子供の描いた絵が凄いことになっているが、大丈夫か?

阿井上夫

子供の描いた絵が凄いことになっているが、大丈夫か?

 毎年、五月第二日曜日の「母の日」や六月第三日曜日の「父の日」が近づいてくると、大規模なショッピングセンターには「おかあさんの絵、おとうさんの絵」という企画コーナーができる。


 あなたが住む街でもそうではなかろうか?


 ほぼ日本国中がそうに違いないと私は睨んでいるのだが、それにしても本件について誰も疑問を抱かないのはなぜだろうか。

 日頃から「人間は皆平等だ」「弱い者の気持ちになって考えろ」と、鬼の首を取ったように叫ばずにはいられない日本人が、どうして母の日や父の日をいまだに容認しているのか、私は不思議でならない。

 日本で「母の日」が始まったのはそう昔ではない。

 昭和六年に『大日本連合婦人会』が結成された際、当時の皇后誕生日である三月六日を「母の日」としたのが、そもそもの始まりである。

 それが、第二次世界大戦後にアメリカにならって「五月の第二日曜日」に行われるようになった。

 父の日は「母の日のついで」のような位置付けで、同様に「六月の第三日曜日」というアメリカの習慣が基本になっている。


 つまり、いずれも歴史的な意味合いがあるものではない。


 だからこそ『親のいない子供が可哀想だ』という正論を吐きたがる、心優しい人物が大量に現れてもおかしくないのではと思うのだか、何故か現れない。

 ここだけ「それはそれ」と割り切るのはおかしいと思うのだが、見事に現れない。


 誰かの陰謀だろうか。


 今年も埼玉県越谷市にあるショッピングセンターでは、周辺の幼稚園児や小学生から『親の絵』を集めて家族層の集客に繋げるための催しが、一か月前から盛大に宣伝されていた。

 正直、私はこう思う。


 他の家の子供が描いた『自分の家族の絵』なんて、見てどうするのか。


 *


 とはいえ、私には今年五歳になる娘がいる。

 現在、越谷市の幼稚園の年長さんだが、以下、仮に名前を「A子」とする。

(本人は「実名にしろ」と五月蝿いが、後半で仮名にしなければならなかった理由が明らかになる)

 A子は、たいていの子供がそうであるように「絵を描く」のが大好きであり、彼女の絵は児童書に記述された「子供の絵の変化」に沿って進化してきた。

 まず、A子は二歳になる前ぐらいから「なぐり描き」をするようになった。

 クレパスを紙に叩きつけるように点を描いていたのが、次第に伸びて線となる。

 線の動きをコントロールできるようになると、大きな弧が現われて、それが小さな弧となり、渦巻きへと変化してゆく。


 これが第一段階。


 続いて、しばらくすると描いたものに「名前」をつけはじめるようになった。

 絵を指して「にゃんにゃん、ぶうぶう、まーまー」と嬉しそうに声をあげる姿は、今だに思い出しても微笑ましい。

 この「見立て」あるいは「名付け」と呼ばれる行動は、「あるものを別な形で表現する」という心の働きが芽ばえたことを示している。


 これが第二段階。


 三歳ぐらいになると、A子は「閉じた丸」が描けるようになった。

 丸というのは極めて重要で、A子はこれによって「目鼻をつければ顔、放射状の線がつけば太陽」となる素材を手に入れたのだ。

 丸が描けるようになると、まもなくその中に目・鼻・口を描いて「顔」を表現しはじめる。

 そして、その丸に直接、手と足をつけて「人」を表現しはじめる。

 世界中の子供の絵に見られ、欧米では「オタマジャクシ」、日本では「頭足人」(とうそくじん)と呼ばれる人物像。


 これが第三段階だ。


 何故、このように幼児の絵が進歩するのか、それがどのような意味を持つのか、実はよく分かっていない。

 ある考え方に「子どもの絵は、どう見えるかを描いているのではなく、何がどこにあるのかを描いたものだ」というものがある。

 閉じた丸によって「人間や犬、その他さまざまなもの」が表現されるようになり、それに点や線で目鼻のようなものが描かれるようになると、大人はそれを「顔」を表現したものと認識する。

 しかし、子供にとってはあくまでも「人間に目や鼻や口を加えたもの」なのだ。


 何が違うのか。


 A子が丸を「おかあさん」と呼んで、そこに三つの点を書き入れたとする。

 私はそれを「顔を描いたんだね」と認識するが、子供にとっては「おかあさんには目と鼻と口がある」という意味に過ぎない。

 A子にとっては「ある」ことが表現できればいいので、それが「目だから丸」である必要はないし、「手足だから線」である必要もない。

 ただ塗りつぶしただけの塊であっても、大きさが違っていたりバランスが狂っているものであっても、「ある」ことが表現されれば問題ではないのだ。


 そして、新たに「ある」ことに気づいたものは、順次加えられてゆく。


 丸に点が加わって顔が「あり」、それが立っているから足が「ある」。

 その間にある胴は、見えていても子供にとってはどうでもよい点なので描かれない。

 従って「頭足人」のような形となるのだ。


 また、この時期の子供の絵には他にも特徴がある。


 基本的に「ものを重ねて描く」ことができない。

 基本的に「人や建物は地面に対してまっすぐ」描く。


 この特徴が変化して「重なりによって奥行きを表現」したり、「曲げることで動きを表現」できるようになるのはだいぶ先のことになる。

 五歳を過ぎると輪郭線が現われ、今まで単独の部品として使われていた「丸」が、いくつかの連続した輪郭として使われるようになる。

 子どもは次第に「どう見えるか」を意識するようになり、「誰が何をしているところ」といった場面を描き始める。

 九歳を過ぎるころには「現実の見え方」に近づく。輪郭線で描くことが主流となり、ポーズを描き分け、遠近法による立体表現が見られるようになる。


 そして「絵を描かない子が増えてくる」のも、この時期の特徴だ。


 *


 A子は、直接持っても手が汚れない色鉛筆を使って「おかあさん」を自由に描く。

 彼女はまだ五歳だから、描くものは第三段階の「頭足人」だ。

「これがママでー」

 そこには、すこし歪んだ大きな丸の中に、ごしごしと何度か押し付けられた黒い点で目が表現され、弧を描く線で笑った口が表現されている。

「お出かけしていてー」

 手と足が丸から直接伸びる。

 物語性が少し加わったので、そろそろ次の段階への移行時期らしい。

「パパもいてー」

 おかあさんの丸よりもかなり小さい丸が、おかあさんの足元より下に描かれ、ワンタッチで点が二つ書かれる。

 手足はおざなりで、ただの棒にしか見えない。

 何だか軽視されているようで悲しくなるが、しかし子供の絵には基本的に口を出してはいけない。親の価値観の押し付けにしかならないからだ。

 それに、A子が本当に軽視してそうしたのかは定かではない。単に主人公であるおかあさんを強調したかっただけ、という可能性もある。

「そして、私がいてー」

 あ、おかあさんと同じぐらいの大きさの円だ。

 しかも前景。上のほうである。

「お友達もいてー」

 やはり、おかあさんと自分と友達は同じレベルで描かれる。

 まあ、日頃「仕事が忙しい」と言って面倒をみていないものだから、この辺は仕方がなかろう。

 こうやって小学校高学年になると「お父さん、汚い」と平気で言い出すようになるのだろうか。

「それで、けるべろーがいてー」

 紙の上のほうに丸が一つ描かれる。

 その中に点が九つ。

 手あるいは足と思われる棒が四本。

 しかも棒がなんだか太い。


(……!?)


 私はここで口を挟みたい衝動を、必死で抑え込む。

 いやいや、子供の絵に口を挟んではいけない。

 例えば「今の『けるべろー』って何かな?」と聞いたところで、

「えー、けるべろーはけるべろーだよー」

 と言われるに決まっているし、あまりしつこく口を出すと独創性を否定してしまう可能性がある。

 危ない、危ない。

「わーい、出来たー」

 無邪気に喜ぶ娘の姿に目を細めながら、私はこう考える。

(ま、テレビかゲームのキャラクターだろうから、いっか)


 *


 平成二十七年五月十日は第二日曜日なので「母の日」である。

 共働きの妻を家に残して、私と娘は母の日の準備をするためにショッピングセンターへと向かった。

 さすがに日曜日、しかも母の日である。

 店舗の中は似たような「お父さんと子供だけのペアあるいはトリオ」で一杯だった。

 総菜コーナーには『鶏の丸焼き』まで置いてあって、クリスマスと間違えていないかと目を疑った。しかも、そこそこ売れているようなので、重ねて驚く。


 やはり、日頃の感謝を示すのであれば自作は外せまい。


 学生時代にレストランの厨房でバイトしていた経験から、一応それなりのものは作ることができるので、私は惣菜コーナーを華麗にスルーする。

 必要な食材を買い揃えてレジへ。それなりの量になった。

「男の料理はコスト度外視だから嫌なんだけどねー」

 と、難色を示しつつも喜びを隠せない妻の顔が思い浮かぶ。

 A子を連れて店内を一巡りしてから帰ろうと考えていたところ、

「あ、Bちゃんだー」

 と娘が叫んだ。

 見ると、同じ年長組の友達が、やはりパパ連れで立っていた。

「Bちゃんもお買いものー?」

「そー、で、終わったのー」

「もう絵見たー」

「まだー」

「一緒に見にいこー」

「いいよー」

 親を全く無視して約束する二人を見ながら、初顔合わせの男二人は困惑した顔を見合わせて会釈した。

 幼稚園関係の男親と顔をあわせるのは、なんとなくやりづらいものである。


 ここで、ちょっと補足が必要なのだが、三週間前に同じように買い物に来た時に、娘が描いた「おかあさんの絵」は、店舗担当者に無事手渡されていた。

 今日はそれが掲示されているのを確認して、ついでにデジカメで撮影するつもりであった。(妻は、ここだけは後で一人で見に来ると言っていた)


 昔は何もなかったところに忽然と姿を現したショッピングセンターは、棟が二つに分かれていて、それを繋ぐ通路が設置されている。

 その通路に「おかあさんの絵」が掲示されているようなので、私たち四人はなんとなく連れ立って歩いて行った。

 小学校一年生二人組は、しっかりと手を繋いでいる。

 男二人は、なんとなくつかず離れずな微妙なラインを堅持しながら歩く。

 着いた時には少々気疲れしていたが――


 そこに掲示されていた「おかあさんの絵」の迫力は、圧倒的であった。


 天井すれすれのところから床ぎりぎりのところまで、A四サイズの「おかあさんの絵」がぎっしりと貼られている。

 一体何枚あるのか分からない。

 こんなに幼稚園児や小学生が近隣にいるのかと不思議に思うくらい、膨大な数がある。自分の子供の作品を捜すだけでも大変だ。


 ところが、娘二人は即座に自分の絵を見つけたらしい。


 指をさしてくれたので、そっちを見てみると確かにそこにあった。

 天井から下に三番目。

 目を凝らさないと何が描いてあるのかも分からない位置だ。

 これでは後で来る妻は捜すのが大変だろう。

 なるべく全体との位置関係が分かりやすいように、苦労して写真に収める。

 なかなか構図が決まらなくて四苦八苦しているところに、A子と友達の会話が聞こえてくる。

「A子ちゃん、けるべろーなんだー」

「そうだよー」

「すごいなあ、私なんかみのたうろーだよー」

「ああ、なんだかねー」

「もこもこで可愛いいんだけどねー」


 思わず手が止まる。


「あの、Bちゃん。君の絵はどこにあるの?」

「あー、あそこー」

 Bちゃんは一所懸命に指を延ばす。

 私はその先を眺めてみるが、どうやら天井すれすれの一枚らしい。老眼気味の目では何がなんだか分からない。

 デジタルカメラで倍率を上げて撮影してみると、そこには両親と女の子らしき三人組の「頭足人」に混じって――


 なにやら巨大な毛玉が描かれていた。


 私は慌てて周囲の絵を細かく見てみる。

 だいたいは両親と子供の三人から四人が描かれているが、ところどころにおかしな絵が混じっている。


 大きな毛玉のようなもの。

 丸の中に九つの点が描かれて、手足が太いもの。

 他にも、なんだかぐにゃぐにゃとした紐のようなものが大量に丸からはみ出したものもある。


 それが、ざっと見て、半分ぐらいの絵に描かれていた。


 *


 以上の出来事について、私はまだ妻や子供と話をしていない。

 どうしても気になって仕方がないが、自分である程度調べてからにする。

 ただ、その一方で「どうしても誰かに話しておきたくて」しかたがなくなり、こうやって文字に残した。


 これを読んだ方は同じように確認して頂きたい。


 母の日は過ぎてしまったので、次は父の日だろうか。

 ショッピングセンターで「子供が描いた絵」を眺めて頂ければ、凄いことになっているのが分かるはずだ。

 私は「けるべろー」や「みのたうろー」について調べてみたが、最近の小学生の流行にはそんなキャラクターはいない。

 ヒットするのは「ケルべロス」か「ミノタウロス」ぐらいだ。

 ケルベロスは頭が三つある冥界の番犬で、眼と口だけ数えれば九つになるし、犬だから手足は全体とのバランスで太いだろう。

 ミノタウロスは牛頭人身の怪物である。もこもこかどうかは私には分からない。


 こんなものが見えている訳がない。しかも幼稚園児や小学生の半分近くに。


 それに、「ぐにゃぐにゃとした紐のようなものが大量に丸からはみ出したもの」に至っては大問題である。

 それに該当するのはメデューサぐらいだ。

 娘に言わせれば「めじゅーさん」だろうか。

(子供が石になった事件なんて、最近あったかな――)

 と、考えたところで、

(いや、ちょっと待て、それは現実的ではない)

 と、反省する。私は少々混乱しているようだ。

 ともかく、調べてからにしようとパソコンを立ち上げている横で、娘は絵を描いている。

「これがパパでー」

 大きな丸の中に、ごしごしと何度か押し付けられた黒い点で目が表現され、弧を描く線で笑った口が表現されている。

 今度は「おとうさんの絵」に挑戦しているらしい。

「ママもいてー」

 私の隣に同じくらいの丸が描かれる。

「それで、けるべろーがいてー」

 紙全体に丸が一つ描かれる。

 我々はその内側に入っている。


 おい、待て。

 五歳の子供は「ものを重ねて描く」ことができないはずではなかったか?


 何やら獣臭い臭いと共に、地の底から響くような、

「お前、気が付いてしまったのだな」

 という声がして、世界が暗転する。


 ああ、だから「子供の描いた絵」と――

(以下、作者消息不明につき未完)

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