敗れて隷属の立場に身をやつしたあなたがたの娘は、カタリナは今ここで天に召されます。

 瞬間胸の前で手を握り合わせて祈った。そして次の瞬間、物凄い勢いで私を包み込んだ誰か男の人の筋肉と、くらくらするくらい熟成された獣じみた体臭で気を失う。

「ーー!ーーっと、ーんた、大丈夫!?こら!訊いてるのよ妾が!!」

 白金のスプーンがぶつかる音にも似た澄んだ声。私を抱きしめる、ふっくらとした乳房の感触。幼い頃に返った気持ちがした。

 ーーーまず私が見たのは、それはそれは綺麗な、金髪碧眼の女の人だった。その人は私が気を取り戻すと、瞳の端にたたえていた涙をコロンとこぼして歓声を上げた。

 何才ぐらいだろう、いいところのお嬢様ならお嫁さんになるぐらいの歳のように見える。多分16.17ぐらいかな?身につけているのは、ヒトの耳に下げた金のイヤリングと、硝子の腕輪に、首飾り。服は胸を綿布で巻いてお臍を出した脚絆シャルワール姿。

 身分は低くなく高くなく、顔の様子も知的で、でもワガママそう。なんとなく商人の遊び人の娘という雰囲気がする。

 そのすぐ後ろから私を覗き込んでいる、右眼に眼帯をあてた虎人の中年男。こちらの衣服は女の人に比べると大層粗末で、片方の肩から胸が見える獣皮の貫頭衣に革のベルト、分厚いサンダルを履いている。肌は汚れて垢の匂いもするし(さっきの悪臭はこの人のか!)、力士顔負けの逞しい身体つきはまるで山賊か何かみたいだ。右手の中指に古めかしい金の指環がはまっていて、角度によって太陽の光をチカチカ弾いてくる。

 二人組で、片方はヒトで、片方は虎人。だから間違えた。

「あ…えと」

 頭を振る。私は何をどうするつもりだったんだっけ?何かしようとして、でも間違えてこんなことにーーー

 スッと混濁していた意識が整理できた。

 私はカタリナ、元はキリスト教徒。今は、奴隷。この街の、アジザーダードの、近隣に類を見ぬと言われる大図書館を司る守文官・マワシフ家に仕える身。

 この地方を巡るスルタンの遣い、検察官に直訴しようとして機会を伺っていた。検察官の通る道はここで、組み合わせは虎人と人間と聞いていた。

 それを見誤って、人違いをして、全く関係のない商人に(後から誰かと合流する隊商キャラバンなのかも?)迷惑をかけたんだ。

「あの…申し訳ありませんでした!あの、お怪我は、なさいませんでしたか?」

 先程まで喜びに輝いていた女の人の表情がかき曇る。

「なんでアンタが謝るの?それに怪我って?どこかいためたの?」

「あ、あの、いいえ、私は大丈夫です。そうではなくて、そちらの、私を助けてくだすったかたが、お怪我はーーー」

「ああ、ワシのことか!」虎人は相好を崩す。人相は凶悪だけれど、笑うとやけに子供っぽくて優しい、なんだか可愛い、そんな感じの男の人だ。「そんなら」

「ああこのクサ親父?こいつのことね?」

 信じられない罵詈雑言を散りばめて、女の人は父親のことをたてがみから爪先までまんべんなくけなしながら、丈夫だ無事だ問題ナッシングだと切り捨てた。その片方の頬がふくれあがって、どう見ても歯が折れているのに。

「妾はアルマ!で、この親父はナスル!一緒に泥ぼ…でなくて隊商をしてるの。気ままに親娘2人っきりでね。あんたは?この街の子?どこで働いてるの?結婚はしてるの?何歳?名前は?どこから来たの?信じてる神様は?」

「あ…の」

 何から答えれば良いのか。こんなにいっへんに、一緒くたに質問されたことなんて無いから頭の中の紐がこんがらがる。

 何度か、「ええと」を繰り返して、私は何とか問いかけられた事柄に返事をした。

「私は、カタリナ、と…言います。13歳です。この街には、商人に売られて8歳の時に来ました。あの…キリスト教徒で…す。それで………守文官様のお家で働いています、結婚は…まだ…していません…」

 アルマさんは、私なんかに跪いた姿勢のまま、「アッタマの良い子じゃん!?」と父親のナスルさんを見上げて言った。

「どもり入ってるけど、答える順はしっかりしてるし。何よりカッワイィわよ!」

 私は慌てて首を振る。

「とんでもありません!私なんか、リアル様の知性の足下にも及ばな」

 そこまで迸るように言葉が出て来た。そして同時に、涙も。

 滝のような涙を流して号泣を始める私を、2人の異邦人ははじめはあっけにとられて、次第に戸惑って、お終いには手に余るといった様子で困り果てて宥めた。

「なぁお前さんよ、泣いてたら悪霊に食われちまうぞ?ワシ様が何でも聴いてやるさけ、話してみいや?」

「そうよ、それにこんなアッツい日向で泣いてたら干からびちゃうし、そこの木陰に行くわよ?いいわね?」

 二人に連れられて生い茂る椰子の下に腰を落ち着ける。荷馬車から水袋を持って来てくれて、薬草の香りのする液体で喉を湿す。

 こんなに優しくしてもらえるのは勿体無い。いけないこんなこと、奴隷に似つかわしくない。そう分かっているのに、甘えてしまう自分が情けなくてまた泣いてを繰り返す。

 暫くそうして泣きはらして、瞼も鼻ももう何も出ないくらい真っ赤になったのは、ようやく太陽の照りつけが和らいでからだった。

 おもむろに水袋をアルマさんに返して、低く叩頭する。

「すいません、取り乱してしまって」本当にみっともないことをした。こんな有様を見せては、普通なら頭の歯車の乱れた、気違いの娘だと思われてしまうだろう。「それに、水も…あの…誠に勿体無いです」

「阿ー呆ぅ!ええ子供が気ィ回すな!」

 けれど、虎人の男の人はーーー残念なことに隻眼の、この地方のムスリム(アラブ)の民に忌み嫌われる邪眼だったーーー無骨な手で私の肩を優しくはたきながら「まぁ自分も大変やったんやろ?なんでもかまへんさけ、ワシらに話してみ」と訛り丸出しに言った。

 この人達に、話してもいいのだろうか。私は不躾になるのも構わずに虎人とヒトをつぶさに観察した。

 改めて傍に立つ二人に目を向けていると、この組み合わせがどうにも真逆に見えてくる。

 アルマさんは、整った細面で、若くて、ザクロのような胸も桃のようなお尻もキュッと引き締まっているのに大きい。手脚だって葦みたいに細い。

 黄金なす豊かな髪の上にきちんとベールを被ったら、高貴の姫としても通用しそう。もし私が詩人だったなら容姿を褒め称える賛辞に「匂い立つ美女」という一文が必ず入ると思う。

 対するナスルさんは、顔が四角く鼻も口も大きくて、腕も脚も尻尾も太いしお腹は出てる。不細工と言ったら失礼だけれど、アルマさんの片親としては不思議なほど武張った容貌だ。

 そして長旅のせいなのか綺麗好きではないせいか、別の意味で匂い立っている。男らしくて、それはいいことだけれど、なんというか…品が無い。将兵というよりも荒くれた敗残兵や強靭な山賊のよう。

 ただ、私の失礼極まるあけすけな直視をものともせず、目元を細くしてニッカリと笑う様子が寛容でとっつきやすい人柄を現している。生まれ持った醜い外見に、すこやかで愛嬌のある内面か…

 私はなんとなくナスルさんにとと様を思い出した。そのせいでちょっと鼻がしらが痛くなった。

 とにかくも、この父娘の対比をまとめると、

 アルマさんーーー触るのも難しいぐらいツルツルした硝子の肌。美しいお人形。

 ナスルさんーーー青銅で出来た頑丈な魔神像。男の子のおもちゃ。

 私の眼に二人はそう映った。

 さて、そこではじめの案の是非に戻る。この二人に頼むか、やめておくか。

 私が迷う刻は城門の番兵が旗を振る一瞬より短かかった。私は心の中で

「リアル様、どうかご加護をお授け下さいませ」

 と主人の御霊に祈りを捧げ、二人に告げた。

「ナスルさん、アルマさん。不注意に車の前に飛び出した私の身を案じてくだすったお二人を、立派でご親切な旅の方と見込んでお願い申し上げます。

 我が亡き主、その名も聞こえしアジザーダードの若鷹にして水仙、この地で随一の叡智を備えたと讃えられし誉れ高き守文官、リアル=ビン=マワシフの無念を晴らして欲しいのです」



 私が生まれた時。奴隷であった私の父は泣いて喜び、父と恋仲になり駆け落ちした貴種の母は嘆き悲しんだという。

 そう、奴隷と主家の貴人の娘の許されぬ恋。その逃避行の果てに生まれた私が一度は平民に引き上げられ、そして父と同じく奴隷に堕とされたのは、昨今身分の遷移が珍しくはないとはいってもそう平凡な話ではない。

 私が生まれたのはシリアの東辺のオアシスに栄えた城都で、母はそのオアシスを治める東ローマ帝国将軍の家筋の娘だった。ーーーとはいえ、帝国は瓦解して久しく、世は豪族蛮族匪賊の群雄割拠する乱世を迎えていた。

 文化的な遺物や科学などの宝を山のように抱えていたところで、純然たる暴力には気休めの魔除けにもならない。オアシスの平安も風前の灯であった。

 城都の支配者であった祖父は、軍事力では近隣の都市にはるかに劣り、自衛もままならないであろうオアシスの将来を憂い、西のシリアの王族か東の豪族・蛮族の将かーーーともかく強い方の勢力に付け入りそこに庇護される、あわよくば乗っ取るという算段をもって、末娘である母を謹厳に育てていた。

 政略結婚のための処女姫。母は生まれ落ちた時から城都の財貨、人民、土地の総ての価値をそのまま一身に宿した賞品であったのだ。

 城都の太守の一族はその来歴を遠くマケドニアに遡る。アレキサンダー大王が連れてきた、金髪碧眼の民。その血を色濃く継いだ孔雀人の母。羽毛は満月のように白く髪は銀に近い金、瞳は碧と翠のまだらで、オアシス周辺はおろか勇猛な北東のウズベク人や陽気なミスルエジプト人の耳にもその美貌は届き、好色な男達はまだ見ぬ処女姫を想って涎を流し、初心うぶな青年達は情熱の青い炎に胸を焦がしたという。

 そんな母は、宝石や薔薇や夜空の星月になぞらえられる頬に枯れることのない微笑をたたえる、絶世の美少女になった。街を通れば誰もが馬車を振り返る。行く先々で人垣ができる。あまつさえ外出の情報が召使から漏れれば、先回りした民衆が一目見ようと先回りをする。それはまるで聖母マリアが降臨したかのように。

 けれど皮肉なことに母は己の美貌を尊崇する他人の前で、お腹の底から笑ったことはないと私に語った。

「私が不機嫌な顔をしているでしょう。そうすると、その理由がなんであれ、お父様や周りの大人達はその原因を鶏の羽を毟るように取り除こうとしたの。ときに理由が無くてもおかまいなしにね。

 そしてとばっちりをくうのは必ず弱い人達なの。醜い人間、弱い人間、老いた人間、知恵の足りない人間、身体の欠けた人間ーーーそれも奴隷がほとんどよーーーその人達は、謂れのない『罰』によって私の目の前で打擲されて、命を失くしていった。何人も…

 私はそれが死ぬほど嫌だった。いっそ死んでしまいたいほどだったわ。キリストの名の下に残酷な仕打ちを思いとどまってくれるよう何度も、せつに訴えたわ。懇願したわ…でも取り合ってくれなかった。

 お母様のお父様はこう言っていたわ。美しいものは善である、醜いものは悪である。そんな観念に呪われていて、美しい私の表情が曇るのは善が損なわれること。ならばバランスをとって悪しきものに懲罰を与え滅ぼして、美と善を取り戻そう…こんな風にね。およそ聖書の説く慈愛とはかけ離れている滅茶苦茶な理屈でしょう。

 でもねカタリナ、それがお母様の故郷での『普通』だったのよ。

 醜いものには何をしても許される。あそこは、そういう通念に疑いもしない人達ばかりで息が詰まりそうだったわ。だって本人である私が抗議してもやめないのなら、それは私の意志など頓着していないということでしょう?私の言葉を聞かないということは私の存在を否定することでもあるからよ」

 だから感情を殺すことにした。生きるのがつまらなくなっても、そうするしかなかった。

 優しい母は、その優しさを持つには美しすぎたのだ。

 その母には生まれた時から付き従う年嵩の従僕がいた。

 それが私の父。生まれ親も自分の名前も知らない、ただ子供の頃から首にかけていた粗末な木製の十字架からキリスト教徒であることだけは確かな(あるいは奴隷仲間が親切でそうさせていたのかもしれないが)奴隷の獅子人の青年。キリスト教徒でなければ母の下僕にはなれなかっただろう。

 その奴隷は、私の父は、それは醜い大男だった。アフリカに住むというけだもののような縮れた茶色い皮毛、ごわごわとした針金のような鬣はハサミでも断てず、鼻は産まれたときに地面に叩きつけられたせいで潰れてしまっていた。眼はあの呪われた砂漠の魔物、フクロウのように大きくギョロギョロとし、耳は肉が薄くヨレヨレ。

 街を歩けば、女や娘だけでなく、少年達でさえ性的に乱暴されることを危惧した親から家に戻れと叫ばれた。

 調子に乗った悪戯小僧達は度胸試しとばかり、父の面前に走り出てきて、

「わぁい、不細工!肥溜めから生まれた化物!羊とでもヤってな!」

 と囃し立てる。ーーーそんな侮辱に晒されても、父は耐えた。いや、大らかな魂で、それを許した。

「とと様は本当はとても強いのにどうしてやり返さなかったの、思い知らせてやらなかったの?」と尋ねる私にただ  黙って首を振るだけで、父は何も答えなかった。

 その代わり母が私に教えてくれた。

「とと様は、絶対に泣かない、笑わないのよ。…でもね、嘘をつかなくて、とっても優しいでしょう?やり返したりするのは、それが命に関わるほどのものでない限り、主に誓って絶対にしない。素晴らしく勇敢なひとなのよ。

 ある時はね、あの人をずーっと虐めてきた織物商のドラ息子が火事に巻き込まれた時、真っ先に燃え崩れる屋敷に飛び込んで、腕の骨を折ってまでその子を助けたのよ。

 そんな、とと様の強くて優しいところにどうしても惹かれて恋しくて、私がとと様に迫ってしまったの」

 と。

 その時の母の上気した頬、眼をキラキラと潤ませる若々しさを、私は忘れたことがない。

 そしてそばにいた父が、のろける妻に照れてしきりに黒毛に覆われた胸や膝や背中を掻きむしっていたことも。

 忘れられるものか。それが、2人を見た最後になったのだから。

 宗旨を同じくしながら、社会的には別の次元にいた二人。市民階級を境にかたや人の上に立ち、かたや人の足元に踏まれる土くれのような存在。その恋と冒険は、私のお気に入りの夜話だった。

 話を戻して…理由はどうあれ、母はキリスト教徒にあるまじき罪を犯した。未婚で男と交わり子供を産むということを。

 私が洗礼を受けられたのは、将軍の城からあてどなく駆け落ちした二人が夫婦者を装って、酔いどれ坊主に金子を渡して強引に儀式をしてくれた賜物だ。

 祖父が放った間諜が、馬の行商をしていた二人を見つけ追手を送り込んできた時には、既に私は物心がついていた。

 戦の玄人は素人夫婦とその子を簡単に拿捕した。

「偉大なるローマ帝国の将軍、愛するお父様、あなたの孫娘を奴隷の娘にして、それでも飽き足らずに、父親のいない子にするおつもりなのですか?」

 と訴える母に対し、渋面を更にきつく絞った孔雀人の祖父の顔。これはおぼろげながら憶えている。

 それで結局、仕方なしに祖父が折れる形になった。父は奴隷という身分から解放されて晴れて母の婿となった。ーーー住まう部屋は城壁の見張り台、寝所を共にすることは禁じられていたそうだが。(母は「でもね、抜け道はいくらでもあるものよ。恋する女に檻は役立たず、っていうの」と小粋に笑った)

 そして、冒頭の父の涙と母の涙のわけ。これはそれぞれ別にあった。

 父は純粋に愛する我が子を得た喜びから泣き濡れたのだが、母が落涙に咽んだのは、ある特別な状況のためだった。

 母には予言者の資質があったのだ。予言など突拍子もない妄言、いやそれどころか予言をするのだと語れば不信心者だと殺されかねない。そこへもってきて、生まれたばかりの娘ーーーつまり私にもその才があると分かってしまった。

 つまり悲嘆の原因は、私が望まれぬ能力までをも受け継いで生まれてきてしまったから。

 キリスト教イスラム教双方に通ずる忌避の一つが、予知の能力だ。

 未来とは全能なる主の定めに従うところ。今日明日の天気はどうなる、といったたわいないものさえ、全能なる主の他に知る由もない未来。人間が左右できるものではない。

 生まれてくる子供の性別や、家畜の病気、作物の出来不出来ーーーどんなものでも、それを正確に読み取ることは、悪魔の智慧か主への叛逆に他ならない。

 母の予言は時と場所を選ばず口を衝いて出てしまう厄介なもので、そのときも掘っ建て小屋で私を抱きしめながら勝手に唇が動いた。

「この子は母と同じ力を持ち、もっと強く育つ。魔の者と交わりを結び、長きにわたりひつぎに入ることはないだろう。帆のない船が浮かぶことがない限り」

 その予言の前半は、母の悲哀を裏切ることなく、的中した。

 私が3歳の誕生日の宴の席で、大人達に囲まれただニコニコとしていたと思ったら、急によく通る声でこう告げた。

「今より八つの月が過ぎたる新月の夜、このオアシスは滅ぶべし」

 その八ヶ月後、母を娶ることに執着していたシリアの王族の男が、騎馬戦車の大群を率いて夜攻をしかけてきた。

 私の予言は親戚中からその才能を疎んじられてはいたが、祖父は警句を汲んでくれた。市民の大半以上をあらかじめ避難させていたので市民や奴隷の犠牲は非常に少なかった。

 だが、城都内をあからさまにもぬけの殻にしては周囲から怪しまれてしまう。秘密裏に行うべき避難が露見しては意味をなさぬ、それに自分はローマ帝国の軍人。城都を預かる太守として城を枕に討ち死にせんとす。そう祖父は宣下し、父はその義父に手助けをすると言って参戦した。母は、逃げ延びろという父に逆らって

「愛する貴方と離れるくらいなら、共に主の御許へ参ります!」

 と頑として聞き入れず、最後までーーー途中で散り散りになってしまったので本当の最後は分からないけれどーーー一緒にいた。

 私は逃げることを拒んだ。そして敵兵に攫われ、乱暴されかけた。しかし女としての身体が未熟すぎて男を受け容れるには役をなさず、肌をけがされぬまま奴隷として左目の下に番号を焼印されることになった。

 それからはお定まりの流浪の浮身。針仕事ができたのと幾つかの違う言語が話せたのとで、農作業用の奴隷ではなく家事労働の奴隷としてそこそこ優遇されてきた。もちろん、何人もの男や少年が襲ってきたけれど、手に入れた鋏を振りかざしてその道具をちょん切るぞと威嚇すると誰も彼も最後にはすごすごと引っ込まざるを得なかった。もし………望まない強引な結婚で私の脚の間に割り込むならず者がいたら、自害して果てるつもりだった。その気概が、今日まで私を、私の貞操を護ってくれたのだ。

 そしてここーーーアジザーダードは、私の三つ目の転売先。二人目の買取主は「この娘、首から下の毛並みが悪い」と、たった麦五袋を三袋まで粘り値切った穀物売りだった。そして三人目はその二人目の親類で、それがーーーリアル様だった。

 当時から歯が弱っていたお祖父様の為、リアル様は飯炊き女に任せきりにはせず、仕事の合間を縫っては手ずから調理をなさっていた。

 そして新鮮で柔らかな豆や食べ易い仔羊の肉を仕入れに市場に足を運び、私を見出してくれたのだ。穀物売りにこき使われていた私が客前で暗算していたり、計算や書付までこなしているのを見て内心驚いたと語っていた。

 農作物からこぼれた泥と土埃、それに竃仕事で煤にまみれた私の視界には、手を差し伸べるリアル様が光り輝く天使に見えた。

「さあおいで、カタリナ。君と僕は同じ種類の人間だ。そしてここは君にとって虚しい労働を課される暗渠あんきょにも等しい筈だ。君の気持ちが求めるものを僕は知っている。おあつらえむきの働き場所をあげよう」

 リアル様は穀物屋の主人のように私を値切るどころか「この子の重宝な才能に免じて」と、大粒の真珠3つとダイヤまでつけて買い取ってくれた。



「ふーん、その気前のいいイケメンがあんたのご主人様になったってわけね。で、そのリアル様とかいうあんたの元・ご主人は相当の金持ち?」

 アルマさんの金髪は細い繊維の房飾りのようだ。たっぽりしていて繊細で量がある。その房を指に絡めたり唇で細く吹き流したりしている姿は、太守スルタンの後宮の乙女のよう。

「相違ありません」

 私は唾を飲み込むのを隠せなかった。そしてできる限り疑心を表に出さぬようつとめて子供らしく笑って見せた。

「お屋敷にはまだよく走る脚の太い馬に駱駝、乳の出る牝牛が4頭、丸々太った羊が8頭います。私一人では飼いきれないのであとはお金と宝石類に替えてしまいました」

「ひ、羊!牛やと!?」

 ナスルさんの両眼が陽射しを受けたガラスの水差のようにギランと輝き、底抜けの胃袋への洞穴と化したあぎとからは並々ならぬ量のヨダレを流した。

「そいつぁアレか、肉牛用に飼ってるやつか?羊は去勢してあるのか?」

 急に活き活きとしだした虎人は家畜の健康管理について矢継ぎ早に質問しながら詰め寄ってくる。

「金に宝石、っていうのはいいわね。そのままでもいいし、他の財貨に換金してもよしか」

 アルマさんの瞳は瞼が半分降り、唇の隙間をグミの実みたいな舌が割る。豪奢な飾り絨毯に隠れた恐るべき罠のような、妖しい微笑み。

 マワシフ家の家財事情についてを2人に教えるべきかそうでないか、どちらが正しい選択であるか最後まで迷いがあった。

 依頼を受けたとはいっても神の名の下、書面にもとづいた契約を交わしたわけではないのだ。なんら制約や束縛があるわけではない。もし心変わりをしたら。状況が変わり、の側につかれたら。そうなったらもうおしまいだ。

 だけど危険を冒しても家財について言わざるを得なかった。あとからその存在を勘付かれて、不信感を抱いていると思われたりするよりかは先に手の内を明かしておくほうがよほど安全だ。

 私は、なりふり構っていて目的を果たせなくなるような愚を犯したりはしない。もう覚悟は決めた。なんとしても犯人を捜して仇を討つのだ。たとえこの身を餌食にされたとしても。

 チラリとナスルさんを見やる。このいかにも精力の強そうなひとがその気になったら、私には抵抗できないだろう。

「うし…チーズ…ミルク………ひつじ…焼肉…うへへうへぇ」

 ナスルさん当人は、宙空に料理の蜃気楼を作り出して視線を彷徨わせながら、泡のような呟きをこぷこぷとこぼしている。なんだか最初の印象より間抜けに見える。

 …この人ならあわやの場合でも逃げられそう。色欲より食欲のほうがまさってそうだし。

 大人しくなった虎人と比べて人間の娘はかしましく騒ぐ。

「ねぇ宝石ってさ、どんな種類のがあるの?ルビーは?エメラルドはある?アメジストは、トパーズは、ペリドットは?そうだ!翡翠はあるの!?しばらくお目にかかってないのよね、翡翠。それから瑪瑙とか水晶のたぐいは揃ってるのかしら、ねぇ教えてカタリナ!!」

 アルマさんは黄金とか銀とか家畜よりも宝石の名前をまくし立ててくる。私の肩を掴んでがくがく揺さぶるから目が回ってしまう。

「あ、あの、アルマさんは、科学に興味があるんですか?」

「は?なんで?」

「宝石に興味がある人は大抵は科学や鉱石にも興味があるってリアル様が…」

「まぁーたリアル様か。あんたよっぽどその男のこと好きだったのねー」

 よしよし、その仇は打ってあげるからね、とアルマさんは私を抱きしめて頭を良い子良い子をする。

「え、そ、それは…」亡くなった人のことだというのに顔がカッと熱くなる。ちょっと迷ったけど、これも素直に言っておこう。奴隷が肩入れするには度が過ぎているのは確かなんだし。「…はい。お慕い申しておりました」

 あぁそうやっぱり、と溜息をつく。「奴隷が主人のイケメンに恋慕かぁ」どうしてそんな埒もない恋をするかな、といった風に遠くを見やる。

「あんたまだ小さいんだし、恋だとかそんなもののために命懸けの復讐なんてつまらないことやめちゃいなさいよ」

 そういうわけにはいかない。握った拳に爪が立つ。もし私が諦めてしまったら、リアル様の魂は罪の穢れを受けたまま。殺めた者は枕を高くして眠るのだと思うと、鬼に変じてしまうほどの憤怒がこの身に湧きおこるのだ。

「あ、アルマさんは、恋したことがおありにならないのですか?」

「ん?」

「私は確かに子供です。でも、小さかろうが奴隷だろうが、誰かを好きになるのは自由でしょう?」

 興醒めと言う溜息。アルマさんは金髪が燃え立つ頭の後ろに腕を回し、妾にとっての生き甲斐は、貴石と貴金属なのよと言う。

「さっきの質問の科学とやらもねぇ。いまや矮小化されたかつての叡智の成れの果てよね」

 あ、話を逸らした。ずるい!

「リアル様はあんたに科学の知識まで手ほどきしたの?だとしたら余程のことだけど」

 私が積極的に学んだわけではなく、あくまで薫陶を受けた程度だ。ヒッパルコスの科学からヒポクラテスの医書まで精通し、練達した医師も顔負けの治療ができたリアル様とは比ぶべくもないーーーと言うと、まるで生徒の不出来を叱る温厚な教師のように金髪の娘はかぶりを振る。

「科学や数学、化学は真理よ。だのに人間は一度築き上げたそれを、たやすく捨ててしまった。科学に取って代わったイスラム教本クルアーン啓典聖書もそれなりにいいけどさ、神様かそれよりもっと偉い誰かが定めた真理をないがしろにする理由にするから、妾は苦手なんだよね」

「そ、そんなことを言ってはいけません!地獄に落ちますよ!?よりによってキリスト教もイスラム教も懐疑するなんて」

「地獄?」

 椰子の梢に風がさっと吹き抜けて、サワサワと涼やかな音を立てる。

 アルマさんの面差しに前髪がかかり、表情が見えない。

「あんた達って二言目にはそれ言うけどさぁ。マジで地獄に行ったことある人いる?」

「そ、それはそうですけど、でも」

「知りもしないことをどうして引き合いに出すの」

 私は黙るしかなかった。聖書に書いてあるし、信徒なら信じていて当然のことを真っ向から質問されて、相手の理論を現実的な理論で打ち破るほどの柔軟な発想が、まだ私には無い。

「全部が嘘だと言う気は無いわ。名前を聞いただけで、まだ行ったことがない場所だって沢山あるし。

ーーーでも少なくとも一つだけは、妾が憶えている処がある」

 アルマさんの面差しが初めて曇りを見せた。そのどこかーーーそれはまさか私の想像している聖書の地獄ではないだろうけれどーーー言外に苦痛と悲嘆を表していた。

「そこを知るには、カタリナはまだ小さすぎるわね」

 それはその通りだ。ずっと年上の、しかもこんな美人で階級が低い女の人であれば、嘗めてきた辛酸だって十や二十ではきかないはずだ。主のみ言葉の届かぬ行いにより苦しめられ、聖なる言葉を信じられなくなっても責められない。

 私は話題を変えようと、果たして二人がこの依頼を受けてくれるのかという方へ話を戻そうとした。

「こ、こんな小せえ女の子がよぉ、恩ある主の仇討ち敵討ち!しかもそれがまた健気にも、恋しい相手や言うんやから泣けてくるやんかぁ」

 その言葉通り、いやそれ以上だった。既にナスルさんは滂沱の涙を流し、喉をグビグビと鳴らして嗚咽する。

「あの…それでは………お二人は、私の依頼をお断りには?」

 二人は顔を見合わせてコクンと頷き、それぞれ金髪と尻尾を翻して立ち上がった。

「復讐なんてくだらないこと、いかにも人間の惨めったらしい共食いね。自己憐憫の自己満足、完全に妾の興味の範疇外よ。でもカタリナのたっての願いなら、これはもう聞き入れるしかないわよね。どんな無謀な望みでも、不可能なこともきっと叶えてあげるから。妾を信じて任せなさい」

 とアルマさんは恋い焦がれる男の奴隷を足下に踏みしだくように気怠く微笑みウィンクをした。

「産湯を浸かって30と5、長じてこのかた山海狭しと暴れさすらうナスル様、ひとたび男を見込まれたなら応えてやるのが信条や。義理と人情にんじょを忘れちゃぁしまい、って受けたぜこの頼み!」

 とナスルさんは威勢の良い辻芝居の口上のように言い放ち、太鼓腹を突き出した。




これが予言の瑞祥ずいしょうであったと、この出遭いの場面こそがその後の私の運命の全てを決定したのだと、今私は振り返る。

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リンボウ・テンミリオン~ナスルと煉獄の一千万年~ 鱗青 @ringsei

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