成分表示

阿井上夫

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 妊娠してからというもの、もともと神経質だった妻がさらに粘着質になった。


 発端は雑誌記事である。

 出産情報の専門誌は結婚情報の専門誌と同様に、現実的な身も蓋もない記事の中に『このくらいは贅沢してもいいかも』『一生に一回のことだから』と、微妙に現実離れした提案を混ぜ込んでくる。

 その時の特集は『出産前や乳幼児期に気をつけたい食べ物』だった。

 私個人は『人間が現代社会で生活している以上、微量の化学物質の影響はどうしても避けられない』という考えである。

 便利な生活が捨てがたいという打算もあるが、多分に『なしで生活できるものならやってみろ』という理想主義への反感も混じっている。

 今日、天然自然の素材だけで生きようと思ったら、山奥で自給自足の生活を送るしかない。

 例えば、水道水はすべて浄水場で化学処理されている。

 従って、含有される化学物質はゼロではないし、市販の浄水器で、水道水に含まれる僅かな化学物質を完全にゼロにはできない。

 また、一般的にはそんな必要性もない。

 そもそも浄水器を設置しなければならないほどの高濃度で化学物質が含まれているはずがないのだ。

 しかし、一般社会には恐怖心をあおることが趣味としか思えない輩が、跳梁跋扈している。

『現代文明に対する盲信が、悲惨な事件を生んだことを忘れてはいけない』

『いま起きていないからと言って、絶対に起きないわけではない』

 原因が異なるものを一緒にしてみたり、可能性の低いことを過大評価することは、このような連中の常套手段である。

 妻は、出産情報誌の片隅に埋もれていたその手の『乳幼児専用の高純度濾過水』というものを、普通のミネラルウォーターの三倍はする値段にもかかわらず、しこたま買い込んで自宅に常備し始めた。

 さらに、乳児用のものは言うに及ばす、自分が経口摂取する食物についても、購入する前に成分表示を熟読するようになった。

 僅かでも添加物が含まれるようなものは一切受け付けない。

 野菜も無農薬と表記されているものしか購入しなくなった。

 確かに素材の味が濃いような気もするが、だからといって一般流通品よりも二倍の価格はどうかと思う。

 そんなことを正直に妻に言ったら激怒された。

「あなたはこれから生まれてくる我が子が大切ではないのか」

「僅かであっても化学物質の影響が出た場合、親としての責任をどう考えるのか」

「一生に一回しかない我が子の人生なのだから、最大限のことをするのが親の責務ではないのか」

 感情的になってそう捲し立てられると、なかなか反論するのは難しい。

『そこまで過保護にしないといけない生命ってどうなのよ』と思うのだが、もちろんそんなことを言っても喧嘩にしかならないので、さすがに黙っていた。


 *


 そうするうちに、妻の成分表示に対する執着は常軌を逸し始めた。

 そもそも、わずかでも添加物が含まれる製品は完全に購入対象から外されていたのだが、ある時、成分表示されている製品にも疑問を持った彼女は、実際に成分を分析することにした。

 もちろん本人ができることではないので、大学時代の理系の友人に依頼したわけだが、友人が片手間に、前提を深く考えずにもせずに弾きだした分析結果が、製品に添付されている成分表示とずれていたものだから、大変なことになった。

 妻は同じように強迫観念に取りつかれた妊婦が集まっているサイトで、その事実をぶちまける。

 それが少数であればよかったのだが、実際はかなり多数の妊婦が、食の安全性に疑問や不安を感じているところだったので、妻の投稿は一気に祭りを生み出す。

 激しい不買運動が発生し、それに対してメーカー側が

「成分表示はあくまでも平均値であって、個々の製品によっては偏りがある」

 という、至極当たり前の説明をしたところ、

「ということは、知らないうちに成分以上のものを摂取することがあるのか」

 と、挙げ足を取られる始末である。

 成分分析を行なって、表記との差を公表する例は後を絶たなかった。

 しかも、最初から添加物を含んでいると明記していた製品は対象とはならず、無添加を標榜していた製品が槍玉に挙げられるものだから、とうとうメーカー側も業を煮やして、むしろ微量の添加物を加えることに注力し始めた。

 需要と供給が崩れ、無添加のものはプレミア付で取引されるようになる。

 徐々にそれが家計を圧迫し始めたが、妻はそれでも末端価格が定価の十倍となる製品を探しては購入し続けた。

 この時期、妻は食物だけでなく、衣類や子供用玩具、絵本に至るまで、すべてのものについて成分表示を重視し始めた。

 絵本の成分表示というのもどうかと思うのだが、書店には実際に『娯楽性○パーセント、悲劇性○パーセント』という成分表示がなされた絵本が表れて、しかも好調な売れ行きを示した。

 有識者は「成分表示至上主義を助長するような行為は愧ずべきだ」と眉をひそめたものの、もはや一般世間の傾向を押しとどめることは難しい状況であり、すべてのものに成分表示が記される時代となった。


 *


 さて、そうこうするうちに、出産予定日となる。

 出産方法もケミカルレス、無添加に拘るのかと思っていたのだが、さすがに自宅出産の衛生面でのリスクや、母体にかかる過剰な負担は無視できなかったらしい。

 それでも水中出産が可能な施設を探し出して、そこで出産した。

 出産そのものには残念ながら立ち会えなかったものの、すっかりきれいに拭き清められて産着を着せられた我が子は、とても愛らしかった。

 妻が退院し、自宅での子育てが始まると、妻はすべての育児を自分の手でやりたがり、私には一切協力を求めなかった。

 普通、入浴ぐらいは男の仕事とされるはずなのだが、それすら無用とされた。

 まあ、プラスアルファの雑務を回避できると考えれば楽ではあったのだが、それにしても妻の『なんでも自分で』という態度は気がかりだった。

 しかし、子供はかわいいのも事実である。

 顔を見ているといろいろな面倒事を忘れることができた。

 そのため、しばらくの間は特に気にもしていなかったのだが、先日、そうもいかなくなってしまった。

 妻が無理をしすぎたために過労でダウンしたのだ。

 こうなると如何ともしがたい。

 意識を失って病院に担ぎ込まれた妻を見舞った後、自宅に戻って慣れない手つきでオムツを交換したり、哺乳瓶をひっぱり出してきて冷凍保存されていた母乳を与える。

 妻の用意周到さにある意味感動すら覚えた。

 そうこうするうちに入浴の時間となる。

 こんなふにゃふにゃなものを落とさずに綺麗に洗うのだから、神経を使う。

 ベビーバスにお湯を張り、温度を慎重に調整しつつ、服を脱がせる。

 我が子はご機嫌もよく笑っている。

 ほどよく温度を調節したお湯につけると、大きく口をあけて気持ちよさそうにしていた。

 思わず自分も笑みがこぼれる。

 その時、自宅の電話が鳴り始めた。

 さすがにこの状態では電話には出られない。

 まあ、そのうち鳴りやむだろうと思っていたのだが、一向に鳴りやまない。

 妻が入院中なので、なにか容体が急変したのではないかと気が気ではなかったが、それよりも今は目の前の我が子である。

 手荒にならない程度に洗い清めるため、背中を上にした。


 何か細かい文字が書いてある。


 おそらく妻がかけてきたであろう電話が鳴り続ける中、私は『我が子』の背中にある成分表示の見知らぬ名前を見つめ続けていた。


( 終り )

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