第10話 言霊師
言霊師でもない男の言葉が何故力を持った?まぁいいが。しかし彼に教えられた気がする。それは何よりも信じる力が必要なんだと。たとえ古の言霊がほとんどなくなろうとも、それでも信じ続けること。それが真の言霊師なのかもしれないな。そんなこと考えながら突然立ち止り、目を瞑ると口から大きく息を吸い込む宮司に禰宜はオドオドしていた。「先生どうされたんですか?」宮司はゆっくりと息を吐き出すと、「少し黙っておれ」そう諭し、再び目を瞑り今度は静かにけれども大きく息を吸い込んだ。それから数秒間、何も起こらなかった。空中の空気もその場所を動いていないような、世界中が全て止まってしまったようなそんな感覚に襲われた。そんな世界を宮司が解き放った。たった一言、「助けたまえ」しかし禰宜にはただ居合いのような声が微かに漏れただけのように聞こえた。それなのに、宮司の周りに立ち込めた気は想像を絶するほどに空間を圧迫し、全世界へと振動していったかのようだった。息苦しささえ感じた禰宜だったが、それでも言われた通り黙ったまま宮司を見続けた。突如倒れ込む宮司、堪らず禰宜が支えた。「先生、大丈夫ですか?」「あぁ」しかし宮司は明らかに息を切らせていた。その間たった一分間ほどの出来事だった。宮司の体から発せられた湯気は禰宜が噎せるほどだった。その日の夜のニュースで流れていた。北海道の山奥で一人の少年が大雨の後の濁流に流されたが、たまたま倒れた木に支えられ一命を取り留めたと。男の子は奇跡的に助かった。しかしそれが一本の木によって成し遂げられたと報道されることはなかった。
「先生、ここでしたか」その夕刻、正殿の裏にある樹齢何百年という大きな杉の木に隠れるようにある境外の摂社に手を合わせていた宮司を見付けた禰宜が急いでいる様子で声を掛けて来た。「今度はなんじゃ?」宮司にとってここは境内では感じられぬ安らぎを与えてくれる場所なのだ。そんな時に入り込んで来た禰宜の忙しさが宮司には好かなかったのだが、彼の態度は禰宜にはいつもと何ら変わるモノではなかった。「先日、先生に嵐を止めて欲しいとお願いに来ていた者たちが、また詰めかけています。先生に会いたいと申しております」「まだ文句があるのか?」合わせていた手を下ろすと宮司はゆっくりと立ち上がった。「どうやらそうではなく、礼が言いたいと申しております」不思議そうに話す禰宜に、「何故、わしに礼が言いたいのだ?」宮司も首を傾げて見せた。「何でも、田舎に帰ると例年の嵐が一度も田畑を直撃しなかったそうです。ですから礼が言いたいと」「わしは何もしてない」再び摂社の方に目を戻す宮司。「ですが……」困る禰宜に、「礼を言いたければ、すぐに田舎へと戻り、自分たちが住む、周りの山々や川、それに樹木や草花、そして大地にお供え物をし、深々と頭を下げ、感謝を言葉にしなさいと教えてやりなさい」そう言った宮司の目が余りに温かかったから、禰宜はそれ以上を口にはせず、深々と一礼して詰めかけた村人たちの下へと戻っていた。一人になった宮司はほくそ笑み、「それでもまだ、人間を助けますか」そこから見える杉の木をいつまでも眺めていた。
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます