終章
猛烈な空腹感に胃を内側から突き刺され、痛みに近い感覚に耐えかねて目を覚ましたときには昼前だった。
ベッドの上で身体を起こし、妙な動きにくさを感じたときに初めて僕はダウンジャケットを着たままであることに気がついた。
もちろんその下は一昨日の夜に病院に向かったときの格好と何ら変わっていない。
全身が汗でべたべたする。
頭も痒い。
熱い湯船に浸かりたいとは思ったが、何回分かの食事を済ませないことにはどうにも腹の虫がおさまりそうになかった。
とにかく僕は行動を開始した。
蛇口を捻って浴槽に湯を張りつつ、何かにせきたてられるように小走りで僕は冷蔵庫に向かった。
部屋に戻ったのが何時だったのか僕にはさっぱり覚えがなかった。
タクシーの運転手に起こされて寝ぼけ眼で代金を払ってからの記憶が全くない。
おそらく半分意識を失いつつ日頃の感覚だけでベッドまで辿りつき、そこでついに全身の力が尽きたのだろう。
ただ、眠りに落ちる前にあの決断をしたことだけは明確に覚えていた。
その決断を下したことが引き金となって、何の頓着も無く、まさに泥のように深い眠りに身を委ねることができたのだ。
母さんに社長を辞めさせる。
母の身体を第一に考えるのが息子である僕の役割だと思った。
半ば常識的な判断ではあるが、それが僕の一世一代の決意だった。
もうこれ以上母に社長職を続けさせるのが無理だということは明白だった。
あの頑なな母を社長の座から引き摺り下ろすには僕が社長になるしかない。
そのために僕は大学を中退する。
そして、この部屋を引き払って実家に戻る。
深い眠りに引きずり込まれながら見つけた答えはこれだった。
何か作ろうかと考えたが冷蔵庫に何もないことを知って、僕は冷凍庫からパックを二つ取り出した。
一つは食べ残しのご飯で、残りはこれも食べ残しのカレーである。
今日のような非常事態のために僕は常にカレーとご飯を冷凍庫に保存している。
そのまま電子レンジに入れて五分後には僕はカレーライスを何の蓄えもない胃に流し込むことに成功していた。
カレーライスを食べると僕は必ず先生と出会った日のことを思い出す。
あの日から僕の学生生活は一変したように思う。
失望から絶望に変わりかけていた鉛色のキャンパスライフが急に色づき始め、万華鏡のように七色に輝き出したのだ。
先生に出会って憧れの職業を目の当たりにした。
自分が料理でストレスを解消できることも発見した。
大人の女性を好きになり、子供嫌いも解消された。
不法侵入から始まり盗聴、売春そして殺人と短期間でこんなに犯罪に関係することなどもう二度とないだろう。
そして、結の白く輝く裸身が目に焼き付いて未だに忘れられない。
たったの二ヶ月だが今までの人生でこんなに充実していた期間はなかった。
毎日何が起こるか分からなかったし、何も起こらない日などなかった。
終わりが来ることなど考えたくなかった。
まさに青春だった。
母のためなら仕方がないとは言え、もう二度とやってこない時間を自ら手放してしまうのは胸が押しつぶされる思いだった。
僕はカレーライスを頬張りながら不意に泣きたくなった。
食べ終わって一息ついたときに僕は初めて風呂のことを思い出した。
行ってみると浴槽から湯がこぼれんばかりになっていて、僕は慌てて蛇口を締めた。
服を脱いで浴槽の中に立つと見る見る湯が溢れていった。
今日ぐらいは、と僕は湯の中に思い切り身を沈めた。
流れていく湯の音は実に心地よかった。
熱めの湯の中で徐々に全身を伸ばしていくと、ため息が出るほど気分がゆったりとしていく。
風呂から上がり髪を乾かし服を身に付けると、僕は顔を叩いて気合を入れた。
胸の高鳴りがドアにかける手を少し躊躇させる。
僕は意を決して先生の部屋に向かった。
僕は先生に挨拶をしたらその足で朋子さんに結婚を申し込むつもりだった。
二人ともさぞかし驚くに違いない。
「大学を辞めて会社の社長になる僕と結婚してください」と言ったら朋子さんは腰を抜かすだろうか。
彼女は僕の言うことを一つとして信じてくれないだろう。
そして冗談でもはっきりと断るだろう。
万に一つもない、とまでは思っていないが、贔屓目に見ても朋子さんが今の僕と結婚してくれるとは考えにくい。
何となくだが僕は朋子さんに男として見られていない気がするのだ。
だからと言って、やけくそになっているわけでもなかった。
成功するにしろ、振られるにしろ、プロポーズすることでこれからの人生に弾みがつくと僕は思っていた。
万が一うまくいけばその嬉しさと責任感が、そして逆の結果になったとしても、その挫折感は僕の人生の分岐点において起爆剤となるだろうと計算したのだ。
発想が自虐的かもしれないが、少なくともこの節目のけじめはつけられると僕は思った。
先生は突然の僕の来訪を快く迎えてくれた。
執筆中かと危惧していたが、先生は「息詰まってたから丁度良かったよ」と言って、いつも通りの屈託のない爽やかな笑顔を見せてくれた。
この微笑が僕の日常となりつつあったのだ。
しかし、それも僕は自分の手で過去の思い出にしようとしている。
「何でもないんです」とこの場で笑って引き返せたらと強く思ったが、僕は前に進んだ。
自分でも分かるほど顔を強張らせながら、僕は先生の部屋に足を踏み入れた。
よく考えると先生の部屋に上がるのはこれが初めてだった。
聖域を侵すような罪悪感が一瞬胸を刺すが、一歩そこに足を踏み入れると、先生の爽やかさからは想像を絶するほどの部屋の中の乱雑さに、僕は全てを忘れて唖然としてしまった。
所狭しと本が積み上げられ、いたるところに紙くずが散乱し、隅という隅に埃が溜まっていた。
掃除をしようという気概を根底から失くさせるほどの散らかりようだった。
「部屋」というよりは「巣」だと僕は思った。
先生はいろんなものを押しのけて、テーブルの前に僕が座るスペースを作ってくれた。
物を少し動かすだけで灰色の埃が舞う。
僕は極力空気の流れを乱さないようにゆっくりと座った。
しかし、先生は頓着無く勢いよくテーブルの上の本を移動させ、僕の前に緑茶を用意してくれた。
透き通った淡い緑が先生に似つかわしい。
僕は先生に礼を言って埃が入る前に緑茶をいただき、乾いていた咽喉に潤いを与えた。
普段の生活で日本茶を飲むことなどほとんどない。
湯飲みを手にしたのはいつ以来だろうか。
久しぶりに飲む緑茶は僕の身体だけでなく心までも芯から温めてくれた。
昂ぶっていた神経が撫で付けられていくように穏やかな気持ちになれた。
「先生」
「はい」
「今日は大事な話があって、ここに来ました」
「だろうね。こんなことは初めてだから」
先生も事の重大さを認識して、いつになく真剣な顔をして僕を見てくれている。
その視線を正面に受け止めると僕は緑茶のおかげで落ち着いたはずの心がまた安物のおもちゃのようにせわしなく踊りだすのを感じた。
別れは告げたくなかった。
これからもこのマンションで先生と不思議な関係を続けていくことができれば毎日が楽しいことは間違いないのだ。
しかし、もう決めたことだった。
これ以上先に延ばすことはそのまま母の生死に直結する。
母のためなら日々の幸せを捨てることもやむをえない。
父だって喜んでくれるだろう。
父は亡くなるまで血の繋がっていない僕を跡取りにすると公言して憚ることがなかった。
父にとって僕はどこまでいっても他人と妻との間に生まれた子供なのだ。
それなのに父は自分が手塩にかけて育てた最愛の会社を僕に譲るつもりだった。
つまり父は僕を愛してくれていたのだ。
母はどれだけ父が勝手気ままに生きても僕を後継者にと言ってくれる父に感謝してやまなかったのだろう。
母が死ぬような思いまでして頑なに社長の座にこだわるのはそういうことなのだ。
僕は昨晩の眠りの淵でそのことに気がついたのだった。
「僕は大学を辞めてこのマンションから出て行きます」
僕は胸の詰まりを必死にこらえて僕の境遇を先生に包み隠さず説明した。
先生に僕の気持ちを分かってもらいたいという気持ちが空回りして、自分でも嫌になるほど話は要領を得なかった。
途中で喉が渇き緑茶をおかわりした時にはどこまで話したか分からなくなってしまい、また一から順を追って説明しなおした。
「なるほど」
僕の稚拙な説明を聞き終わって、つぶやくようにそう言うと、先生は二、三度頷いて黙り込んだ。
意外だった。
先生なら僕の決断を誉め新しい出発を爽やかに励ましてくれると僕は高をくくっていたのだ。
僕は先生がこれほど苦りきった渋面になるとは一分の想像もしていなかった。
この重苦しい雰囲気が何を意味しているのか僕には分からなかった。
「昨晩、朋子さんにプロポーズされたんだよ」
僕は驚いた。
先生の言葉にびっくりしたのではない。
その事実を知っても指一本震えることなく落ち着き払っている自分に目を見張ったのだ。
まるで幽体離脱をして後ろから座っている自分を眺めているような、自分の全てを知り尽くしている冷静さだった。
つまりは心のどこかで朋子さんは先生のことが好きなのだと諦め、朋子さんには先生こそふさわしいと悟っていたのだろう。
今度は僕が頷く番だった。
「お似合いですよ」
僕は精一杯の笑顔を見せた。
決して表情を作ったわけではない。
心から納得できた結果、二人を祝したいという気持ちが自然と顔に出たのだ。
しかし、先生は知人の葬儀で焼香をするような沈痛な面持ちで僕を見た。
「……お断りしたよ」
「そんな……」
先生ははにかみとも苦笑いともとれる薄笑いを見せて僕から目を切った。
僕は遠ざかる先生の視線を追いかけるように身を乗り出した。
「おかしいですよ、先生!先生も朋子さんのことが好きなんでしょ?」
「勝手に決めつけるなよ。俺は朋子さんのことは愛してないと前にも言ったじゃないか」
先生の覇気の無い答え方は言い訳めいて聞こえた。
いつにない先生の歯切れの悪さに僕は苛立ちを感じた。
「僕に気を遣うのはやめてください。朋子さんを幸せにできるのは先生しかいないんですよ」
気付いたときには僕は立ち上がっていた。
こめかみの辺りが脈を打っているのが分かる。
僕は本当に先生と朋子さんに幸せになって欲しいのだ。
りょう君にとってもそれが良いに決まっている。
先生は強い目で僕を見返した。
「俺は朋子さんを幸せにできへんのや」
関西弁?
「どうしてですか。朋子さんが先生を望んでいるんですよ」
「俺には……妻も子供もおるんや」
開いた口が塞がらないとは正にこのことだった。
完全に意表をつかれると人間は息をすることも困難になる。
先生は過去を何一つ僕に教えてくれたことはなかった。
僕は先生のことをあまりにも知らなさ過ぎていたことを痛感した。
一人でいきり立っている自分が恥ずかしかった。
僕は膝に力が入らずに腰砕けになってその場に座り込んでしまった。
僕の周囲の埃が一斉に舞い上がったが、そんなことはもう気にならなかった。
先生は何かが吹っ切れたような顔で全てを僕に打ち明けてくれた。
「俺は自分で言うのもおこがましいんやけど、いわゆるエリートやった」
一流の大学を出て、国内で指折りの関西に本拠を構える大企業に入り、仕事の成績も優秀で周りからも信頼が厚く上司からも未来を嘱望される。
先生はまさにそんなエリート中のエリートだったようだ。
異例のスピードで係長から課長補佐に昇進、やがて社内恋愛の末に結婚、翌年には長男が生まれるという誰もが羨む順調すぎる人生を送っていた。
しかし、先生はいつのころか毎日の生活に倦むようになっていた。
良い父、良い夫、そして良い会社人。
あるとき先生は自分自身を演じていることに気がついてしまった。
自分が周囲の期待によって作られたロボットのように感じ、本当の自分というものが他にあるように思い始めた。
あまりに遅い自我の芽生えだった。
間もなく先生にとっては奥さんや子供に対しても演じ続けている日々の暮らしが苦痛以外の何物でもなくなった。
いつしか先生は仕事にも家庭にも興味を失っていた。
「息が出来なくなってしもうたんや」
先生はある日突然原因不明の眩暈、頭痛、嘔吐を感じて動けなくなり病院に運ばれ入院した。
すぐに退院できたが、どうしても会社に行く気にはなれず、奥さんや子供の目からも自分を遠ざけ、部屋に閉じこもるようになってしまった。
口を開こうとしない夫に妻は苦悩し何かコミュニケーションの手段はないかと考えた。
そして家族同士で手紙を交換するようになった。
鉛筆と紙を手に入れた先生は急に目の前が開けたように感じた。
鉛筆が言いたいことを全て語ってくれる。
紙の上なら何も演じることなく本当の自分を表現できる。
底なしの湿地帯から突然風通しの良い空間に飛び出したような解き放たれた喜びがあった。
先生が作家になりたいと思うのは自然の成り行きだった。
会社に辞表を出した先生は水を得た魚のように次々と小説を書き上げ、社会に発信していった。
手応えがあった。
懸賞に応募すれば入選し、投稿すれば雑誌に取り上げられ、もっと書いてみないかと依頼まで来るようになった。
息が出来る。
先生は生まれて初めて生身の自分が他人に認められたという実感を味わった。
言い知れぬ充足感が身体を軽くする。
先生は生きている意味のようなものを感じ始めていた。
しかし、良いことばかりでは無かった。
今度は奥さんの様子がおかしくなったのだ。
出来上がる作品はどれも人間の性が主題になっていた。
外観ばかりを取り繕って生きてきた過去から脱却したいと願う気持ちがより深く人間の内面を見つめさせる。
先生は人間の内側は探れば探るほど性に突き当たった。
「人間、昼よりも夜のほうが野蛮なんだ。昼間着飾っているものから解放されるのは夜だからね。つまり夜の自分こそ本当の自分」
夜の人間を描くことが人間本来を表現することになる。
だから先生が描きたいものは自ずとエロスに向かっていく。
「しかし、俺が官能小説家になることを妻は理解してくれなかった。妻の気持ちもよく分かるんだ。未来を嘱望されたエリートサラリーマンと結婚したと思ったら、すぐにその夫は病院に担がれ、仕事に行かなくなり、献身的に支えた結果ようやく元気になったと思ったときには官能小説家になっていたんだから。愛があればとか打算的だなどときれいごとで妻を非難する気にはなれない。悪いのは周りを騙し続けた俺なんだ。こんなはずじゃない、一緒には暮らせない、と出て行こうとする妻を引きとめ、代わりに俺が家を出た。丁度その頃よくしてくれた出版社の人が、本社に転勤が決まったからお前も来ないか、いくつか仕事を回せるぞって言ってくれて関西から出てきてここに住み始めたんだ。こっちの方が大きな出版社がいくつもあって他の仕事にもありつきやすいしね」
官能小説にようやく生きる糧を見出した先生にとって、エロ作家と結婚したつもりはない、と半狂乱に叫ぶ奥さんと一つ屋根の下で暮らすことはもう無理になっていた。
しかし、今でも月に一度は家族で食事をする。
離婚もしていない。
子供は慕ってくるし、妻もその様子を微笑みながら眺めている。
「互いに嫌いになったわけではないんだ」と先生は言った。
「作家として売れれば、関西に帰ってもう一度家族三人でやり直したいと思ってるんだ。それが今の俺の夢」
先生の爽やかな笑顔の裏には誰も知らない苦悩があった。
誰にだって生きてきた分の苦労があるのだ。
それを微塵も見せない先生を僕は改めて尊敬の眼差しで見つめた。
「これからも俺の妻は彼女一人なんだ。朋子さんも最後は笑ってくれたよ」
僕は晴れ晴れとした気分で先生の部屋を辞した。
昼下がりの日差しは柔らかく眼下の街に降り注いでいた。
綿のような雲が空の高いところに漂っている。
じゃれつくような陽気が僕をくすぐる。
吹きぬける風に棘も痛みも無かった。
確実に冬は終わりに近づいていた。
僕はこの冬の間に何歩も大人に近づいた自覚があった。
今までは持てなかった自信が不思議と僕の身体に漲っている。
僕は足取り軽く坂道を下り病院の母の元に向かった。
成功の春を予感していた。
結局僕は朋子さんの部屋には行かなかった。
会いたい気持ちはあったがこらえたのだ。
お互いの失恋の傷をこれ以上深くはしたくなかった。
いつか会いたい。
必ず会いに来る。
朋子さんに、そしてりょう君に忘れられないうちに。
僕は何でもやってやるという気持ちになっていた。
病室に入ろうとすると中から花瓶と花を抱えた由紀が出てきてぶつかりそうになった。
「遅いよ、お兄ちゃん。どれだけ寝てきたの」
ぷいっと顔を背け、「どいて」と僕にわざとぶつかって由紀はトイレに向かった。
「これでやっと帰れるわ」と由紀はぶつぶつ文句を言いながら背中で怒りを表していた。
僕は由紀と交代で母の面倒を見る約束をしていたのをすっかり忘れていた。
由紀を怒らせると性質が悪い。
怒りを金で清算しようとするのだ。
社長になれば少しは小遣いが増えるのだろうか。
まさか妹のご機嫌代では経費で落ちないだろう。
母がベッドの上に身体を起こして何やら雑誌を読んでいた。
目が良いはずの母が眼鏡をかけている。
いつの間にか母は老眼鏡に頼る年齢になっていた。
僕が大人になればなるほど母は着実に老いていく。
少し前までは親が老化していくなど思ってもみなかった。
間に合って良かったと思った。
「遅くなったね、母さん」
母は顔を上げ眼鏡を外してにっこりと微笑み、ゆっくりと首を横に振った。
僕はベッドの脇に腰掛け母の手をとって「もう、心配ないよ」とつぶやいた。
母がもう片方の温かい手を僕の手の上に重ねて置いた。
久しぶりに感じた母の温もりだった。
サクラビルを出て 安東 亮 @andryo
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