雨降る日常

鈴木しぐれ

涼雨

〈June〉


「いい子でいるの疲れない?」

 彼女は今まで、そんな言葉をかけられたことがなかった。だから、初めは意味が分からなかった。でも、その意味と答えが分かったとき、彼女の中で何かが確実に変わっていった。





 生徒と先生と親が、机を挟んで三つ巴になる数少ない時――三者懇談。

富越とみこえさん……優寿ゆずさんはとても真面目で、よく頑張っていると思います。風紀委員としての仕事もよくやってくれています。まさにうちのクラスの優等生ですね」

「そうですか。成績の方はどうですか?」

「ええ、二年生最初のテストで割といい点数取っていますので、このままキープしていけば、上位の大学も狙っていけると思いますよ。どこか行きたい所とかある?」

 優寿の方へと向き、尋ねてくる。目線を斜め下に落としながら、答える。

「まだ、決めてないです」

「まあ、まだ二年生始まったばかりだから、これから考えていこう。富越さん、真面目だから、大丈夫」

 ――――いい子、真面目、優等生。そんなことをよく言われる。小学生の頃からずっとそうだった。優寿も初めのうちは嬉しく思っていた。だんだんとそれが普通になり、最近では違和感すら覚えるようになった。


「――富越」

 数日前の懇談のことを思い出し、ぼーっとしていたら、担任の笠井先生に名前を呼ばれた。

「はい」

「このプリントをまとめる作業頼んでいいか?」

「あ、はい。分かりました」

 見た目よりずしっと紙の重さが手にかかる。先生が用事を頼むのは、彼女が風紀委員だから。風紀、と言っても校則違反を正すなどの仕事はしない。実質、クラスに一人いる雑用係のようなもの。優寿は立候補したわけでもなく、推薦された流れだった。

 放課後、一人教室に残って作業をする。作業自体は簡単で、思ったよりも早く終わりそうだった。少し手を止め、ぼんやりと時計を眺める。

「ねえ、いい子でいるの疲れない?」

 突然、廊下の方から声が飛んできた。反射的にその方向へ顔を向ける。

青暮あおぼさん……?」

 そこには窓枠に手を置いたクラスメイトがいた。少しの沈黙のあと、口を開く。

「どういう、意味?」

「んー、意味って言われてもそのままなんだけど。あ、傷つけたならごめん。そういうつもりではないから」

 あまり抑揚のない声で返される。が、そんなに嫌な気分になったわけでもなく、むしろ、何かが引っかかった気がした。重要な何かが。

「別に、大丈夫だよ」

 その何かが何なのかは分からないままそう返事をする。

「そう。で、教室使ってもいい?」

 近くの机を指差しながら言う。

「どうぞ」

 手近な席に座り、手に持っているものを机に広げる。見たところ、それは日誌だった。

「今日、日直?」

「そう。さっき職員室行って提出したら、やり直しって言われた」

 わずかに頬を膨らませ、不服そうな顔をしている。普段の無表情で少し怖いイメージとは違っていて、少し驚いたが、親近感が沸いた。視線を動かし、日誌を見てみると、日付と天気と名前欄以外はほぼ空欄だった。

 ――さすがにそれは手を抜き過ぎなんじゃ……

「富越さんも大変だね。作業」

 日誌に書き込む手を止めないまま、そう言ってきた。

「あー、うん。でももうすぐ終わりそうだから」

「嫌なら断ればいいのに」

 その言い方には嫌味は含まれてなくて、淡々と、独り言のようだった。そういうことは風紀委員になってからよく言われる。

「まあ、委員だから」

 お決まりの台詞を口にするが、いつもとは違って何故か、しっくりこなかった。

「ふーん。じゃ、あたし書き終わったから行く。お疲れ」

「うん。お疲れさま」

 優寿がそう言い終わる前に、教室から出ていった。




 一時限目、数学。この時間は、正直眠い。先生の声に催眠効果があるんじゃないかと疑うレベル。撃沈する生徒も多数。『真面目な』優寿はしっかり板書を取っている。

 いきなり、教室のドアが 開き、その音で数人が目を覚ます。

「青暮望未のぞみ!また遅刻か」

「おはようございます。すみません、寝坊です」

 抑揚のないいつもの調子で。

「はあ、今日の放課後職員室に来い」

「はーい」

 何事もなかったように授業が再開される。また数人は眠りに落ちる。


 放課後に、誰もいない教室で吹奏楽部の練習をBGMにして本を読むことが、優寿は好きだった。今日もまた読みかけの本を開く。

 時計の短針が30°ほど動いたころ、突然、穏やかな読書の時間を壊す声が飛んできた。

「あーーーーーーーー!」

 優寿は突然のことで、肩をびくっとさせ、目を見開いて固まった。声の主である、望未が軽やかな足音を立てて近づいてくる。本を指差して止まる。

「それ! 探偵鳴海なるみ咲妃さきシリーズ!」

「知ってるの!?」

 望未の予想外の言葉に、驚きをそのまま口に出す。そして、嬉しさがふつふつと上がって来る。

「知ってるよ! シリーズ全巻持ってるし。大好きなやつ」

「本当に!? 周りでこれ好きな人いないから、嬉しい。青暮さんが鳴海咲妃を読んでたなんて、」

 そこまで言って、留まった。このあとを続けたら失礼なんじゃないかと。時間としては一瞬のこと。

「意外だった?」

「!」

 優寿は、心を読まれたのかと思い、あからさまに驚いてしまった。

「ご、ごめんなさい」

「いいよいいよ。読書好きに見えないっていう自覚はあるからさ」

 軽い口調でそう言いながら、口端で小さく微笑んだ。そして、優寿が座っている席の前の椅子に後ろ向きに腰かけた。

「それよりさ、これ、どこまで読んだ?」

「えっと、ついさっき五巻読み終わったところ」

「最新までいったんだ。いいよねー。あたし、元々探偵物とか好きなんだけど、これは女の人が探偵っていう珍しいやつじゃん。」

「そうそう。それでまた、咲妃さんがかっこいいんだよね。普段は喫茶店のオーナーっていうのもいい」

 望未は、分かるーと大きな声で同意を示す。ぱっと思い出したように手を叩く。

「四巻、読んだよね?」

「! 椿ノ池つばきのいけ事件のときの、」

「花岡くん!」

「花岡くん!!」

 優寿の言葉のあと、ほぼ二人同時に言った。

「あそこは、本当に好き。シリーズの中で一番好きかもしれない。」

「私も。ただの助手みたいなポジションだった花岡くんが、咲妃さんを守るっていう……」

「まさか花岡くんがかっこよくなるとはね……」

「ねー」

 読書好き二人の話の花は、その後も咲き続け、ついには下校時刻を告げるチャイムが学校に響いた。

「あ、もうこんな時間。帰らなきゃ」

「本当だ。じゃあ、帰ろうか」

「うん」




 優寿と望未の二人は、風紀委員の仕事だったり、先生に呼び出しをされたりと、毎日とまではいかないものの、放課後、時間を見つけては好きな本の話をするようになった。

「富越さん、これ、この前言ったおすすめの本。読んでみて」

「ありがとう。私、そこまで読むの早くないから、返すの遅くなると思うんだけど、いい……?」

「全然いい。そんなこと気にしなくていいから」

「ありがとう」

 優寿は少し口を開き、何かを言いかけては、また口を閉じる。本人は無意識だろうが、口元をもごもごさせている。

「ん? 何?」

 その様子に気づき、少ない言葉で尋ねる。

「明日の放課後、空いてる……? 本屋寄ろうと思ってて、一緒にどうかなって……」

 望未はほんの少し目を見開いてから、いつもより大きく口角を上げて答えた。

「もちろん」



「青暮ー! 遅刻指導の反省文、今日までだぞ。出来てるか?」

 次の日の放課後、望未は笠井先生から呼び止められた。

「あ」

「今日の下校時刻までには、提出」

 先生に睨まれて、はあ、とため息を漏らす。とぼとぼと優寿の席に行き、顔の前で手を合わせる。

「ごめん。本屋行けなくなった」

「いいよ。書き終わるの待っておくから」

「本当?」

 望未は、ぱっと顔を上げ、身を乗り出す。

「うん。反省文って、二百字だったよね? すぐでしょ?」

「え、いや、何書いたらいいか分からなくて、いつもだいぶ時間かかる……」

 決まりが悪そうに、どんどん下を向いていく。

「うーん。遅刻の反省だよね。じゃあ、まず原因を書いて、その改善方法を二、三個。似てるのでもいいから。で、反省してますっていうのと、これからは頑張る、みたいなことを出来るだけ引きのばして書く」

 しゃべりながら、机の上に置いてあったノートに、項目立ててメモをしていく。望未はぽかんとしながら、それを見つめる。

「まあ、二百字ならこんな感じでいけると思うよ」

「……さすがです。使わせていただきます」

 大げさにへりくだって、メモを受け取り、机に向かう。

「本読んでるから、終わったら言ってね」


「終わったーーー! 過去最速!」

「お疲れさま。おめでとう」

 急いで鞄を肩に掛けると、職員室に反省文を提出し、本屋へ向かった。先生に早かった、と褒められたことを嬉しそうに話していた。

「あ! これ、鳴海咲妃シリーズと同じ作者さんの本!」

「え、嘘! 出てたんだ。知らなかった」

「どうしよう、買っちゃおうかな」

 スイッチが入った本好きは、本屋の中を歩きながら、途切れることなくしゃべっている。ふと、優寿のスマホが振動する。画面を確認して、小さくため息をついた。

「お母さんから買い物頼まれちゃった」

「そっか」

「楽しかったー。ありがとう、青暮さん」

「望未」

「え?」

 ぼそっと発せられた望未の声に聞き返す。

「望未で、いい」

 そっぽを向いて、そう付け足した。怒っているわけではなく、ただ単に照れくさいだけのようだ。

「じゃあ、私も。優寿って呼んで」

「うん。優寿、また明日」

「また明日ね、望未」




 それは、数日後のこと。優寿がいつものように風紀委員の仕事を終え、先生に渡しに行ったときのこと。

「お疲れさま。いつもありがとうな」

「いえ。では、失礼します」

「あ、ちょっと待って」

「?」

 さっさと背を向けたところで、呼び止められ、疑問に思いながら振り返った。

「何ですか?」

「富越、最近青暮と仲いいのか?」

 なぜ、そんなことを聞かれるのか分からなかったが、特に深く考えず、答えた。

「はい。そうですね」

 目の前の先生の表情が明らかに変わった。瞬間的にまずいことを言ったか、と考える。が、すぐに先生が小声で、あのな、と言ったので、声を拾いやすいように身をかがめる。

「こんなこと言うのも、あれだが、その、富越と青暮はタイプが違うからな。付き合う人は、まあ、選んだ方が――」

 途中で不自然に言葉を止めた。その目線は優寿の後ろ、つまり職員室のドアの方に向けられていた。つられて後ろを振り返ると、そこには、望未の姿。



 数学の提出物の期限を確認しに、望未は職員室に来ていた。笠井先生、そして先生と話す優寿を見つけ、近づいていったとき、聞いてしまった。会話の全部を聞かなくても、だいたいの内容は察しがついた。そういうことを言われるのは、初めてでもなかったから、またか、と苦笑いが漏れた。

 ふと、振り返った優寿と目が合った。

「あ……」

 その瞬間、嫌だ、と思った。いくら仲良くなってきたからといって、目の前の彼女は、優寿は、優等生だ。先生の言葉は重い。こんな形で友人が離れていくのは、嫌だった。

 何も出来ないまま、その場で俯いた。

「も、もう戻っていいぞ。富越」

「はい」

 あからさまに焦って、それでも取り繕って声をかける。優寿はそれに返事をして、歩きだし、望未の横を通り過ぎた。

「……っ」

 無性に泣きたくなった。仕方ない、仕方ないと言い聞かせても、手のひらに食い込む爪の力が大きくなるだけだった。

 ――――とん。

 不意に、力が入っていた両肩に柔らかく手が置かれた。驚いて頭だけ動かして後ろを見ると、優寿がいた。

「優寿!」

名前を呼ばれたことに、笑顔で返すと、視線を真っ直ぐ先生の方へ向けた。

「笠井先生。私、自分の友人ぐらい、自分で決めます。付き合う人を選べ、なんて差別的なこと、教師が言っていいんですか?」

 周囲の空気が固まった。言われた当の本人は、予想外なことに焦ることすら出来ず、固まっている。優寿の言葉を聞いた他の先生たちは、眉をひそめて、笠井先生を見る。優寿はそんな様子を気に留めず、失礼しました、と言って職員室から出る。望未もそれに引きずられるようにして出てきた。

「はあーー、緊張したーー」

 詰めていた息を吐き出すように、そう言う優寿の横で、やっと状況を理解した望未が声を上げる。

「ちょっと、何してんの」

「何って、先生にご意見申し上げただけだよ」

 得意気にそう言ってのける。その妙に芝居がかった言い方がおかしくて、力が抜ける。望未が声を上げて笑い出す。

「だって、望未を悪く言うなんて、腹立ったし」

「ありがとう。優寿がああいうこと言うなんて、なかったからさ、先生には大打撃だよ。あのぽかんとした顔見たらなんかスッキリした」

「私も。言いたいこと言えて、先生のあんな顔見れて、スッキリ」

 悪戯っ子のような表情をしながら、言う。

「お。いい表情してるね。ようこそ、悪い子へ」

 うやうやしく右手を差し出し、お辞儀をする。優寿はその右手を持って、下ろさせると、こう囁いた。

「いやいや、私はまだまだ。『ちょっと』悪い子です」

「そう。では、ちょっと悪い子の優寿さん。屋上へ行きませんか?」

 この学校では、特別な行事でもない限り、屋上には立ち入り禁止となっている。当然、施錠もされている。優寿は一瞬、答えに詰まったが、すぐにニヤッと笑い言った。

「行く!」


階段で四階まで上り、『これより先立ち入り禁止』と書かれた腰ほどの高さがある柵の前に立つ。

「いい?」

「うん」

 柵を越え、さらに階段を上る。優寿は、緊張感と少しの罪悪感と、そして高揚感でぐるぐるしていた。それでも、顔には笑みが浮かぶ。楽しいのだ。

 屋上への扉の前に着くが、やはり鍵がかかっていた。

「鍵、どうするの?」

「実は、ここの窓の、」

 そう言って、望未は扉の横にある窓に手をかけ、力を込める。すると、すっと横に動いた。

「鍵が壊れてるから、入れる」

「わあー、すごい」

 屋上へ、足を踏み入れると、二人は揃って仰向けに寝転んだ。

「こういうの、漫画でよくあるよね。やってみたかったんだ」

「あー、あるある」

 雲の動きをしばらく眺めたあと、顔は空を見つめたまま、望未が呼びかける。

「優寿ー」

「何?」

「いい子卒業出来て、良かったね」

「……うん」

 六月の風が二人の頬を撫でる。

「涼しい」

「涼しいね」









涼雨~りょうう~

 涼しく感じる雨のこと。


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