4-7.ニンゲン

「未来が、えているわけじゃないんだ。悲しいことにな」

 目の前は今でも真っ暗だよ、と兄は続けて言った。その暗い双眸の奥底に何が映っているのか、わたしは知らない。

「多分、人間に生きる理由を与えてくれる《神様》も《未来》も、とっくの昔に死んじゃったんだろうな。俺たちは、不条理な宇宙に生まれ落ちた、ちっぽけな虫けらだ。右も左も分からない。一ミリ先の未来だって視えやしない。それでも、今ある命にしがみついているんだ」

 おそらく兄の言うとおりなのだろう。私たちは投げ込まれたんだ。プロットの破綻した、悪趣味なホラー小説の世界に。

 自分の先行きの何一つに期待できず、希望が持てない。すべてが虚像で、価値がない。果てしない虚無がブラックホールのように広がっている。一欠片の救いだって、この現実にはないように思われた。

 けれども、たとえ偽りの光であっても良いから、わたしは兄に未来を見てほしかった。希望を持ってほしかった。


 カーテンがはためいて、暖かい風がいたわるように頬を撫でる。風に乗って入ってきたテントウムシが、制服の肩に止まる。その小さな虫の耐え難き軽さが、私たちの人生そのものの軽さのように感じられて、わたしはぞっと身震いをした。


「いや違う。俺の言いたかったことはそうじゃないんだ」

 兄は頭を振る。

「たしかに未来も希望もない世界だが、生きていくことはできる。人間だけじゃない。あらゆる生き物、生命、自然が、絶え間ない変化のなかで時を刻んでいる。《変化すること》は即ち、現在・過去・未来のすべてを内包した《生きること》そのものなんだと思う。だから俺は、自分が変身しなきゃいけないと強く感じた」

 兄はさらに続けて言う。

「カフカの変身において、主人公のグレーゴルだけが悲劇的な結末を迎えたのは何故か。それは、グレーゴルが虫になったままからだ。妹も、父も、母も、最後は自分が変身する道を進む。それはハッピーエンドとまでは言わないものの、幸福を手に入れるための明るい道だった。

 だがグレーゴルだけは、変わることができなかった。カフカの変身は、主人公だけが変身できなかったことによる悲劇を描いた作品なのだと、俺は悪夢のなかで思い至った。俺は、グレーゴルにはならない。俺は、虫になろうがナメクジになろうが、何度でも何度でも、変身してやる。変身してやるんだ!!!!!!!!!!!」

 兄は力強く言って、立ち上がる。

 肩から離れたテントウムシが、太陽を目指して青空へと飛び立っていった。


「お兄ちゃん! それじゃあ!」

 兄はわたしに応えるように、きらびやかな笑顔で親指を立てる。

「就職活動を再開するぜ。さっそく明日にでもハローワークに行ってくるぜ!」


 それはたしかに、物語の主人公にはふさわしくない、格好悪いセリフなのかもしれない。けれどもわたしには、兄が再び現実を掴み取ってくれたことの方が嬉しかった。


「お兄ちゃん大好きっ。わたしもお兄ちゃんの就活を全力でサポートするね」

「ははは、妹に就活サポートされる兄っていうのも格好悪いな……」

「お兄ちゃんが格好悪いのは前から知ってるよ。それより夜那くんのところに行こ。お礼も言わなきゃだし、お兄ちゃんは謝らなきゃいけないことがたくさんあると思う」

「そうだな。俺のしたことは、取り返しがつかない。謝って済むことでもないが、男としてのケジメはつけないとな」


 その後、部屋を抜けてわたしたちは夜那のいた場所へと向かった。が、そこには誰もおらず、テーブルの上に置かれた青紫の勿忘草わすれなぐさの花束があるだけだった。

 夜那の屋敷中を探し回ったが、どの部屋ももぬけの殻となっていた。


 あとになって近所の人に聞いたところ、あの屋敷は随分前から廃墟となっていて、誰も住んではいないとのこと。


 結局あの日を堺に、夜那の消息はまったくもって不明となった。夜那の入院していた病院はもちろん、学校からも、彼の生きていた痕跡が消されていた。跡形もなく。

 《夜那博己》という名の患者は、生徒は存在しない。誰もが口を揃えて返答する。彼とともに過ごしたはずのクラスメイトでさえ、彼の記憶を忘却していた。


 夜那とわたしが再開する日は、もう二度とないのだと、直感で悟る。




 呪術の悲劇から二ヶ月が経ち――、


 自宅の庭へ出ると、そこには彼の残していった勿忘草の種から増やしてできた、花畑があった。小さな花だが今日も健気に生きている。

 勿忘草の花言葉は《私を忘れないで/真実の愛》。

 八月の夏の日差しが、肌を優しく包み込む。

 彼が何者だったかは分からない。影から世界を調律する呪術師だったのかもしれないし、もっとオカルトな、幽霊や妖怪の類だったのかもしれない。

 ひとつだけはっきりしているのは、彼が何者であろうとも、わたしは夜那博己を決して忘れないこと。兄を呪術から救い、わたしを心の底から愛してくれたひとりの少年の存在を、どんなことがあっても。

「忘れないよ。夜那くん」



「真依ー」

 兄の声がして、庭から玄関にまわる。

 スーツ姿の兄は片手にダイコンを持って、もう片方の手をこちらに振っていた。


「近所のおばちゃんがダイコンを分けてくれたんだ。今日はダイコンの味噌汁を作ろう」

「お仕事の調子はどうなの?」

「ははは、今日はたくさん怒られたぞー。でもブラック企業じゃないから安心してな。ぼちぼちやっていくさ」

 兄は持ち前のPCスキルを活かして、地元のネットショップ事業をやっている会社へと就職した。就職といっても非正規雇用で、まだ三ヶ月の試用期間の途中だった。

 現実は甘くなく、そうそう御都合主義的には進んでくれない。


 それでも、わたしたちが《変身》することを選び続ける限り、物語は終わらない。どんな過去や未来だって、今を生きるための糧としてみせる。


「お兄ちゃん」

「真依」

 手と手を繋ぐ。

 家族として、兄妹として、二人で支え合って生きていく。


 未来の見えないこの世界で、わたしたちの選んだひとつの道筋。ひとつの生き方。

 これから先も、変わりゆくもの。




(中二病の妹が俺に《呪術》をかけてくる【完】)

  Thank you for reading this to the end.

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中二病の妹が俺に《呪術》をかけてくる 五条ダン @tokimaki

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