ここで「ある組織」が登場する。

 与えられた任務の性格から、活動していた当時も世間にはその存在を知られておらず、今ではすっかり歴史の闇に埋もれてしまった、名も無き者たちの組織――


 その名を『黒脛巾組くろはばきぐみ』という。


 伊達政宗公が創設したと言われている、いわゆる忍者集団だ。組織に属する者のあかしとして、黒装束の時には全員が黒革のすね当てを付けていたことから、この名で呼ばれていた。

 江戸時代中期の伊達家に関する史料である、仙台藩士の半田道時が遺した『伊達秘鑑』と、著者不明の『老人伝聞記』という二つの書物にしかその名が登場しないため、今日では「架空の組織ではないか」と疑われている。しかし、新井白石の『藩翰譜はんかんふ』に「小田原征伐の際、伊達政宗が豊臣秀吉の動向を探索するために忍びを潜入させた」という記述があることから、全くの絵空事とも言い難い。

 それに、仙台藩となる以前の伊達家は、長い間その本拠地を現在の山形県米沢市付近においていた。そして、その目と鼻の先には、修験道で有名な出羽三山と蔵王連峰がある。伊達家と修験者とは密接な関係にあったと言われているから、伊達家が彼らを通じて諜報活動や外交交渉を行っていたとしても、別に不思議な話ではない。

 黒脛巾組の創設について、伊達秘鑑には「伊達政宗公が家臣に命じて五十人を選抜させて、彼らを黒脛巾組として任命した」という記載が残っている。それによると、政宗は黒脛巾組配下の者に山伏や行者などの変装をさせ、諸国への潜入を命じていたらしい。

 また、老人伝聞記には「農民出身の者であっても足軽などの下級武士扱いとして取り立てられた」という記述がある。藩内の特殊な技能の持ち主を、身分を問わず登用することがあったのだろう。彼らの任務には、探索以外に「兵糧や武器の運搬など」があったというから、舟の扱いが巧みな者もその配下には含まれていた可能性がある。

 いずれにしても、現代においてはその存在の虚実すら定かではない。


 *


 江戸八百八町が闇に沈む寸前の、逢魔が時。

 彼は黒装束に身を包み、黒革の脛当てを付けた。

 今回はおおやけの任務ではなかったから、厳密に言うとこれは越権行為にあたる。しかし、父親に「事の次第」を話したところ、無言で脛当てを手渡された。そして、確かにこれを身に着けたほうが身も心も引き締まるので、具合が良い。長年の修行の賜物であろう。

 彼は、一人で猪牙舟に乗り込み、櫓を操ると江戸の海を静かに航行した。

 しばらくすると、前方に大川河口付近にある目的地――佃島が見えてきた。彼は、その沖合百メートル付近に猪牙舟を停泊し、島の家々から漏れる淡い灯火を眺めながら、準備を始めた。

 彼は、張力が約四十五キロの強弓ごうきゅう、しかも湿気による型崩れを防ぐためにとうを全体に巻き付ける『重籐しげとう』にこしらえ、さらに上からうるし塗りまで施されたものを、油紙で包んだ弓袋から取り出した。

 現代の男子高校生が使用する弓は張力十八キロ程度が主流であるから、その実に二.五倍になる。俗に『三人張り』と呼ばれるその弓に、彼は舟底に据え付けられた弓張り台を使って弦を張った。この舟は普段父親が使っているもので、目立たないように隠されているが、それ専用の特殊装備を備えていた。

 ところで、平安時代の武将で『保元物語』に名前が出てくる源為朝は、『五人張り』の弓を使ったと言われている。これは、弓に弦を張るために五人が力をあわせなければいけなかった、という意味だ。こうなると、一説には「六十キロを超えていたのではないか」と言われているが、実際にどれだけ重かったのか見当もつかない。

 彼は、身幅の厚い強弓を傍らに置くと、左手に親指とその根元を覆う鹿革の手袋を、右手に小指を除いた四本の指を覆う鹿革の手袋を付けた。弓を引く時に使われる、手を保護するための手袋――『ゆがけ』である。

 それが終わると、彼は膝元に置いてあった信玄袋から遠眼鏡を取り出した。

 佃島にある、とある屋敷の様子を探る。

 遠眼鏡によって丸く切り取られた世界に、ふいに目的の男の顔が現れた。話に聞いた通り、蓬髪ほうはつに赤ら顔、額の真ん中に大きなあざがあった。

 間違いない。

「先祖が、他の皆と一緒に最初に佃島にやって来た」という過去の事実だけで、小さいながらも集団の頭目に収まった、じつのない男である。あの男が配下の者を焚き付けたために、あの日の悲劇は起きた。そして、あの男は卑劣にも配下の者に堅く口止めをして、悲劇を闇に葬り去った。

 男は障子を開け放して、茶の間の真ん中に座っていた。しかも、ほぼ全身が見えていた。ちょうどよかった。もし、居所が分からなかったり、動いて位置が定まらなかったりした場合は、同じことを幾晩も続けなければならないところだった。

 酒でも飲んでいるのか、男の顔は日焼け以上に赤くなっていた。しかし、漁で明日の朝も早いだろうから、そろそろ寝る頃合いだろう。

 行燈の灯火は想像以上に暗いものなので、普通ならはこの距離で人相は判別できない。しかし、彼は遠眼鏡と弓の修行でつちかった視力で、その男を捉えていた。


 *


 矢を遠くに飛ばすだけならば、和弓でも三百メートルくらいは可能である。

 最近はあまり見られなくなったが、昔は矢の飛んだ距離を競う「射流し」というものが行われており、そこに残されている最高記録は、一九三八年に矢師の曾根正康氏が出した三八五メートル強である。武士の場合、恐らくはさらに遠くまで飛ばせたであろう。

 ただし、遠くに飛ばすためには重さの軽い矢を用いることになるので、中った時の威力が落ちる。威力を優先して、戦闘に使用する重い征矢そやを使うと、さすがにそこまでは飛ばなくなる。

 それに狙いの問題があった。

 現在の弓道には「遠的」という正式種目があるが、これは六十メートル先にある直径一メートルの的を狙うものである。

 江戸時代に京都の蓮華王院本堂、通称『三十三間堂』の軒下で行われていた「通し矢」という競技の場合、全長百二十メートル、幅二メートル強、軒の高さ五メートルほどの廊下で、建物に当てず、軒から外に出すことなく矢を飛ばした数を競っていた。

 従って、和弓はそのぐらいのことが可能な精度を持っていると考えてよい。

 しかしながら、狙うものが肉眼で見えなければお話にならないから、ここでは百メートルを限界としておいた。


 *


 彼は膝元の信玄袋に遠眼鏡を大事にしまった。

 それから、弓張り台の隣に据え付けられていた矢筒から、三本の矢を取り出した。弓に負けず劣らず重厚な拵えの矢で、羽根には大鷲の尾、しかも一番外側になる石打いしうちが用いられていた。

(あの男には勿体ない矢だが、やむをえまい)

 彼は弓に一の矢をつがえる。

 次に、卵を握るように、掌全体で柔らかく優しく弓を包み込むと、身体の左斜め前に構えた。

 日置流雪荷派の弓構え。

 加えて、伝書に書いてあった通りに舟底に腰を落とした姿勢。

 京都の三十三間堂の軒下を通すために編み出された堂射前の体勢に、先祖が編み出した舟の上での行射心得を加味した、彼の一族に独自の射法である。

 大きく息を吐く。

 そして、吸う息にあわせて腕だけでなく背中も使って、弦を身体全体の大きな力で引く。

 その時に、両腕を伸ばし切ってはいけない。

 肘を軽く曲げるような心持ちで、頭の中に円を思い浮かべながら、引く。

 掌に受ける力が強くなったり弱くなったりしないように、始めから終わりまで同じ力をかけて、引く。

 強弓ゆえ腕は途中ぶるぶると震えるが、口元に矢が納まり、弓の引きが矢線に沿った伸びへと変わるに従い、納まってゆく。

 そして、充分に引き切った頂きのところで、鋭く吐く息とともに手の中で弓を返す。

 掌に力が入りすぎていると、腕が強ばって動きが固くなってしまい、ここで呆けた動きになる。

 弓の世界では『下の下』の有様であり、みっともないことこの上ない。

 それゆえ、技の見せどころでもある。

 普段であれば、今までかかっていた力が開放されるので、腕は自然に前後に伸び、柔らかく握った掌の中で弓は鋭く返る。

 ところがその時、彼は矢を放つ瞬間に左の掌をきつく締め、右の肘を締めた。

 弓は左掌の中で返らず、右腕は弦を引いた形のまま親指だけが弾かれる。

 戦場で行われた速射重視の「打ち切り」である。

 一方、放たれた一の矢は凄まじい勢いで、しかし緩やかな放物線を描きながら、闇を切り裂いて飛んでゆく。

 その航跡を追うことなく、彼は二の矢をつがえた。

 今度は即座に弓を引き分けると、右の掌が右の肩まで届くか届かぬかのうちに、やはり左の掌をきつく締め、右の肘を締めながら放つ。

 打ち切りの姿勢から、二の矢は一の矢の後を追って飛び立った。

 そして彼は三の矢を取ると、これもまた速やかに弓を引き分る。

 ただ、最後の矢を放つ時、彼は左の掌を柔らかく保ち、右の腕から無用の力を抜いた。

 腕は自然に前後に伸び、柔らかく握った掌の中で弓は鋭く返る。

 それとともに、三の矢は先の二本よりも鋭さを増して飛んだ。


 これを伊達藩黒脛巾組弓隊船上弓術奥義『飛中貫』という。


 一の矢は無論必殺のものではあるが、射手の体調や風の様子、波の動きなどを読むための「試し」の意味も含んでいるから、矢を放つまでには慎重を期す。ただし、速射を要するために打ち切りである。

 二の矢には一の矢で把握した状況を反映させ、中てることを目的とする。しかし、一の矢による標的の動揺も加味せねばならぬし、三の矢もあるので打ち切る必要がある。最も繊細な技を要するが、それゆえ無造作に見えるほどの思い切りも必要となる。

 そして、三の矢は二の矢で動きを止めた相手の息の根を止めるためのものだ。矢に貫通力を加えるためにも弓返りが必須であったから、以降の速射は出来ない。


 三本の矢は、百メートル離れた標的に向かって同時に空中を飛んだ。

 ただ、一の矢よりも二の矢、二の矢よりも三の矢のほうが僅かに速いので、間隔は僅かに縮まる。

 そして、まず一の矢が漁師の屋敷の窓から中へ飛び込むと、茶の間にあぐらをかいて座っていた男の身体を、左側から捉えた。

 矢の勢いで、男はあぐらをかいた姿勢のまま横に吹き飛ぶ。

 身体が伸びきったところに二の矢が襲い掛かり、男を奥の壁に突き刺す。

 そこに三の矢が現れて、男の頭蓋骨を突き破って柱に頭を縫い付けた。

 男の首が抜けて伸び、身体がそこからだらりとぶら下がる。


 無論、瞬時に絶命している。


 漁師の屋敷が叫び声に包まれていくのを遠方から見届けて、彼は苦笑した。

(すまねえ、約束を破っちまった)

 そして、彼は猪牙舟を漕いで江戸の海に姿を消した。舟がく航跡が残り、それも次第に掻き消されてゆき――

 

 最後に、静寂だけが江戸の昏い海に残された。


( 終り )

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大江戸暴漕族 壱 佃島始末 阿井上夫 @Aiueo

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