番外編「漁火さんへ」
「漁火さんへ」
貴女を初めて見た日から、お慕い申しておりました。
そう言ったとき俺は、彼女の顔が見られなかった。
ここは名を古都街といい、妖怪たちの住む街である。そしてそこに住む俺も例外なく妖怪である。
種族を言えば皆驚いて後ずさる。そんな妖怪である。いや、今は俺の種族の話はどうでもいい。
自分でいうのもなんだが俺は根からの仕事人間で。いや逆に、仕事以外出来ない男であった。
マメで真面目な性格も相まって、罪人の刑を読み上げる職についてしまったため休みなく生きている。
罪人の刑は軽い重い様々だ。それを感情なく読み上げる事を仕事にしている。
つい最近だと飲み仲間であった蝶々が阿呆な事をしでかしたため流刑を言い渡した。そこに感情などない。あの男はこれから500年、1人で静かに寂しく生きなければならないらしい。
寂しい、とはなんだろうか。また違う飲み仲間の鬼に聞いてみた。奴は医者だからなんでも知っている。
「そりゃあお前さん、心にぽっかり穴が空いたときのことを、寂しいというんだよ。」
奴はそういうといつになく真面目な顔で言ったあと、顔が真っ赤になるまで飲んで、嫁に迎えに来てもらっていた。この前は金髪の女性だったが、今日は薄ら紅の髪の女性だった。
「お前さんが寂しいって思ったら、今度祝い酒でも奢ってやるよ。」
そんな事を言いながら奴は四番通りの方へ消えていった。
真面目な仕事人間の俺にも休みというものは存在する。
この街には「恩赦の週」という、刑をくらった妖怪や普段は髪の毛1本入れない人間どもが街に来ることを許される、特別な週がある。
許される週なのだからもちろん罪罰所も休みで、俺は此岸波止場の近くで1人釣りをしていた。
釣りをしていた、というのは間違いである。ある女性を待っていた。もちろん釣りはしている状態である。
彼女は毎年恩赦の週の最終日、この波止場にやってくる。初めてあった日のことを、今も俺は忘れない。俺と赤黒い髪とは真反対の美しい朱色の髪に、この街では中々見ない翠の瞳をした女性である。
初めてあった日、彼女は釣りをする俺の横に来て「釣れておりますか」と尋ねた。
当時俺には女性の知り合いはいなかったため、飛び上がって驚いたことを覚えている。
彼女はげらげら笑って「そんなに驚くことですか」と腹を抱えて言った。
彼女の笑い声で、魚は全て逃げてしまった。
それから毎年恩赦の週になると、俺は抜け殻のようにこの波止場に来ては釣りをするふりをしている。
人間たちを載せた船が波止場に着く前に、彼女を見つけるために。
2度目に彼女を見た時、俺は心の中で「漁火さん」と呼ぶことに決めた。彼女の赤い髪が、船の上に揺らぐ漁火と似ていたから。
初めて会った時、彼女は名前を教えてくれなかった。俺も聞こうとしなかった。実は俺には名前がない。名前で呼ばれることがない俺は、人に名を聞く習慣がなかった。それで勝手に名前をつけて、心の中でそう呼んでいる。
そういえば妖怪として生を受けてからというもの、仕事以外のなにかを覚えようともしなかった。
最近の俺は、まるで俺ではないようだ。
「釣れておりますか。」
3度目に来たときも彼女は同じように俺に声をかけた。真白の装束の裾には大小の花々が咲っていた。
「いえ、釣れませぬ。」
短い会話と返答と、それから長い沈黙。
それにしても、なぜ彼女は俺の所に来るのだろうか。なにか縁あってのことならば、覚えていなくて申し訳ないと思った。
「あなたは俺の縁者ですか。」
ふと、沈黙を破り聞いてしまった。
彼女はまたゲラゲラ笑ったあと、「時間ですので。」と言って帰った。魚は逃げてしまった。
4度目の恩赦の週の前夜、俺はふとあの鬼に「寂しいという感情が分かった気がする。」と言った。
鬼は目を点にして俺を見た後、女将に「この店で1番高い酒を頼む。」と言った。約束は本当だったらしい。
「で?仕事しかしないお前さんに寂しい思いをさせたのはどこのどいつだい?」
と鬼が聞いたので、俺は漁火さんとの3度の邂逅についてつぶさに話した。
初めて会った日のこと、漁火さんと呼んでいること、縁ある方かと尋ねたら笑われたこと、そして。
次の恩赦の週に、想いを告げるつもりでいること。
鬼は最初こそ赤ら顔でにたにた笑っていたが、途中から真剣な顔つきで聞いていた。
俺が話しおわると「そうかい。」と言って奢りの酒を瓶ごと俺に寄越した。
「本当に、本当に寂しくなったら飲みない。」
そう言って鬼は灰色の髪の男に引きずられて酒場を後にした。
ここで話は冒頭に戻る。俺は今彼女に思いを告げたばかりだ。
「貴女の美しい朱色の髪から、漁火さんなどとあだ名をつけて、俺は慕っておりました。」
「恩赦の週に来る方故に、なかなか言えずにおりましたが、どうか俺と夫婦になってくださいませんか。」
我ながらよく喋った方だと思う。脂汗が止まらなかった。
ふと、顔を上げると、漁火さんは困ったような顔をしていた。そしてこう告げた。
「…わしとぬしは、姉と弟だもんで、夫婦にはなれん。」
「小さい集落の、猟師の家に生まれた姉弟じゃ。」
「ある日共に狩りをしていた時に、ぬしがわしを撃ち殺した。事故だった。」
「そこからは知らん、気づいたらぬしは妖で、わしは年に2度、ぬしに会える魂だけの存在になりはてた。」
「ぬしのことを、ある鬼から聞いた。記憶がないと。自分の真名も分からぬようになってしまったと。」
「ぬしはわしを漁火と呼んでいるのだな。」
「それはぬしの真名じゃ。わしの名は埋火。土に埋もれた消えるだけの炎じゃ。お前さんこそが漁火じゃ。」
その後少し間を置いて、翠の目を伏せた彼女は俺にこう告げた。
「ここにはもう来んよ。ぬしの感情を乱したくないからのぅ。さらばじゃ漁火。元気でな。」
そういって漁火さんは、俺の姉だった女は、いつもの様にゲラゲラ笑うことなく、優しく優しく微笑んで港の方に消えていった。魚は、逃げなかった。
しばらく放心していた俺は、気づいたら家の布団にくるまっていた。縁者ですかと聞かれた姉はどれだけ寂しかっただろうか。弟だった俺と、妖の俺と夫婦などと言われてどれほど驚いただろうか。申し訳なくなってしまったが、謝る相手はもういない。
謝りたくても謝れなくなってしまった姉の代わりに、明日からの日常を思い浮かべて眠りについたが、見た夢はその姉と夫婦になる夢だった。目が覚めてから、やはり少し放心してしまった。
漁火さん、姉だった女、土に埋もれた消えるだけの炎、埋火。
次生まれてくる時は、幸せに、どうか幸せに。
俺はここで生きているから、心配などせずに、どうか俺のことも、ここのことも忘れてほしい。
5度目の恩赦の週、人間たちを載せた船の中に、朱色はなかった。
この街にきて寂しいと思ったのは、これが初めてだった。
俺はあの鬼から貰った酒瓶を手に取り、海に向かってそれをぐいと傾けた。その液体は逆らうことなくどぼどぼと、海に零れていった。
それから少し残ったその酒を、俺はひとりで飲み干した。
俺の滑稽な恋物語は、これにて了。
古都街裏道四番通り 羽柴 @tawashi_yuki
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