episode60 終わらないブルース
あれから、意識のないタイラを柊の診療所に運んだ。柊はひどく面倒そうな顔をしたが、病室を一つ空けて点滴を打ってくれた。
常の職場ということもあり、都は毎日様子を見ている。今のところ都が見ている中で、彼がぴくりとも動いたことはない。まるで死んだように眠っている。
彼の身体を綺麗にしようと濡れたタオルで拭いてやるたび、数えきれないほどの傷が痛々しかった。
彼の黒い髪を撫でる。ひとまず、目を覚ましてくれなければどうすることもできない。彼はもう3日も眠ったままなのだ。
コツコツ、とドアをノックした音がして、都はハッとする。振り向くと、柊が呆れた顔で立っていた。
「都ちゃんよぉ、仕事はどうしたぁ?」
しどろもどろになった都は、「ごめんなさい、いま」と言いながら病室を出ようとする。「まあ待て」と言って肩を掴まれた。
「この男のことはそう気にするな」
「そんな……だって、もう3日も……」
「そろそろ起きるだろう。寝るにも体力がいる」
当惑して、都は「そういうものでもないでしょうに」と呟く。「そういうものだ」と柊は肩をすくめた。「そもそもテメェ、この男が怪我か何かで寝込んでいると勘違いしてるわけじゃあるめえな?」と眉をひそめる。
「違う、のですか」
「はあ……全然違うな。こいつは、アレだ。寝不足とカフェイン中毒だよ」
「ね、ねぶそくと……かふぇいんちゅうどく?」
思わず口をぽかんと開けて、都は柊を見た。「どうせカフェインを大量に取って何日か徹夜キメたんだろうよ。今までも何度かある……今回はなかなかひどいが」と何でもないように言う。
「ついでに怪我の処置もしてやったが、そっちで死ぬようなことはあるまいよ。こいつは切られても撃たれても死にそうにないやつだからな」
そんなことは、きっとない。
タイラの顔を盗み見て、都は表情を曇らせる。きっと、そんなことはないのだ。彼は確かに丈夫だけれど、切られたり撃たれたりして死ぬ人だ。普通の、人なのだ。
都は片手でこめかみを押さえて、「眠れないのなら私のせいだわ」と呟く。ああ、と柊は手を打った。「あの薬か」と。都はあまりにも驚きすぎて、言葉を失くす。
「あんたがせっせと作ってた薬だろ。仕事サボってた分、給料から引いとくからな」
「はい……すみませんでした……」
短く息を吐いて、柊は病室を出るよう促した。「こんな時に起きてこられたらたまらないからな」と言いながら柊も都のあとから出る。
「あれは麻酔か?」
「……そこまでご存知なんですね」
「まあ使ってみたからなァ。麻酔にしては……神経系に影響を与えすぎるかとは思ったが」
「それをタイラは常用しています。私がそうさせた」
事務室に入って、柊がインスタントのコーヒーをいれた。都にも、カップを差し出す。座んなさい、と言われて都はパイプ椅子に腰かけた。
「確かに、薬の影響がなかったとは言わない。ゆくゆくはあの男を破滅させる一因にはなるかもしれん」
そうだとわかってはいても、他人から聞くとあまりに耳に痛すぎる。都はうつむいて、唇を噛んだ。だが、と柊は続ける。
「それがなんだという話だ。今となってはな」
それが、なんだ? それがなんだ、とは一体どういう意味だろう。
都は愕然として、顔を上げた。
「簡単な話だ。あんたの薬があの男を破滅させるわけではない。確かにそれを一因として追い詰められてゆくかもしれないが、問題が別にあるということは明白だ」
「問題……?」
「逆に聞くが、あいつは薬を打っていなければ破滅しないのか?」
それは。
そんなことは、わからない。イフの話を、しかも他人が、推し量れるものではない。
だけれど時々ふと、考える。あの人は、初めて会ったあの時────なぜ、抵抗していなかったのだろうと。
そして今回、誘拐犯と対峙するタイラを見れば、あの人がどこかで折れたがっていることは明白だった。周囲も『折れろ』と願っていた。しかしなぜだかそれを、あの人自身が許していなかった。
不屈であることで、むしろじわじわと追い詰められていくような。見ているのも、苦しかった。
不思議な事は何もない。本当は、彼がどこかで負けておきたがっていることを、都は最初から知っていた。それでもずっと、『勝って、無事に帰ってきますよう』と願いながら彼を見送ってきた。そして彼は、誰にも負けなかった。“負けたい”と“負けられない”の狭間で彼はずっと勝ってきた。
死にたいわけではないのだと思う。死を願う人の笑い方ではないから。ただ、立
ち止まる理由を探しているのだろう。
では一体何が、彼の立ち止まる理由たりえるのか。たとえ手足を失おうと、体の自由を奪われようと、それが彼の立ち止まる理由になるとは思えない。
だから、立ち止まってもいいとは言えなかった。彼にとって立ち止まることは死と同義でないにせよ、はたから見たらそれは同じことだったからだ。
きっといつか、限界がくる。どこかでどうにもならなくなるはずだ。それが彼の望んだ形か、そうでないかだけの違いで。
「人は、必ず死ぬ」
そう、柊は言った。
「人は必ず死ぬが、それは敗北ではないし破滅でもない。だがあの男は、このまま行くと恐らく敗北するだろうし破滅するだろう」
「……何に負けるというんです」
「自分にだ。当たり前だろう、誰にも負けない人間が“負けたい”と願うのであればそりゃあ敵は自分しかいない」
本人のいないところで秘め事を聞いているような、居心地の悪さを感じる。都はそっと目をそらした。そして、と柊が続ける。
「あんたはそれに薄々感づいていながら、それでも薬のせいであの男を追い詰めていると自分を責めるのか」
目を閉じて、呼吸を整えた。もう何も言ってほしくなかった。自分の弱さなど、自分が一番知っている。
「別に開き直れと言っているわけじゃない。ただ、誰もあんたの自責を求めてはいないということはあんたもわかっているだろうに。それでも自分を責めるのであれば、それは一体誰のための後悔だ?」
答えられなかった。ただ、「わかっています」とだけ呟く。柊はため息をつきながら、「いいや、わかっていない」と言った。「たぶんあんたは、何もわかっていない」と。奇妙な沈黙が生まれる。
「あー、やめだやめ。うちはカウンセリングはやってないんだ。知っているだろうがな」
そう言って、柊は部屋を出て行こうとした。都はその場でぼうっと前を見る。ひどく蒸し暑い部屋だった。
☮☮☮
次の日都がタイラの病室に入ろうとすると、なぜだか戸が開かなかった。きょとんとして、柊に「タイラの病室の鍵を閉めましたか?」と尋ねる。柊はどうでもよさそうに、「今日は面会謝絶だ」と言った。
「なぜです」
「別になぜってこたぁないが、もうちょっと寝かしつけておきたいだけだ」
何か書類をまとめながら、「と、まあこれで納得するあんたじゃないが、とにかく今日は黙って言う通りにしなさい」と肩をすくめる。「これは医者として言ってるんだ」と顔をしかめた。そう言われてしまうと、都としても黙るしかない。なぜだろう、何があるんだろう、と悶々としながら一日を過ごした。
翌日、タイラの病室の戸はあっさりと開いた。そしてタイラは、起きていた。
着替えをしていたらしいタイラは、ズボンを履きながら「入るときはノックをしろよ、3秒早けりゃフルチンだったぞ」と顔をしかめる。持っていたタオルを全て落として、都は思わず自分の口に手をあてた。「何だその反応」と言い捨ててタイラは黒いハイネックのセーターを着る。この暑いのに、なぜそこまで着こまなければならないのか。しかも彼はその上にジャケットを羽織ろうとした。
「いつ起きたの……?」
「さっきだ……よく寝たな。今日は何日だ」
「あなた、4日も寝てた」
「4日!? 起こせよ、2日目で起こせ!」
タオルを拾いながら、都は近づく。「体は大丈夫なの?」と尋ねれば、タイラは「調子が良すぎて困っているぐらいだ」と答えた。急にハッとして、「やっぱり禁煙の効果かな?」と言ってきたので、「本当に元気ね……」と言うほかなかった。
「元気なのは何よりだけれど……帰るつもりなの?」
「そうだよ。4日もいたとなると、柊さんからいくら請求されるかわかったもんじゃないな。ここの宿泊費は高すぎる。今度寝るときはモモちゃんちに行こう」
こほん、と都は空咳をしてみせる。ああそうだ、とタイラがジャケットを羽織りながら都を見た。
「あいつらは元気か?」
「……ええ。みんな元気」
「竹吉がどうなったか知ってる?」
「無事だと聞いているけれど、会ってはいないわ」
「あいつも案外しぶといね」
ポケットの中を探って、「煙草がねえな」とタイラは呟く。それから都を見て、「俺は帰るが、君はまだ仕事か?」と聞いた。都はちょっと面食らって、そうねと言ってしまう。
ぐっと拳を握って、顔を上げた。
「もう少し休んだ方がいいんじゃ?」
「4日も寝てたやつに言う台詞かよ。俺、腹減ったな。仕事なんかサボってどっか食いに行かない?」
目を丸くしながら都は、「起きたばかりだし、何か消化にいいものを食べたほうがいいわ」と眉をひそめる。どうやら求めていた答えではなかったようで、「まあな」とタイラは軽く流した。
「じゃあ、俺は柊さんと話してくるから」
そう言って、
「待って」
思わず呼び止めてしまったが、続く言葉がない。タイラは、当然のように振り向いて都の言葉を待っている。
「タイラ……」
言えない、ここにいてとは。
「あなたは、器用な人だけれど、器用に、とても器用に、下手くそな生き方をしているように見える」
言えない。だってそれは、彼のための言葉じゃなくて自分のための我儘だ。『彼が心配だから言っている』と自分に言い聞かせるのも馬鹿馬鹿しい。もう、自分すらごまかせない。
「もっと上手な生き方があるはず……」
こんなことを言いたかったんじゃない。こんなことを、私は。
「あんたも、俺に何か足りないものがあると思うか」
そう、タイラは静かに問うた。都は震えながら、うなづく。
ゆっくりとタイラが近づいてきて、「それは何だ」と首をかしげた。都はそれを見ながら、部屋の隅に置いてあった花瓶がない、なんてどうでもいいことを思う。一昨日まではあったのに、と。
そっとタイラが都の肩を掴み、耳元で囁いた。
「おしえて」と。
ああ、彼が死んでしまったらどうしようと考えるたび逃げ出したかったな。逃げ出したい私では彼に届かないな。
『おしえて』と言った彼の言葉に懐かしさすら覚えても、都の中には彼のための言葉がなかった。ただ自分のために彼に縋るのはやめようと、口を閉ざしていた。
不意に都の肩から手を離したタイラが、「なんつう顔してんだ」と吹き出す。
「あんた泣きべそかく時ミッフィーみてえな顔になるから気をつけろよ」
「み、みっふぃー?」
「おいミッフィー知らねえのか。可愛いぞ」
くつくつと喉を鳴らして、タイラは都の髪を雑に撫でた。「いじめる気はなかったんだ」と言ってそのまま歩いていってしまう。都はそれを見ていた。彼を引き止めるすべがなかった。
☮☮☮
勝手に事務室に入ってきたタイラの姿に眉をひそめながら、柊は「都女史と話したか?」と尋ねる。「話したが、彼女は何かあったのか? 随分気落ちしているようだったな」とタイラが肩をすくめた。テメエがそれを言うかね、と思いながら柊は煙草に火をつける。
「おい、医者が患者の前で煙草を吸っていいのか? あとそれ、俺の煙草だと思うんだけど」
「残念ながら最後の1本だ」
「ふざけてやがる……」
目の前で煙草のパッケージを潰し、ゴミ箱に放り投げてやった。「治療費から引いておけよ」とタイラは苦々しい顔をした。
「帰るのはいいが……タイラ、荒木の飼い犬がテメェを探してるぞ」
「ああ、荒木の飼い犬っつうかアラキグループの老害の使いだろ。俺を探すよりやるべきことがあると思うけどねぇ。
「それができねえからタイラワイチを処刑して立場を守りたいんだろ」
「タイラワイチくんを処刑しても立場は守れないと思いますよ」
「そんなこたぁ、どんな老害でもわからぁ。ただ、ここで何もしないってこともできねえプライドだろ。あるいは、テメェの首を持って行けば美雨のご機嫌が取れると思ってるのかもしれねえよ」
「戦国武将か?」
言いながらタイラは、何か考える顔つきになった。「よくあいつらが無事でいるな……」と呟く。「テメェがあれだけ脅せば、ちったぁ考えるだろう、馬鹿でも」と柊はため息をついた。「まあ、もっと直接的な理由がある」とも言ってやる。
「美雨のとこの若いのが、ずっとあの家を見張ってる」
「……美雨が? 守っていると、言うのか……あいつらを」
「まあ、そう見えるわな」
「それでいいのかね、あの女。俺と敵対してるっていう話はどうした」
「知らん。本人に聞け」
ふっと笑ってタイラは、「『いずれ配下に置くつもりですし?』とか言いだしそうで油断できねえな」と言った。いい顔をしやがる、と柊は煙をふかす。美雨と和解したことは、タイラにとってもそれなりに価値のあることだったのだろう。
「じゃ、俺は帰るから」
「支払いは3日以内で頼む」
「3日も待ってくれんのかよ、良心的ぃ」
柊は追い払う手つきで顔をしかめる。けらけら笑って、タイラは部屋を出て行った。
ため息をつき、柊も腰を上げる。頭をかきながら戸を開けると、そこには都がうつむいて立っていた。「今、あの男が通ったはずだが」と目を細めれば、都は無言でうなづく。話し声がしなかったので、特段会話をせずにそのまま通したのだろう。
肩をすくめて、「あいつの
「あんたも帰ったらどうだ? その顔で仕事は無理だろ」
「でも、」
「あの男が家に帰るんだぞ、言ってやることがあるだろうに」
ハッとして、都は頭を下げ走っていく。それをぼんやり見ながら柊は、「……世話が焼けら」と呟いた。
☮☮☮
診療所を出て、都は走った。走って、走って、途中でタイラを追い越す。追い越す瞬間、タイラは「えっ、どったの?」と言いながら避けた。それすら無視して、都は走る。
そうして見慣れた酒場に駆け込み、震えている膝に手をついた。「せんせー、どうしたの?」とカツトシが振り向く。
「タイラが、帰って来るわ」
窓際で勉強をしていたユメノとノゾムが、顔を上げた。「マジで?」とユメノは立ち上がる。それからすたすたと歩いて行って、「ユウキー、タイラ帰って来るよー!」と叫んだ。ガタ、と何か物音が上の階から聞こえる。足音が響いた。
ユウキが下りてくるより一足早く、酒場のドアが開く。軽く手を上げながら、タイラは「よっ」と声を発した。都の姿を認めて、「さすがに無視はなんだ、傷つくぞ」と顔をしかめる。都は息を整えて、真っ直ぐにタイラを見た。
「おかえりなさい、タイラ」
何の気負いもなく、横から顔を出したノゾムが「あっ、先輩おかえりなさい」と手を振る。つられてユメノも「おかえりー、大丈夫なん?」と近づいてきた。「おかえり。あんた、もしかしてまた携帯壊した? そろそろ携帯の付喪神に呪われるわよ」とカツトシは何でもなさそうに言う。慌てて階段を降りてきたユウキが、それでも手すりに隠れながら「お、おかえりなさい……」と弱々しく囁いた。
奥から走ってきた実結が、「おかえりなさいっ」と言ってタイラに飛びつく。
「どこにいってたの?」
「おう、ミユちゃん。元気だったか。タイラさんは冬眠する生き物だからな」
今は夏ですけどね、とノゾムが冷静に突っ込んだ。
実結を抱き上げたタイラは、ゆっくりと歩いて行ってユウキの前に立った。ユウキは小さくなって、「ごめんなさい……」と謝る。
「どうして謝るんだ? お前は何か悪いことをしたのか」
「弱いくせに出しゃばったから、じゃまになりました」
「弱かったら何もしちゃいけないのか」
タイラは膝を折って、ユウキと目線を合わせた。「お前、友達のために何かしたかったんだろ?」とユウキの頬を軽くつねる。「実は俺もなんだよ」と言いながら、拳を前に突き出した。
「今回は、お互いよくやったよなぁ? お疲れさま、だ」
恐る恐る、ユウキも拳を前に出す。こつん、と軽い音がした。
「俺は、お前が間違っているとは思わない」
「でもメイワクだったでしょう?」
「いいや、まったく。面食らっただけだよ……美雨に噛みついたんだってなぁ」
なぜだかタイラはげらげら笑って、ユウキの頭を撫でくり回す。「いいぞ、もっとやれ」なんて力強く言ってみせた。「お前はそのまま大きくなって、いずれ俺にすら噛みつくヒーローになれよ」と。
「まあ、今回はちょっと肝が冷えたが」
「キモ?」
「こわかったんだ、ユウキ。次はお手柔らかに頼む」
最後にくしゃくしゃとユウキの髪を撫でて、タイラはカウンターに近づく。「腹が減ったよ、カツトシ。なんか作ってくれない?」と声をかけた。「なんかって何よ」とカツトシは肩をすくめる。
「かつ丼がいいなぁ」
「時間かかるわよ」
「じゃあ、出かけてこようかな」
そんなことを言っているタイラの隣に、ユメノが立った。「髪伸びたね」とタイラの顔を伺う。「ああ、邪魔だと思っていたところだ。切ってくれるか」とタイラは前髪をかき上げながら言った。
「いいよ、シャワー浴びてきたらね」
そうユメノが腕を組んで言うと、タイラは苦笑いしながら実結を椅子に座らせ、階段を上がっていった。しばらくすると、2階からシャワーの音が聞こえてきた。ユメノとカツトシとノゾムが、同時に吹き出す。「素直っすね」とノゾムが言った。「あたしも準備しよ」と言ってユメノは伸びをしながら歩いて行く。
「先生、いつまで立ってるの? お客さん来ないし、座っていいわよ」
カツトシに促され、都は慌ててカウンター席に座った。
拍子抜けするほど、いつも通りだ。しばらく考えて、『今回の件が彼らにとって特段珍しいことではなかった』のだということに思い当たる。不思議とユウキには随分堪えているようだが。
これが彼の築いてきた信頼だとしたら、なるほど非常に強固だと思う。
やがてばっさりと髪を切ってきたタイラが、ユメノと階段を降りてきた。降りながら、2人は何だか同じような表情で話をしている。
「ほんと、気をつけな? バイク事故って死にかけるとか笑えない。マジでぶっ倒れるから頭打ったのかなってびっくりした」
「俺、バイク事故ったんだっけ?」
「お前がそう言ったんだろー」
そうか、と腕を組んでタイラはカウンターの回転椅子に腰掛ける。いつもの定位置だ。その隣に、ユメノも座った。
「てか、4日も寝てたわりに元気じゃん」
「そうだな。調子が良すぎて俺もビックリしてる」
「ぶっ倒れる前より調子いいってウケるね」
「あのな、ユメちゃん。俺は禁煙に成功したんだよ」
「4日吸ってないだけじゃん、しかも寝てたんだし。そんなん禁煙と違わい」
厳しいな、と呟くタイラに、ノゾムが近づいて「禁煙したほうがいいっていう意識はあったんすね」と茶々を入れる。そんなノゾムの頭を、なぜかタイラは叩いて笑った。
「なんすか」
「お前、将来何になりたいの?」
「なんで今その話!? フリーターの心臓を的確に止めるのやめてくださいよ!」
「お前なら何にでもなれるよ」
「だからなんで今その話なんすか……」
そんなタイラの前に、カツトシがどんぶりを置く。「出来たの? お前、天才だな!」とタイラは真顔で称賛した。それからカツトシは、「みんなもお昼にしましょ」と言いながら全員の分のかつ丼を置いて行く。
「ユウキ、挨拶」
とタイラが言うので、ユウキは深呼吸をしてから手を合わせた。「いただきます」と声を張る。追いかけるように全員で「いただきます」と声を合わせた。
「カツトシ」
「何よ」
「美味い」
「当たり前でしょ」
「腕を上げたな」
「ふふん、弟子入りしたのよ。前にショーくんの護衛で行ったお店のマスターに。もう、フレンチだってちょちょいのちょいなんだから」
「そうなの? いいなぁ、俺も教わりたい」
「えっ」
困惑した様子のカツトシが、「それはどうかしら、というか必要?」と小首をかしげる。タイラは答えずに、「そういえば」と言い出した。
「一応聞いておくが、近頃困ったことはないのか」
「困ったこと、ねえ……」
カツトシとノゾムが顔を見合わせて、ひそひそと話す。「あれは?」「ああ、あれもそうね」と意見を合わせて向き直った。
「なんか、あんたが入院している間ずっと食品が届いてたのよ」
「食品?」
「それも高級なやつよ、ほんと。毎日届くわ。『アラキミウ』って人名義で来るんだけど、あんたの知り合いだったりしない?」
「
「そうなの?? 知らない人から贈られてくるもの使えないし、そもそもお客さんが来ないから消費に回せないし、困ってたのよねえ」
タイラは少し考えて、「埋め合わせってそんな即物的なものは期待してなかったんだけどな」と独りごちる。それから顔を上げて、「そういやもう昼だが、客の入りが悪いな」と言った。カツトシが肩を竦め、店の外を指さす。
「ほら、あそこに顔の怖いお兄さんたちがいるでしょお? なんかこっちチラチラ見てるだけで、入ってはこないんだけど……正直、あれにビビって人が入ってこないのよねえ」
「なんであいつの善意ってこんなに見事に空回るのかね」
「あのお兄さんたちも知ってるの?」
「あれを遣わしてきたやつを知ってる」
なるほどねえ、と言いながらタイラはかつ丼をかき込んだ。箸をおいて、「ごちそうさん」と呟き、ごく自然に立ち上がる。「出かけるの?」とユメノが尋ねた。タイラは何も言わなかった。
「もしかして、喧嘩?」
やはりタイラは目を細めただけで、何も言わない。
横を通り過ぎようとするタイラの袖を、思わず都は掴んだ。ある程度予期していた様子で、タイラは逆に都の腕を掴む。
「俺に『おかえり』と言うために、あんなに必死で走ってたの? 可愛いな」
「……それは、気のせいだわ」
「そうか。俺、あんたの『おかえり』って結構好きなんだけどな」
言いながら、タイラは都の額を軽く指で弾いた。「でも、そんな切羽詰まった顔じゃダメ。いっそ怒っていろ」と笑う。
「あんたの怒った顔が好きなんだよ、笑った顔と同じぐらい」
「また、そんなことを……」
「だが、泣き顔だけはいただけない。笑えないならいっそ怒ってろ。わかったか?」
ムッとしてタイラを見ると、彼は喉を鳴らしながら「そう、それ」と言って指をさした。「じゃあな」と都の腕をテーブルに置いてその場を去ろうとする。
駆け寄ってきた実結が、「どこにいくの?」と聞いた。「ミユもいくよ」と。タイラは吹き出して、実結と目線を合わせる。
「楽しいところにはいかないんだ、ミユちゃん。デートはまた今度な」
「じゃあ、すぐかえってきてね。すぐだよ」
「ああ、もちろん」
そう言って、タイラは立ち上がった。そして今度は、その場の全員に向けて言う。
「戻ってくるよ。待ってろ」なんて。
真夏の日差しの中、タイラの笑顔にやっぱりちょっとだけ見惚れた。
仲間たちの反応は散々で、みんな『はいはい』というような表情をする。それでも、「行ってらっしゃい」とユメノが言った。ご飯をかきこみながら、ノゾムも手を振る。全員が、仕方なさそうに「行ってらっしゃい」と声をかけた。「可愛いやつら」と笑って、タイラは外に出た。
☮☮☮
そんな大仰なやり取りを経たものの、タイラは1時間程度で帰ってきた。上機嫌にドアを開けたタイラを見て、都たちはとりあえず「おかえりなさい」と言いながら面食らう。
眉をひそめたユメノが、「てか、もう煙草吸ってる」と指摘した。
「だって途中にコンビニがあったんだもん」
「『もん』じゃねーし。可愛くないから」
まあまあ、となぜだかタイラは不敵に笑う。それから店内に入り、中から外にいる人たちを手招きした。
「俺が客を連れてきてやったぞ。崇めろ」
言いながら、10人ほどの男たちを店内に並べる。男たちはみな一様にボロボロだった。
ノゾムがハッとして、「それ……先輩に殴られてきたオールスターじゃないですか?」と尋ねる。タイラは腕を組んで、「たった今殴ってきたオールスターだ」とうなづいた。
「なんで連れてきたんすか……めっちゃ睨まれてますよ」
「なんだよ、たった今殴ってきたオールスターを連れてきちゃいけないルールでもあんのかよ」
呆れた様子のカツトシが、「まあ、そんなルールはないけど」と口を挟む。「ほら見ろ、店主様がそう言ってんだぞ」とタイラは自信満々に言った。それからふと外を見て、「あいつらも呼ぶか」とこちらを見張っている強面の若者たちを指さす。誰が何を言った訳でもないのに、「よし」と言って飛び出していってしまった。
残された仲間たちと、タイラに殴られ連れられてきた男たちは、奇妙な沈黙の中で視線を交わす。
「……なんか、災難でしたね」とノゾムは声をかけた。
「話しかけてきてんじゃねえクソ」と男のうち一人が舌打ちをした。
戻ってきたタイラが、外にいた若者たちを文字通り引きずって「どうした? なんだこの空気」と肩をすくめる。あんたのせいだよ、とノゾムが顔をしかめた。
「なんだよ、立ち飲みバーじゃねえぞ。座れよ」
そうタイラが圧をかけると、苦々しい表情をした男たちも近くの椅子に腰かける。いい子だな、とタイラは笑った。
「何か頼め。全員1杯目は俺の奢りだ」
言って、喉を鳴らす。一瞬のちに男たちが手を挙げた。「一番高い酒を持ってこい」「オレも」と次々にオーダーが入る。さすがに閉口して、タイラはそれを眺めていた。
「本当にお代は払うんでしょうね?」とカツトシが釘を刺す。
「1杯目だけだぞ」とタイラは頭をかいた。
もう、そこからはどんちゃん騒ぎだった。「ほんとは営業時間じゃないんだけど」とぼやいていたカツトシも、「店主ー! 美味いぞー!」と衒いもなく褒められれば「まあね」と機嫌を良くする。ユメノがエプロンをつけながら、「手伝うよ」と申し出た。都もなぜか白衣を羽織って、「手伝うわ」と手を上げる。
「おい、こんな店あったか?」
「いやぁ……こんな看板娘がいる店知らねえなァ」
と言いながらユメノの尻を触ろうとする男の腕を掴んで、ノゾムが「お触り厳禁でーす」と注意した。「タイラにバレたらまたなぐられちゃいますよ」とユウキもしかめ面をする。そんなところに一生懸命皿を運んできた実結が、「どーぞ! びーふ、すたらがなふ! です!」と差し出した。一気にデレっとした男が「この子は? この子はお触りOK?」と尋ねるので、噴火しそうな顔のユウキは「ダメです!」と叫ぶ。
ふう、と一息ついてカツトシは、カウンターの上にどっしり腰かけて酒を飲んでいるタイラを見た。
「あんた、カウンターに座るのやめてくれない?」
「ここに座るとよく見える」
「カウンターは座るところじゃない」
「あとで綺麗にする」
「また掃除するのー?」
ちびちび酒を飲みながら、タイラはぼんやりと場を見渡している。一体何を考えているのか、誰にもわからない。
「また破滅願望をこじらせたわけ?」とカツトシが尋ねれば、タイラは肩を竦めて「そしてまたユウキを泣かせた」と呟いた。
「いい加減にしなさいよね、もう歳なんだから」
「それ、前にも聞いた小言だ」
「何度も言わせるあんたが悪いんじゃない?」
一瞬黙ったタイラが、また口を開く。それを察知し、カツトシは「“俺じゃなければよかったな”?」と本人より早く言ってやった。タイラは少し表情を変えて、カツトシを見る。
「じゃあ、誰ならよかったのよ」
「……俺だったんだから、仕方ないな」
答えになっていない。呆れてため息をつきながら、カツトシはまた仕事に戻る。
「調子乗ってんじゃねえぞジジイ!」
そんな怒声が響いて、タイラは顔を上げた。「えっ、俺のこと言ってる?」と目を丸くする。
「今度こそぶっ殺してやるからな」とまた声が響いた。
タイラは腹を抱えて笑って、勢いよくカウンターの上に立ち上がる。
「やってみろ!」
ちょっとカウンターに立たないでよ、とカツトシは悲鳴をあげた。タイラは気持ちよく笑いながら、グラスを掲げる。もう一度、「やってみろ」と言った。その場でブーイングが巻き起こる。
笑いながら、タイラは少しふらついた。近くにいたカツトシと都で、思わず支える。「酔った」と言ってタイラはまた腰を下ろした。
ため息をついて、「締まらないわねぇ」とカツトシが呟く。「どうしてシメる必要があるんだ?」となぜかタイラはひどく驚いたような顔をした。
それから、目を細める。全てを見てきたかのように、それでいて少年のようなあどけない顔で。
「まだまだ続くぞ」と。
Junk dog blues hibana @hibana
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