◆終幕『天高く鹿、肥ゆる秋』

 酒を飲む口実は至る所に転がっており、どこからか拾って来ては無差別につじつまを合わせる。その癖口実が無ければ酒を飲めないのだから、人間と言う生き物は難儀である。特に他人の色恋沙汰など酒の肴にうってつけだ。しかも痴情のもつれとなれば、風が吹こうが雨が降ろうが、恰好の酒盛り日和となる。

 期間にして一週間だが、祭りの打ち上げや、プチ同窓会や、あげくの果てには試飲会、きき酒、飲み比べなど。あらゆるアルコール関連の行事に、誘われるがまま顔を出し、どうせただ酒だと思って酩酊するまで飲み明かした。時には自発的に潜り込み、どうせ自腹だと思って飲み明かした。七日の内、便器に頭を突っ込んだ状態で目覚めること三日、ゴミ箱も三日、残り一日はゴミ箱の置いてある便所で目覚めた。

 入る時『赤』と『青』を間違えたらしい。

 二日酔いの記憶はない。迎え酒で撃退した。寝覚めの悪さを辛うじて覚えている程度で、残留記憶は正味三十分にも満たない。約一週間分の過去を犠牲にしてぼくが得たものは、入院生活だった。

 急性アルコール中毒で搬送された。

 通風や肝硬変や糖尿は、恐ろしいが無縁だと思っていたが、お医者様の脅迫じみた診察によると、狂言や戯言やましてや誤診でもなく、ぼくにその疑いがあると言う。結果として疑いの域は出なかったものの、治療と検査とお説教でまた一週間入院した。病室に立ち込める濃厚な酒気で、酔っ払った看護婦さんは蝶のように舞い蜂のように刺した、注射器を、ぼくの腕に。

 その途中、息子の居所を聞きつけて来た家族に殴られた。すごく殴られた。入院はさらに一日伸びて、治療費は嵩む。しかも両親からの借金という名目で宛てがわれたので、返済義務が発生する。理不尽だが、自業自得なので受け入れる。

 また入院生活が長引くのはごめんだ。

 退院後、実家への強制送還は免れない。療養と軟禁である。勝手に休学したことも怒られた。親としては、少なくとも在学中、一人暮らしをさせるつもりはないようだった。実家から片道四時間かけて通うか、もしくは地元学校に入り直すか。

 もちろんぼくは唯々諾々と従うタマではない。頭を下げて、駄々を捏ねて、泣いて喚いて逆らった。この歳で『おてづだい』までしてゴマを擦る。結果後期からの復学と禁酒を条件に、一人暮らしの許しを捥ぎ取った。些か甘い両親だが、ぼくの殊勝な心がけが功を奏したのである。平身低頭のまま芋虫のように這い回る愛らしい息子に心を打たれたのだ。

 説得に所要した時間は、まるまる二週間。

だからぼくが《めぞんアビタシオン》に帰ったのは、あれから一ヶ月と一日経った後だった。


 駅から地味に距離がある。閑散とした駅前は、これが平常運転だ。人っ子一人居ない。正直サプライズ的なヤツを期待していた。一ヶ月ぶりに見る町並みは変わり無く、これといった哀愁は無いが、実家とは別種の落ち着きを抱く。

 アパートに近づくにつれて、やんやと騒がしさが増す。残暑の中ご苦労様である。逸る気持ちを抑えながら、ユーモア溢れる第一声を、スポンジみたいな脳みそからひり出していたら、脳天に硬式ボールが着弾した。「痛い!」よりも先に、そうか一ヶ月経った今は《花一匁》か! と気付く。無駄に広い庭に回り、一番近くに居た、膝を抱えて丸くなっている奴にきく。

「種目は何?」

「…クリケット」

 事も無げにマヨ子は返答する。

「しかも惨敗だぞ、先輩」

 と芋太郎さんは、ぼくが参加しなかったことが敗因であるかのように言う。

「そ。だからトーキチくん、行ってくれる?」

 読子さんは笑顔の中に棘を仕込むのを忘れない。

「行く、とは?」

「《二号館》へ。それが《花一匁》のルールだから」

「……」


 みんな冷たい。おセンチになってしまう。

《二号館》へ連なる坂を半べそをかきながら登る。この坂は不吉の象徴である。

「あ、水炊さんだ」

「おう、おかえり」

《二号館》にも作ったのか、心当たりのある梯子と、恋華の櫓(仮名)があった。足取り軽く、ぼくは屋上に辿り着く。

 建物が静まり返っている。祝杯ムードかと思いきや《花一匁》が嘘のようである。廃墟同然だった建物が、最早廃墟になっている。

「……」水炊さんは、どこか夢うつつだった。気だるそうに遠くを眺めている。良く言えば自然体だが、悪く言えば抜け殻のようだ。手に煙草がない。

「…禁煙だとよ。娘が嫌がるのよ」「…良いじゃないですか一服ぐらい」「まだ根に持つか。恐い男だね」「…そういうわけじゃないですけど」

 みみっちい未練を、半端な方法で晴らそうとは思わない。

純粋に煙草を咥えていない水炊恋華にきまりの悪さを感じる。

 だからこれ見よがしに、ぼくが内ポケットから煙草を取り出すのを見て、水炊さんは目をパチクリと瞬かせた。

「教えてください。火が点かんのです」「咥えろ。それだけだ」「お手本お手本」「ジャリの頃から見てんだろ」と言いながら、誘惑には抗えなかった。好きなもののために、好きなものを犠牲にするなど、らしくない。

「ついでに、一連の顛末も教えてください」「これ吸い終わるまでな」「まず《丑鍋組》について」「解散。以上」「インディーズバンドかっ」「ヤサ焼き払われたんだぞ?」「…そんなに簡単に、組んだり壊したり出来るものなんですか?」「出来ねえよ。レゴブロックじゃあるまいし」「……」「そもそもあそこは、ババアと蛸入道のツートップで屋台骨を支えていた。で、ギリ『組』の体を保っていた。どちらか一方が居なくなっても、相当な痛手なのに、二人いっぺんってのは致命傷に等しい」「…ザラメさんでは、駄目だったんですか?」「駄目だね。良くも悪くも、アイツは金儲けしか頭にない。むしろ、その打算的思考を買われたんだ」「二人が居ることで、初めて能力を発揮したわけですね」「さらに言うならアイツに、もう続ける意志はなかった」「…儲からないから?」「ぱーっと一花咲かせたら、後は野となれ山となれ、だ」「つまり《丑鍋組》の解散理由は…」「後継者不足。現代の闇だねえ」「…後継、するつもりがなかった癖に」「後継させるつもりがなかったんだ、ババアに」「…どういうことですか?」「ババアが私をあっこから追放した理由だ」

 おかしいとは思っていた。幾ら独裁者のように振舞っていたメリーさんでも、意味もなく愛娘を追い出すはずがない。

「じゃあスダチを取り上げた理由も…」「ヤクザの女にさせないためだろう? 私が育てれば、同じような末路を辿ると、勝手に判断した。『自分がそうだったから』以上の根拠はねえ。あまつさえ自分の失敗を棚に上げてな!」「一度失敗しているからこそ、です」「私の人生は失敗談じゃねえぞ!」「でも、あなたとザラメさんの関係は、良好とは言い難い」「…まあ、無理に押し切って祝言を挙げたのは早計だった」

 メリーさんが水炊さんに、真っ当な将来を願ったように、水炊さんもスダチに、真っ当な将来を願った。しかしメリーさんは確信していたのだろう。水炊さんが幾度となく懊悩しようとも、その願いが果たされないことを…。環境がそうはさせない。親の背中が許さない。選択肢を奪う。意思や希望や教育は徒労だ。自分と同じものを背負わせる。娘自ら背負う。聡明なスダチなら尚更、大きなものを守るべく自身を犠牲にする。

 だからメリーさんは心を鬼にした。

 娘に同じ轍を踏ませない。そして孫娘は、お天道様の下で生きて欲しい。娘と孫を守るため、呪われた家督を断ち切るために、親子を離した。スダチは細心の注意を払って、可能な限り家から遠ざけて育てる。箱入り娘とは、おそらく嘘ではない。

 万が一失敗しても、自分の娘だけは守れる…。

 考えすぎか?

「…他の《丑鍋組》人々は、路頭に迷ってしまったんですか?」「お前そんなこと気になるの?」「以前同じような経験をしたもので」「ふーん。蛸壺星人とアイツがどうにかするってさ」アイツ、ザラメ氏である。

「あの人は、今は何を?」「ヤクザもんの頃に培った横の繋がりを生かすらしいよ。知らねーけど」興味無さげに吐き捨てた。

 下手をすれば《野良大学生事件》のように、野良ヤクザ事件である。ザラメ氏はよく分からないが、芋太郎さんなら何となく、何かを、どうにかしてくれそうで安心する。

「でもあのタコ、お前が約束守らねえって怒ってたよ」「約束?」「勉強」「あー」

 夏休みの宿題からの休み明けテスト。超安定コンボである。二学期は頑張ってもらおう。

「水炊さんは、今は、《二号館》に住んでいるんですか?」「そうだよ。愛娘が『ここにする』ってきかねえから」「それってもしかして…」「皆まで言うな。あの子は高い所が大好きなんだ。それ以上の理由はない」「ありがとうございます」「へいへい」「じゃあ今は一緒に住んでいるんですか?」「一つ屋根の下、という意味ならな」

 部屋は別、か。吹けば飛ぶようなベニヤの壁が、かつてこんなに厚く感じることなどあっただろうか。

「スダチは、何か変わりましたか?」「あの子は別に変わらない。頑固もんだから」「ですか」「せいぜいファミレスでバイトを始めたぐらいだ」「え、まさか…アンミラ?」「だあほ。デニーズだ」「ああ…」

 あの制服は完全に吹っ切れているわけではなく、微妙に大衆に迎合しているというか、最早ネタで通用しないレベルの自信家でないと、着こなせない。着ようと思わない。

 …まあ、似合うことは間違いない。

「盗撮とかされるかも…」「いつまで彼氏面してんだよ」「いや、違っ、写真がーー」

 そうだ。写真だ。

「当時の写真って、とても高価だったんですよね?」「つまりものすげえ金持ちで、とんでもねえ変態だった」「水炊さんの親って感じです。あっつ!」「一生もんのヤキ入れんぞ」「一つ気になっていたんですが、あの写真の相手ってもしかして…」「…なるほどなあ。お互い際物の血を引いてんねえ」

 考えたく無いがそうとしか思えない。そうでなければ、メリーさんの復讐は成立しない思えばジジイは死に際、妙に徘徊が増えていた。アレはメリーさんに会いに行っていたのだろうか。メリーさんは、ジジイと会って考え方を変えた、とか。

「さてと」水炊さんは立ち上がる。「一服したし、行くわ」一服とは一箱である。新品だったんだけどなあ。

「いずこへ?」とぼくも付き従うべく立ち上がる。

「ばーか。おめえの煙草にはまだ火が灯ってねえだろ」

 豪と風が吹き抜けた。

 思わず目を瞑り、開ける。彼女の姿はなかった。いつかと同じように、地上を見下ろす。水炊さんは疾風となりて猛然と坂を下る。「もうちょっとそこに居ろ!」

「待ってください!」と梯子を探すが、先ほどまで新品同然だったそれは、足元で鉄塊と化していた。

 もしやこれは、迫害的な種類に属するアレか? 

 このアパートで疎外感を抱くことがあるのか。よよよと、その場に泣き崩れる。やっぱ実家戻ろうかな。女々しい思考が頭を過る。

 秋の風が頬を冷やす。日中との寒暖差に、心と体がひどく傷つく。

 ーーまた一つ獣臭い風が吹いた。

 後ろから、極々小さな物音がする。得体の知れない恐怖に、身を竦める。恐る恐る振り返るとそこには「…完全に手懐けてんじゃんお前」

 ムースに乗ったマヨ子が、毅然とぼくを見下ろしていた。

「私の《ジーンペイ》が傷心中だと聞いた」「…え?」「《ジーンペイ》の痛みは私の痛みだ。だからこうして馳せ参じた」「ぼくを、励ましてくれるというのか?」「然り」「…でも傷つけたのは、あんたたちの方だぞ!」「ふふふ、一芝居うったというわけさ」「…芝居?」「トーキチを《めぞんアビタシオン》から遠ざけるために」「もしかして…改装中?」「馬鹿が!」「酷い!」「こっそり準備をしていたのだ」「…準備?」「びっくりパーティだ!」

 こいつ、こんな性格だったっけ?

『ハンドルを握らせると性格が変わる』それの類似品で、マヨ子の場合は鹿に乗ると性格が変わるのかもしれない。

「あとそれ、言って良かったのか?」「…お前など大嫌いだ」「下手な嘘でも傷つく…」

 誰だ。こいつを迎えに寄越したのは。おそらく読子さんだ。あの人は『そういう人』だ。なにもマヨ子一人でなくとも…。ん一人…?

「お前、一人で外に出られたのか?」「一人ではない。《ジーンペイ》が居る。逆ハーレム!」「…こいつオスだったのか」「あとお前ではない。マヨ子と呼べ!」「マヨ子」「ーーっ」ヘッドバンキング。形容しがたい反応をする。

 よくよく考えてみれば《丑鍋組放火事件》もマヨ子一人で行ったのだろう。だからあそこには鹿も居た。引き篭もりがマシになったのは良いが、目立ち過ぎるのも問題である。

「それにしても、あそこからよく無事に逃げて来れたな」「《ジーンペイ》が付いている」「今は危険な目にあってないか?」「私を誰だと思っている」「そうか、良かった」「……」「でもあまり危ないことはするなよ」からのヘッドバンキングだ。

 もしや、照れ隠しか?

 のちに聞いた話では、マヨ子はムースを乗りこなして、人間では通り抜けられない山道を縦横無尽に逃げおおせた。よってあの火事は、自然発火として扱われている。山に近いことが幸いして、山火事の一種と判断されたようである。《丑鍋組》としても、国家警察の介入は避けたい。自分たちで犯人捜しをしようにも、心当たりが多すぎる。何より、人手が壊滅的に足らなかった。

「トーキチ」「何だ」「帰るのだったら、連絡の一つも入れろ」「……」「と、言伝を頼まれた。それが《めぞんアビタシオン》の総意だ」

『連絡を入れろ』常識中の常識を、まさかマヨ子に諭されるとは。

「ごめんなさい」

「腹いせに一発芸をさせるそうだ。考えておけ」

「…ではとっておきをお披露目しよう」

 マヨ子は小さくヘドバンすると、自分の後ろを顎でしゃくる。ムースの尻に乗れと言っているようだ。ぼくは恐る恐る、彼女の手を借りて跨ると、見た目以上の安定感と高さに気分が高揚する。「腰を持て」というので「失敬」と手を回す。頭一つ分小さな女の子に掴まるというのも格好のつかない話だが、格好をつけていたら落馬ならぬ落鹿する。

 マヨ子はじっとぼくの様子をうかがっていた。

「私はまだトーキチを許していない」

「は?」

「私をのけ者にしたな」

 脈絡のない発言だが、冷静に考えれば心当たりはある。

 マヨ子も祭りに行きたかったのだろうか。

「…悪かったよ。埋め合わせはする」

「許す!」そして「しっかり掴まっていろ」と言うので、ぼくは手に力を込めた。鯖折りしてしまいそうなほど細かった。

 鹿は道無き道を《めぞんアビタシオン》に向けて最短距離で駆ける。

「ねえマヨ子」

「喋るな舌を噛むぞ」

「もしかしてマヨ子は、ぼくのことを好きなの?」

「思い上がるにゃ!」

「…にゃ?」

 天高く馬肥ゆる秋というが、我々が乗っているのは鹿だ。天高く鹿肥ゆる秋。残暑はまだまだ厳しいが、いずれコイツも丸々と太るのだろうか。

 馬肉にされんなよ。

                              《オスマイ》

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天高く馬鹿、肥ゆる秋 まいずみスミノフ @maizumi-smirnoff

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