開かずの横断歩道

阿井上夫

開かずの横断歩道

「開かずの踏切」という言葉がある。

 私はてっきり、一度降りるとなかなか上がらない踏切に苛立った近隣住民が、自然にそういう名前で呼び始めた結果だと思っていたのだが、調べてみると国土交通省による正式な「開かずの踏切」の定義があった。

 それによれば「遮断されている時間が一時間あたり四十分以上となる踏切」ということである。個人的には、朝の通勤時間帯に十五分も遮断されたら立派な「開かずの踏切」だと思うし、むしろ、四十分も遮断し続けることのほうが大変だろう。

 それに、線路の高架化などの改善が進んでいる。今や「開かずの踏切」は殆ど実在しないのではないかと思い、調べてみてさらに驚いた。

 平成十九年時点で日本国内に約六百箇所も実在しており、その半数が東京都内だという。東京都民はそんなに気が長いのだろうか?

 さらに、昔の東海道線には一回の遮断時間が一時間近い豪気な踏切が実在したという。こうなるともう迂回したほうが早いだろうから、そこに踏切を作る意味が全然分からない。


 *


 昼休み時間に彼が行きつけの定食屋に行くと、店は激しく混んでいた。

 これは極めて珍しいことである。なぜならその定食屋は、いわくつきの地域にあるからだ。

 まず、その地域は二つの市の境界線上にあり、昔から帰属を巡って双方の政治的な駆け引きが続いていた。高度成長期に川を埋め立てたところは、無番地で行政区の境目すらはっきりしていないと聞く。

 また、境界線がはっきりするまでは、いずれの行政も必要最小限の整備しか行おうとしないものだから、サービスが行き届かずに街全体がなんとなく荒廃していた。

 加えて、時折り浮浪者の行き倒れが発生しており治安の面でも非常に評判が悪い。そのため、大通りはあるが普段から人通りが少なく、その大通りに面した定食屋も古くて小さくて汚かった。

 それにもかかわらず、普段はこの付近に近づきもしない女性客で入口に長蛇の列ができていたのである。彼は衝撃を受けつつも、大人しく長蛇の列に並んだ。

 大人しく待っている最中に、前の女性客二人の話をそれとなく聞いて、彼はやっとこのお祭り騒ぎの原因を知った。昨日発売された雑誌で、この店が取り上げられたらしい。昔からの馴染みにとっては実に迷惑千万な話である。

 行列の扱いに慣れていないアルバイトの男子店員は、グループ単位で座わりたいと言う女性客の我儘に逆らうことが出来ず、席が一つ二つ空いていてもそのままにしているため、非常に回転が悪い。

 さんざん待たされてやっと座ることができたところで、彼は即座に好物の豚しょうが焼き定食を注文した。すると今度は、いつもなら五分もかからない定食がなかなか出てこない。

 手持ち無沙汰で店内を見回していると、豚しょうが焼き定食は次から次へと運ばれていった。それで彼は気がついた。殺到した彼女たちのお目当ては、豚しょうが焼き定食なのだ。

「これが幻のしょうが焼きかあ!」

 という歓声が店のあちこちから聞こえてきたが、いつもなら客のほうが幻だ。午後に大切な会議があるため、景気づけにやってきた結果がこれである。

 やっと出てきた定食も心なしかいつもより荒れていたが、それを気にしている暇もなくかきこむと、彼は店を飛び出した。

 しかし、食後に大急ぎで駆け出したものだから、次第に彼の脇腹が痛み出す。なんとか耐えていたものの、とうとう途中の街角で我慢できなくなり、しゃがみこんだ。脇腹は脈打つように痛い。

 気をまぎらわせるためにあたりを見回すと、家と家の隙間が狭いながらも路地となっており、その向こう側に歩行者用信号が見えた。

「ち、ちょうど、こ、この位置、に立ち、止ら、ないと、あ、あの信号が、見え、ない、んだ」

 今までその存在に気がつかなかったが、あの位置の横断歩道であれば会社への近道に間違いない。頭の中の地図と照らし合わせてそう判断すると、彼は喘ぎながら身体を横にして狭い路地に入っていった。


 薄暗い路地の向こう側で、歩行者用の信号が赤く警告するように輝く。

 その警告に従って周囲をよく観察すべきだったのだが、彼は大いに焦っていた。

 横断歩道の端につくやいなや、目の前にある押しボタンを反射的に押した。

 深く考えての行動ではない。そのほうが早く青に変わるような気がしたからだ。

 彼が下を向いて激しく息をしていると、いつのまにか信号は青に変わっていた。

 横断歩道の向こうを誰かが走り去ったような気もするが、定かではない。

 彼は足を踏み出す。しかし、信号が青に変わってから彼が気づくまでに間があったらしい。

 途端に信号が青の点滅に変わったので、彼は泳ぐように横断歩道を渡る。

 ちょうど彼が中央分離帯に到達したところで、信号は青から赤に変わる。

 彼はそこで、甲板に叩きつけられた鮪のように激しく喘ぐ。

 その一方で、次に信号が変わったら駆け出そうと身構えた。


 しかし、信号は変わらない。


 普通ならば二回は変わってもおかしくない時間が経過したが、相変わらず赤。待つ間に息が納まり、脇腹の痛みも引いてきたので、彼には周囲を見回す余裕が出てきた。

 彼がいる場所は、片側が二車線ずつの道路がS字のカーブになっているところの、丁度中央部分にあたる。いずれの車線も、車が制限速度をはるかに超えて行きかっていた。

 横断歩道は両方とも狭い路地に接続されており、先が見通せない。要するに殆ど人通りがない。なるほど、信号がなかなか変わらないのも頷ける。彼は少し落ち着いた。


 だが、一向に信号は変わらない。


 既に十分は待った。会議の時間に間に合うかどうかの瀬戸際だか、変わらないものは変わらない。彼は再び焦る。

 車の途切れたところで信号を無視して横断してしまおうと身構えるが、見通しの悪いS字カーブを高速で走りすぎる車が相手である。見切ることが出来ない。

 とうとう、会議に間に合わないことを覚悟した彼は、携帯電話を取り出した。せめて、遅れることを連絡しようと考えたのだが、液晶画面を見て驚愕した。


「圏外」


 ビルの谷間で電波状態が悪いのだ。周囲のビルを見ると、西日が激しいせいで厚いカーテンをしているオフィスか、さもなければ空き部屋しかない。

 呆然と佇む彼の目に遥かなる向こう側の信号が見え、その隣にある表示板の文字がやっと脳に届いた。


「押しボタン式」


 腰が砕ける。

「それじゃあ、いつまで待っても変わるはずがないよ」

 と、彼は中央分離帯を見回して押しボタンを探した。しかし、どうしても見つからない。ないのがおかしいにもかかわらず、ない。そこで彼は思い出した。

「二つの市の境界線上にあるため、行政サービスが行き届かない」

 そう、この中央分離帯もちょうど行政区分の境目にあるに違いない。いずれの自治体からも見放された離島のようなものだ。

「実際に、昔は川の中州だったのかもしれないな」

 埋め立て後の無番地であれば、この惨状も理解できる。この時点で、彼にはまだ心の余裕があった。

「最悪でも夜は車が途絶えるはずだから、最悪でもその時には脱出できるはず。脱出したら行政にしっかりと苦情を申し立てよう」

 と考えつつ、彼は横断歩道から中央分離帯の奥のほうを見る。それこそサービスが行き届かないために密林のように木々が密集しているが、その切れ目の向こう側に青いビニールシートが見えた。


 嫌な予感がする。

 自分史上最高の嫌な予感だ。


 よろよろと青いビニールシートのあるところに近づくと、誰かがここに住んでいたらしい生活の痕跡があった。焚火と、焦げ目だらけのいびつな鍋の中に残る得体の知れない食べ物である。

 それは未だに湯気を上げており、今しがたまで誰かがここにいて、青信号を見た途端に大慌てで横断歩道を渡っていったかのような、そんな風情を漂わせている。

「いやいや、ちょっと待て、諦めるのはまだ早い」

 誰かがここにいて逃亡したのならば、この中央分離帯の惨状がすぐに行政が知るところとなるはずだ。そこまで考えて、彼はまたもや思い出した。

「ときおり浮浪者の行き倒れが発生する」

 激しい興奮と激しい運動は、心臓に悪い。狭い世界に閉じ込められた不摂生な身体であればなおさらだ。


 彼は、世界が崩れ去る音を聞いたような気がした。


( 終り )

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