「ねぇねぇ翔太くん」

「……なに」

「私思い付いちゃったんですけど、コンクールに出すお菓子、生地に全粒粉を入れてはどうでしょうか?」

「……それ、去年の中村麻実さんのパクリになるだろ」

「でも美味しいと思いますよ?」

「……今は入れない」

「じゃあ次に期待しますね」


 妙に弾んだ声が、後ろから上がった。きっと馬鹿丸出しの顔で笑ってるに違いない。

 見なくても容易に想像出来たから、僕は敢えて後ろを振り返らない。


「ふふ、なぁーんか今のやり取り、懐かしいなぁ。去年の今頃も、こんな話をしてたんですよ。台所に立つマミを見ながら、こうやってテーブルに座って」

「……ふーん」

「私がさっきみたいに、『全粒粉入れてみたら? 美味しいんじゃない?』って言ったら、マミは『今度ね』って言ったんです。でも次の日には入れてくれて、更にはコンクールの応募作品にも入れてくれたんですよ。その時私は悟りましたね。あぁ、私の舌は、マミをも上回る才能の塊だと」


 思わず、鼻から失笑が吹き出した。


「でも、よくよく考えてみれば、私の味覚は小さい頃からかなり鋭かったと思いますよ。だって小学校の低学年くらいまでは、マミが作るお菓子がマズくてマズくてしょうがなかったんですもん」

「……お前、それは逆に狂ってるんじゃないか」

「そんなことないですよっ。だってマミのお父さんとお母さんも言ってましたもんっ。『あの頃のマミのお菓子は、正直凄いマズかった』ってっ」


 力説する彼女が信じられなくて、思わず振り返ってしまった。


「……それ、本気か」

「本気も本気ですよっ」

「だって中村麻実さんは、日本アマチュア料理大会お菓子部門の史上最年少優勝者だぞ」

「ですから、それが始めて美味しいって思ったお菓子なんですよっ。それまでは、そりゃあもう凄いもんばっか作ってたんですからっ」


 両手を振って、彼女は鼻息を荒げる。


「マミったら、もう毎日のようにお菓子を作っては、私に食べさせようとするんです。でもマズいって分かってるんで、私は絶対食べようとしないんですよ。そうするとマミもムキになって、あの手この手で口の中に押し込んでくるんですよね。で、あまりのマズさに私が吐く、というのがお決まりのパターンでして。いやぁー、今思い出しても辛かったなぁ、あれは」


 感慨深げに頷く彼女。

 僕は溜め息のような相槌を打ち、止めていた作業を再開する。


「でも、大きくなるごとに段々美味しくなってきて、吐く回数も減って、遂には残さず完食出来たんですよっ。あの時の感動は今でも忘れられないですねぇ。リンゴのタルトケーキだったんですけどね? 本当に美味しくって、私、感動のあまりマミにお願いしたんです。『私が結婚する時は、ウェディングケーキにこれを作ってね』って。そしたらマミも『いいよ』って言ってくれましてね? 大きくなったら、マミのケーキの前で永遠の愛を誓い合うって約束したんですよー」


 表面を生クリームで覆ったところで、パレットナイフを置く。

 冷蔵庫へ向かい、事前に用意しておいたものを取り出した。


「ま、でもよくよく考えてみたら、折角の晴れの日なんですから、もっと豪華で派手な奴の方がいいですよね。リンゴのタルトケーキって、正直ちょっと地味じゃないですか。式にきた友達にも、『え、麻美、これ?』とか言われそうですし。いや、美味しいんですけどね? 美味しいんですけど、でもそこはやっぱり特別仕様にして欲しいというかなんと言うか」


 位置を確認しながら、生クリームの上へ軽く乗せる。倒れないよう、後ろにはリンゴのソテーと絞った生クリームをさり気なく忍ばせておいた。


 完成した作品を、じっと見下ろす。


 一度深呼吸をしてから、未だ喋り続ける彼女を振り返った。


「……おい」

「はい、なんですか? やっぱり翔太くんも、ウェディングケーキはドドンとうず高く積まれた奴の方がいいと思いますか?」


 その質問には一切答えず、僕はタルトの乗った皿を持って、彼女の元へ歩み寄る。


「おっ、遂に完成ですか? いやー、待ちくたびれましたよぉ。さてさてぇ、一体どんなお菓子が出てくるの……」


 彼女の声が、止まった。


 僕が置いたタルトを、凝視している。


 目を見開いて、茫然と固まった。


「…………し、翔太くん……これ……」


 彼女の視線が、僕へ移る。


 僕はなにも言わず、ポケットから一枚の紙を取り出した。空中で振って開き、タルトの横に並べる。


 紙には、『アサミのバースディケーキ』と書かれている。その下にはタルトらしき絵と、細かなレシピが載っていた。


「……お盆に、中村麻実さんの家へ線香をあげに行った」


 彼女の肩が、ぴくりと動く。


「中村麻実さんの両親、僕の事知ってた。僕が名乗る前に、『田中翔太くんよね?』って言われて、なんで知ってるんですかって聞いたら、『あの子が、あなたの事をライバル視してたから』って言って、笑われた」


 リンゴのタルトケーキを眺めたまま、彼女は黙り込んでいる。


「線香をあげてから、少しお話させて貰った。それで、そろそろ帰ろうかなって思った時、中村麻実さんのお母さんが、そのレシピを持ってきた。『貰ってくれないかしら?』って差し出された」


 向けられた左巻きの旋毛を、僕は眺めた。


「最初は断ったけど、『あの子の最後のレシピだから、ライバルのあなたに持っていて欲しいの』って言って、泣きそうな顔で笑われて、断り切れなかった。本当にいいのか何度も確認して、それから、ありがたく受け取った」


 徐に、チャッカマンを取り出す。彼女の前に置かれたリンゴのタルトケーキに、火を付ける。


 上に乗っているチョコプレートの角が、ゆっくりと丸くなっていく。


 チョコペンで書かれた『Happy Birthday Asami』という文字も、少しずつ歪んでいく。


 辺りに、甘い匂いと、苦い匂いと、沈黙が、入り混じった。


「……マミは」


 ぽつりと、彼女が呟く。


「マミは、ずっと翔太くんに注目してたんですよ」

「……らしいね」

「なんか、最初は、自分と同じ位の歳の子がいるのが珍しかったみたいです。でも段々、大会に出る度に翔太くんの話をするようになって、翔太くんが賞を取ったお菓子を作っては、すっごく悔しそうに、でもすっごく楽しそうに分析するんです。そんなマミを見てたからか、段々私も翔太くんを注目するようになって、授賞式を見に行った時は、必ずマミと翔太くんのツーショットを眺めて……」


 と、ふと、彼女が笑った。


「翔太くん、いっつも機嫌悪そうな顔してましたね」

「……そりゃあそうだろう。中村麻実さんにまた優勝を掻っ攫われたんだから」

「でも、実はマミも不機嫌な顔してたんですよ? ぱっと見は余裕たっぷりな女王様スマイルだったかもしれませんけど、私からすれば、この後怒涛の愚痴大会が待っているのかーと、それはそれは恐ろしいものがありましたよー。特に去年の全国高校生料理コンクールの時なんか、もう徹夜でマミの愚痴を聞かされてはお菓子を食べさせられたんですからー」


 彼女は笑いながら、焚き上げられていくタルトケーキから目を離さない。


「『あの審査員は見る目がない』って、凄い怒ってましたよ。自分が考えたタルトタタンと、翔太くんが考えたロールケーキを並べて、あーだこーだ言いながら食べ比べするんです。それで、何度も何度も言うんですよ。『なんで田中翔太くんが最優秀賞じゃないの?』って」


 僕の眉が、つと歪む。


「……僕は、中村麻実さんが最優秀賞で納得したんだけど」

「でもマミは、自分が優勝したのは、『中村麻実』というネームバリューのお蔭だって言ってましたよ。実際に翔太くんの考えたお菓子を食べて、それは確信に変わったって」

「僕だって、中村麻実さんのタルトタタンと、自分のロールケーキを食べ比べた。その上で、僕は中村麻実さんの最優秀賞に納得したんだ。それを覆すだなんて、例え本人でも腹立たしいんだけど」

「それだけ翔太くんを評価してたって事ですよ。あのロールケーキ、本当に美味しかったですよ? まぁ、私が翔太くんのケーキを絶賛したから、マミは余計怒ってたのかもしれないですけど。マミって結構負けず嫌いですから」


 ふふ、と、彼女の笑い声が落ちる。

 僕は、何も言い返さなかった。


 自分用に作ったもう一つのタルトケーキを持って、定位置と化しつつある彼女の前へ腰を下ろした。背凭れに寄り掛かり、燃えるケーキを眺める。


 しばらくすると、皿の上に、消し炭と化した無残な物体が出来上がった。


 彼女はそっと手を伸ばし、成仏したタルトケーキを掴み上げる。

 しばし眺めてから、徐に、一口、齧った。

 上下する顎の動きを、僕は黙って見守った。


「…………翔太くん」

「……なに」


 彼女は顔を上げ、僕を見やる。


「このタルト、マミの味がします。でも、翔太くんの味もします」


 手に持つタルトケーキを、軽く掲げてみせた。


「凄く、美味しいです」


 そう言って、馬鹿丸出しの笑顔を浮かべる。


 僕は彼女を見返してから、そっと手元へ視線を下げた。


「……そう、良かったね」


 そう言いながらも、僕は内心、当てが外れてがっかりしていた。


 これでもないのか。


 中村麻実さんが考えたリンゴのタルトケーキを見下ろし、それから、掴んだフォークを突き立てた。一口大に切り離し、口の中へ放り込む。

 ……悔しいけど、美味い。


「翔太くん翔太くん。気付いてないかもしれませんけど、今すんごい険しい顔してますよ。折角美味しいタルトを食べてるんですから、もう少しこう、にこやかな顔をしましょうよ」

「どんな顔をしてようが、僕の勝手だろう」

「それはそうかもしれませんけど、でもほら、どうせ食べるなら楽しい雰囲気の方がいいじゃないですか」

「大丈夫だ。僕は僕なりに楽しんでるから」

「翔太くんはそれでいいかもしれませんが、そんな仏頂面を見せ付けられながら食べる私の身にもなって下さいよ。そういう自分勝手なところ、本当にマミとそっくりですよねー」


 両手を広げて首を振ってみせる彼女。その無駄にアメリカンなリアクションがえらく癇に障る。なんだその突き出た下唇は。全力で引き延ばしてやろうか。


 大体、中村麻実さんとそっくりというのも腹が立つ。僕が真似してるみたいな言い方しやがって。もしかしたら、中村麻実さんが僕の真似してるのかもしれないじゃないか。そもそも、自分勝手とかお前には言われたくない。


 なんか色々と気に食わなかったので、さっき思い付いた事を前触れなく言ってやろう。


「おい」

「はい、なんですか?」

「好きだ」


 タルトを頬張り、一言、それだけ呟く。


 そうしたら、目の前に突如ゴリラが現れた。鼻の穴を震わせて、一風変わった鳴き声を上げている。


 不細工だなぁ、と心底思いながら、女とは思えぬ顔をしばし観賞した。


「……これも駄目か」


 ま、そうだろうなとは思っていたから、これはあんまりがっかりしない。

 何事もないかのように、タルトケーキを食べ続ける僕。


 そうしていたら、唐突に、ゴリラが猛り狂い始めた。


「なっ、なにがっ、なにがダメなんですかっ! ていうかっ、な、なんなんですかっ、さっきのはっ! 納得のいく説明を要求しますよ翔太くんっ! もしどうしようもない理由だったらっ、場合によっては、その、あ、あれですよっ! あれですからねっ!」


 あれってなんだよ。

 動揺し過ぎて単語も出てこない彼女を、隠す事なく鼻で笑う。


「お前、さっき言っただろ」

「な、何をですかっ!」

「大きくなったら、中村麻実さんのケーキの前で永遠の愛を誓い合うって」


 背凭れに寄り掛かり、リンゴにカスタードを塗す。


「だから、やってみた」


 丁度いい大きさに割ったタルト生地と一緒に、食べる。

 うん、美味い。悔しいけど。


「……あの、翔太くん」


 目線だけで、返事を返す。


「私が思うになんですが、今のは、ちょっと違うと思いますよ。永遠の愛を誓い合うというより、ただ投げやりに告白しただけじゃないですかね?」


 文句を付けられ、ちょっとイラっとする。


 でも、言われてみれば、確かに。


「なんと言うか、私のイメージとは違うというか、もっとこう、やりようはあったのではないかと思うのですが」

「……じゃあ、なんて言えば良かったんだよ」

「えっ。や、やってくれるんですかっ?」


 ……なんか、妙に視線を感じる。


 ちらと前を見やれば、彼女が身を乗り出して僕を見ていた。無言で咀嚼を繰り返していれば、彼女は体を前後左右に揺らして、食い入るように返事を待っている。


 取り敢えず、なかった事にしようと思う。


「あ、あれ? 翔太くん? 翔太くーん? なんか、あれ? 流そうとしてません? ここまでの流れ、全部記憶の彼方へ押し流そうとしてません? 自分から振っておいて、それはなんじゃないんですか翔太くん」


 なんかパグが無駄吠えてるが、気にせずタルトケーキを消費していく。


「……私ー、信じてますからねー。翔太くんならー、きっとやってくれるってー。だってさっきー、私に言ってくれたんですもーん。翔太くんを信じてればいいってー。やると決めたからにはー、絶対にやってくれるってー。腕毛総立ちにしながらはっきり言ってくれましたもーん。私のパグ脳にー、一字一句間違いなく刻み込まれてるんですからー」


 恨みがましさと当てつけがましさの織り混ざった声が、聞こえてくる。


「大丈夫よ麻美。翔太くんは絶対やってくれるから。少しでも可能性がある以上、私を殴ってでもやらせてやるって自分で言っときながら、まさか自分はやらないだなんて、翔太くんはそんな男じゃないんだから。これで私が成仏するかもしれないのに、自分の気が進まないからってなかった事にしようなんて、翔太くんが考えるわけないじゃない。そうよ麻美。大丈夫。こうしてじっと待っていれば、きっと翔太くんは覚悟を決めてこう言ってくれるわ。『なんて言えばいいんだ?』って」


 前から、物凄いムカつく眼差しが送られてくる。あまりにムカついて、折角のタルトが不味くなってきた。

 僕は深い深い溜め息を吐き、フォークを皿に投げ捨てる。


 視界の外れで、彼女が妙に瞬きをしているのが見えた。両手を胸の前で組んで、上目遣いをこちらへ向けている。


 僕は机の上へ腕を投げ出し、足を一定のリズムで揺らし始めた。苛立ちを隠すどころか全面に押し出してやっているのに、彼女は只管じっと待っている。


 いや。『じぃーっと』僕を見つめながら、僕が折れるのを『待っている』。


 静寂の中で、腹の底から、これでもかと大きな溜め息を吐いてやった。


 それから、一つ舌打ちを零す。


「………………なんて言えばいいんだ」

「いよっしゃぁぁぁーっ! ありがとうございます翔太くんっ! 頼りになります翔太くんっ! いよっ、男前っ! かっこいいっ! この勢いで私と結婚してっ!」

「ぶっ飛ばすぞ」

「そこまで嫌がらなくたっていいじゃないですか。そんなに私を泣かせたいんですか」


 なんか言ってるが、無視して貧乏揺すりを続けた。椅子の脚をガタガタ言わせつつ、食べ掛けのタルトを睨み付ける。


「……で、なに」

「あ、はい。えーっと、じゃあ、そうですねー。まぁ、オーソドックスかもしれませんが、ほら、あの、健やかなる時も、病める時も、翔太くんは私を愛し続ける事を誓います、みたいな、ほら、あるじゃないですかそういうのっ。あれとか、んー、まぁ、言って欲しいかなぁ」


 ミミズのように体をくねらせ、彼女は顔をだらしなくにやけさせている。手に取るように浮かれているのが分かる。


 振り上げそうな腕を堪え、湧き起こる不快感を飲み込み、ついでに揚げ足を取られた形でやらねばならないこの状況の不愉快さを、どうにか堪えようと拳を固く握り締める。


 視線は吊るされた自分の腕に向け、葛藤を繰り返す事、数拍。


 覚悟を決めた僕は、大きく息を吸い込み、唇を開いた。


「あ、先に言っておきますけど、最後に虫唾が走るとかくっ付けないで下さいね」


 ……唇を閉じ、貧乏揺すりを大きくする。


「それと、私の方見て言って下さい。真剣にやって貰えたらなお良しです」


 注文が多いんだよ。


 文句を言う代わりに、椅子の脚をガタンガタン言わせてやった。まるで地震がきたみたいに揺れる僕を、彼女はじぃーっと見つめてくる。


 揺れを、一旦止める。

 目を固く瞑り、顎が肩に付く程首を捻った。鼻から息を吸って、溜めてから、湧き起こるあれこれごと全力で吐き出してやる。

 吐いて吐いて、もうこれでもかというくらいに吐き切ってやって、


 それから、握った拳を、自分の膝に叩き付ける。


 目を開き、勢い良く、前を見た。


 彼女と目が合う。

 突然動いた僕に驚いたのか、後ろに体を引いて目を丸くしている。しかしすぐに姿勢を正し、真正面から僕に向き直った。

 笑いが込み上げる程、真面目な顔をしている。


 沈黙に、どことなく緊張した空気が過ぎった。


 僕は、ゆっくりと、口を開く。

 彼女を見たまま。


「……健やかなる時も、病める時も」


 彼女の喉が、震える。


「……僕は、お前を愛し続ける事を、誓います」


 目の前の唇が、きゅっと噛み締められた。眉が八の字に下がり、赤縁眼鏡の奥が、つと潤む。


 彼女の体から、馬鹿みたいなオーラが溢れ出る。なにかを噛み締めるように身を固くして、頬が、じわりと赤く染まっていく。


 小刻みに震える彼女を、僕はじっと眺めた。

 彼女も、僕から目を逸らさない。


 静かな空間が続けば続く程、僕の耳は、次第に熱くなってきた。それが顔へも移動し始め、体へと広がっていく。


 僕は我慢出来なくて、思わず眉を顰めて立ち上がると、





 全力で、彼女の顔に左の拳を叩き込んだ。





「うおあぁぁぁぁぁーっ! なっ、なにするんですか翔太くんっ! このタイミングで殴るんなんて可笑しいでしょうっ! 新婚早々ドメスティックバイオレンスに走るだなんてっ、夫として最低ですよ翔太くうわぁぁぁ顔怖ぁぁぁぁぁーっ!」

「お前……っ、なんで成仏しないんだよ……っ」


 納得がいかなくて、もう一発お見舞いしてやった。

 彼女は情けない声を上げながら、台所の隅まで逃げていく。


「ごごごごめんなさぁぁぁいっ! でっ、でもぉっ、私だって我慢したんですからねっ! 翔太くんが言い終わった後っ、いつまで経ってもなにも起こらないからどうしようって本当焦ってっ! でもここで下手になにか言っても翔太くん絶対怒るって思ったからっ、だから必死になって色々堪えたんじゃないですかぁっ!」

「……因みに、なにを色々堪えたんだ」

「え、そりゃああれだけ真剣に言った後の拍子抜けっぷりと、翔太くんの永遠の愛を誓いあった損っぷりによる恥と笑いのコラボレーションを」


 目の前にあった消し炭を掴み、思いっ切り暴投してやる。だが利き手とは反対側で投げたからか、あっさりと避けられてしまった。


 盛大に舌打ちを零し、八つ当たり混じりに椅子へ座る。リンゴのタルトケーキにフォークを突き立て、切らずに齧り付いてやった。


「……あ、あのぉ、翔太くん?」


 視界の外れからそーっとやってくる物体が見えるが、無視。


「えーっとぉ、そのぉ、あ、ありがとうございました。私が追い込んどいてなんですけど、本当にやってくれるとは思いませんでした。結果はあれでしたけど、翔太くんの男気は、ばっちり伝わりましたからっ。大丈夫ですよっ!」


 大丈夫って、なにがだ。


「それに、ほらっ。このタルトだって、私の為に作ってくれたんですよね? 本当にありがとうございます。永遠の十七歳が、まさか十八歳になれるなんて思ってもみませんでした。いやぁ、びっくりですよぉ」


 なんかタルトケーキを掲げているが、無視。


「まぁ、兎に角あれですよっ。翔太くんには本当に感謝してますっ。肩脱臼してまで私のこと止めてくれたしっ、翔太くんに出会えてなかったらっ、私今頃死んでましたっ。翔太くんは私の恩人ですっ。本当にありがとうございますっ。だからお願いですからその顔でタルトかっ食らうの止めて下さい本当に怖いですから本当に」


 黙れパグ。という気持ちを込めて睨み付ければ、彼女は何故か嬉しそうに笑った。気持ち悪。


「いやー、しかし美味しいなぁ、このタルト。これだったら私、本当にウェディングケーキにしてもいいですよー」


 定位置と化した席に着き、彼女はまたタルトケーキを食べ始める。


「見た目地味だと侮るなかれという感じで、『え、麻美、これ?』って言ってきた友達をぎゃふんと言わせるんです。『え、麻美、これ?』を『えっ、麻美、これ……っ!』に変えてやりましょう。そうして驚愕する友達に、私はふふんと微笑んでやるんです。お茶目に笑う私を見て、隣に座る旦那様はきっと不思議そうに首を傾げるでしょうね。だから私は、『なんか、幸せだなって思って』って言って、そりゃあもう可愛らしくはにかむんですよ。そしたら旦那様も『僕も……』って照れ臭そうにはにかむんですっ。良くないですかっ? 超良くないですかっ!?」


 一人興奮するゴリラを放置し、僕はタルトに突き刺していたフォークを引き抜いた。やっぱり普通に切り分けた方が食べやすい。


「そんでそんでっ、我が家では結婚記念日の度にこのタルトを食べるんですっ。結婚式の思い出から始まりっ、結婚に至るまでの過程っ、今までのあれこれを面白可笑しく語り合ってっ、幸せを再確認するんですっ。子供が産まれたらっ、『お母さん達はねー、結婚式でこのタルトを食べたんだよー』って毎年言ってっ、呆れられながらラブラブ夫婦っぷりを遺憾なく見せ付けてやるんですよっ。なんなら毎年タルトを切り分ける前にっ、ケーキ入刀ごっことかやっちゃったりしてっ! きゃあーっ、いいっ! 凄くいいっ! 正に私の理想の結婚生活ですっ!」


 机をバンバン叩いて、彼女は相手もいないくせに楽しそうだ。

 妄想するのは勝手だが、僕に迷惑を掛けないで欲しい。さっきから皿が動いてしょうがない。なんで幽霊が机叩けるんだよ。ポルターガイストも程々にしとけよ。


「お互いを見つめながら、健やかなる時も、病める時も、私は、あなたを、永遠に愛する事を誓います、って言うんです。そして厳かな雰囲気の中、微笑み合い、段々と顔が近付き、遂には唇が……くぅぅぅーっ! やってみてぇぇぇーっ! 永遠の愛とか誓い合ってみてぇぇぇーっ! あっ、さっきしたわっ。翔太くん誓ってくれたわっ」


 忘れたい過去を思い出させた彼女が、心底憎い。

 パグ脳よ、記憶ごと弾け飛べ。


「でもあれ、よくよく考えると誓い合ってはいないですよねー……ん? という事は、ここで私も健やかうんぬんを言えば、もしかしたら無念が晴れて、成仏出来るかもしれないって話ですか? ねぇ翔太くん。そういう話ですか?」

「……知らないけど、取り敢えずやってみれば」

「え、マジですか。うーん、でもなぁ。失敗した時の事を考えると、ちょっと悩んじゃいますよねぇ。私、正直翔太くんの二の舞にはなりたくありませんし」


 この野郎。


 あまりの言い草に、掴んでいたフォークがちょっとしなった。三角巾で吊るした右腕も、小刻みに震えている。


「……おい」

「はい、なんですか?」

「やれ」

「……え?」

「永遠の愛を、誓え。今すぐ」


 フォークを皿に叩き付け、彼女を睨み付ける。


「え、あ、あれ? 翔太くん、どうしたんですか? なんか、ご機嫌斜めですよ?」

「そうだ。僕はご機嫌斜めだ。だから機嫌を治す為、お前も永遠の愛を誓え」

「えっ!? なっ、なんでそうなるんですかっ! 翔太くんのご機嫌と永遠の愛の誓いは、なにも関係ないでしょうっ!」

「五月蠅い。口応えするな。そして僕以上に恥を晒せ」

「嫌ですよぉぉぉぉぉーっ! 恥を晒すって分かってるのにっ、なんでやらなきゃいけないんですかぁぁぁぁぁーっ!」


 そんなの、僕が楽しいからに決まってるだろう。


「うぅ、そ、それだけは勘弁して下さい翔太くん。ほら、思い出して下さいよ、さっきのあの空気を。言った方も恥ずかしいですけど、聞いてる方も相当恥ずかしいんですからね? 翔太くん、きっと耐えられないと思うなぁー。虫唾と反吐のオンパレードに、全身の毛という毛がそそり立っちゃうと思うなぁー」

「大丈夫。心配するな。お前は難しいこと考えないで、ただ僕を信じて晒し者になればいいんだ」

「全然安心出来ないですけどぉっ! というかっ、仮に翔太くんを信じて晒し者になったとしてっ、私になんの徳があるっていうんですかっ! 晒されてる時点でもうそれはただの罰ゲームじゃないですかぁっ!」

「五月蠅い」


 僕は足を組み、膝の上に手を乗せる。これでもかとふんぞり返り、早くやれ、という気持ちを込めて、顎をしゃくってみせた。


 彼女はゴリラそっくりな顔で唸り声を上げ、食べ掛けのリンゴのタルトケーキを睨んでいる。いや、よく見ればパグにも似てるぞ。あの鼻の開き具合やら皺の寄り具合やらは、正しくパグそのものだ。

 ヘップにも負けてない不細工っぷりに、思わず鼻で笑ってしまう。


「……翔太くん。どうしてもですか」

「どうしてもだ」

「どうしても、やらなければならぬのですか」

「ならぬのだ」

「どうかお慈悲を」

「掛けぬのだ」


 足を組み直し、尊大に彼女を見下す。


「人にやらせておいて、まさか自分はやらないなんて事はないよな」

「う……」

「僕は信じてるぞ。お前ならきっとやってくれるって」

「うぅ……」

「僕がこうしてじっと待っていれば、きっとお前は覚悟を決めて言うんだろうな。『なんて言えばいいんですか?』って」

「それ、さっき私が言った奴だぁ……」


 顔を覆い、彼女は俯く。

 知ってるか。こういうのを、因果応報って言うんだぞ。


「……わ、分かりましたよぉ。言います。言えばいいんでしょお?」

「違うだろ。『なんて言えばいいんですか?』だろ」

「うぅぅ、な、なんて言えばいいんですかぁ」

「僕がさっき言った奴を、そっくりそのまま言って貰おうか」


 満面に広がるほくそ笑みを押さえる事なく、言ってやる。ドエスとか最低とか聞こえるが、知るか。


 無駄に大きな深呼吸を繰り返す彼女。片手にはタルトケーキが握られており、彼女の力みに合わせて徐々に変形している。だが、気付いた様子はない。先程の僕みたいに体を揺らし、葛藤を繰り返していた。


「あぁ、そうだ。折角だから、新しいタルトケーキを持ってきてやろうか」

「え、あ、い、いえ、大丈夫です」

「遠慮するな。これから永遠の愛を誓うんだから」

「だ、大丈夫です。本当、そういうの大丈夫なんで」

「なんならケーキ入刀ごっことかしてもいいんだぞ」

「お気持ちだけで十分ですから」

「ナイフ、持ってきてやろうか」

「だから大丈夫ですって。なんでこんな時に限って親切なんですか翔太くん。そんな優しさ持ち合わせてるなら、普段から発揮して下さいよ」


 彼女が、恨めしげにこちらを見やる。全く持って怖くない。


 鼻でせせら笑う僕に唸り声を上げて、彼女は拳を握り、大きく息を吸った。胸を反らせてのけ反ると、盛大に吐いて、吐いて、これでもかと吐いた。


 彼女が顔を俯かせ、息の音が聞こえなくなる。


 徐に、彼女が姿勢を正した。

 若干赤らんだ顔で、僕を見据える。


 そして覚悟を決めたのか、ゆっくりと、唇を開いた。


「……す、健やかなる時も……病める、時も……っ」


 語尾が震え、彼女の唇も、つと戦慄く。

 赤縁眼鏡の奥が、じわりと光を帯びる。


 台所に、つと沈黙が訪れる。


 肌をじわじわと赤くし、彼女は、僕を見た。

 僕も、彼女を見る。


 唇を一度固く結び、それから、勢い良く開いた。


「わ、私はっ、翔太くんを愛し続ける事をっ、ちっ、ちちち誓いまぁぁぁすぅぅぅわあぁぁぁぁぁ虫唾が走るうぅぅぅぅぅーっ!」


 お前この野郎。

 顔が一気に歪んだのが、分かった。


 僕にはやるなって言っておいて、それはないだろう。僕だって言うの我慢してやったっていうのに。

 あまりの腹立たしさに、思わずフォークを鷲掴み、振り被った。





 そうしたら、彼女の姿が、消えた。





 辺りに目を滑らせるも、いつも通りの台所に、甘い匂いが漂っているだけ。

 違うところと言えば、目の前に置かれた空の皿と、隅に落ちた消し炭くらいだ。


 なんとなく、天を仰ぐ。


「……馬鹿が」


 口から零れた呟きに苦々しいものを感じながら、僕はフォーク握り直した。

 勢い良く、残りのタルトケーキに突き立てる。そのまま持ち上げて、大口開けてかっ食らった。


 ……明日は、コンクールのお菓子を作るついでに、タルトタタンも作ろう。


 別に、なにか特別な意味があるわけじゃない。


 たまたま。


 本当にたまたま、そんな気分になっただけだ。

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見えぬ彼女と僕の夏 沢丸 和希 @sawamaru

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