2
オーブンが開かれると、台所に香ばしい甘い香りが充満した。
「翔太。これ、どこに置けばいい?」
「そこの作業台に置いて」
はいはい、と母さんは、型から外したタルト生地達を調理台の作業スペースに置いた。ついでに生クリームやらカスタードやら、必要な道具も全部並べて貰う。
「ありがとう。あとはもう大丈夫」
「そう。ならお母さん、ちょっと買い物に行ってくるわね」
母さんは付けていたエプロンを外し、台所を去っていった。
「あ、いってらっしゃーい。車には気を付けて下さいねー」
それを、テーブルに座る彼女が見送る。当然母さんには聞こえていない。返事もせずに準備を済ませ、家を出ていった。
玄関の方から、鍵の閉まる音がする。
途端、彼女が立ち上がった。
「よぉしっ。翔太くんっ、お母様がいなくなりましたよっ。これで心おきなくお喋り出来ますねっ」
「来るな。座ってろ」
「え、なんでですか。翔太くんの言い付け通り、大人しく待機してたじゃないですか」
「気が散るんだよ。いつも言ってるだろ」
「でも、今まではなんだかんだ言って許してくれてたじゃないですかー」
「お前、見て分からないのか? 僕は今、片手しか使えないんだ。それも左手だぞ? 今まで以上の集中力が必要なんだよ。お前にうろつかれたら台なしになる自信しかないから、そこで静かに座ってろ。嫌なら帰れ」
「うぅー、分かりましたよー。静かに座ってますよーだ」
頬を不細工に膨らませ、彼女は定位置と化し始めている椅子に腰を下ろした。テーブルに肘を付き、ひょっとこみたいに唇を突き出している。
しばらく作業していると、テーブルの上から、スマホの揺れる音が聞こえてきた。
「……ん? あ、翔太くーん。また天使さんから電話きましたよー」
「放っとけ」
「でも、かれこれ二十回くらいずーっと鳴ってますよ? いい加減出てあげたらどうですか?」
「どうせ大した用事じゃないよ」
「そうですかねぇ」
「それに僕、橋本と喋ってる暇ないし」
「あ、じゃあ私が代わりに喋りたいです。もうさっきから暇で暇でしょうがなくって。ね、お願いしますよ翔太くん」
ね、ね、と聞こえてくる声に、僕はふと溜め息を吐いた。一旦絞り袋を置き、仕方なくテーブルに近寄る。凄い勢いで揺れるスマホの画面を、叩くように触った。
『もしもぉーしっ! 田中さまもしもぉぉぉーしっ!』
五月蝿い。
『超ヤベーよっ! 全然宿題終わらないんだけどぉっ! やっぱアレだなっ! 仕事と学業の両立って難しいなっ! こういうの二足の草鞋って言うんだっけ? まぁそれはいいんだけどさっ! そんな日々頑張ってる俺の為に、どうか数学見せて下さぁぁぁーいっ!』
がなるスマホに答える事もなく、僕は作業台へ戻った。
『田中さま? あれ? ……たぁぁぁーなかさまぁぁぁーっ! 聞こえてますかぁぁぁぁーっ! もしもぉぉぉぉぉーしぃっ!』
スピーカーにしているわけでもないのに、そこら中に橋本の声が響き渡る。
「……翔太くん翔太くん。天使さんめっちゃ叫んでますよ」
「ほっとけ」
『あっ、今っ! 今麻美ちゃんの声聞こえたっ! おぉぉぉーい麻美ちゃぁぁぁーんっ! 今日はごめんなぁぁぁーっ!』
「え、あ、だ、大丈夫ですよぉぉぉーっ!」
なにやってんだこいつら。
『明日は俺も文殊の知恵参加するからぁぁぁーっ!』
「ありがとうございまぁぁぁーすっ! でも学生さんなんですからぁぁぁーっ! 勉強も頑張って下さぁぁぁーいっ!」
『ありがとぉぉぉーっ! というわけで数学見せて下さい田中さまぁぁぁぁぁーっ!』
余りにも五月蝿いから、スマホの電源を落とした。
「あ、切っちゃっていいんですか?」
「いいだろ」
どうでも。
「いやー、しかしさっきの天使さん、相当追い込まれてましたねー。分かりますよー。夏休みの最終日って、なんでかてんやわんやしちゃいますよねー」
「……お前、見るからにそういうタイプだもんな」
「そういうタイプってなんですか。もしかして私のこと、バカにしてます?」
「よく分かったな」
「いやー実は最近、翔太くんの考えが手に取るように分かるんですよー」
気持ち悪。無駄に胸を張る彼女に、冷たい視線を送った。
「……あぁ、そういえばお前、ストーカーだったっけ」
「違いますからね」
「ターゲットの男を六年間も目線で舐め回してたんだろ」
「表現がヒドいですよっ! あれは、その、恋する乙女の健気な気持ちの表れですよっ」
恋する乙女。猛るゴリラの間違いだろ。
「あ、今鼻で笑ったでしょ」
「気のせいだ」
「嘘吐かないで下さいよ。顔が見えなくてもそれくらい分かるんですからね」
「流石パグ」
「パグ関係ないですよね。と言うか、さり気なく鼻で笑ったの認めましたね?」
特にコメントは返さず、淡々とソテーしたリンゴをタルト生地に敷き詰めていく。
「……そうやってスカしてられるのも今のうちですよ。翔太くんも恋をしたら、絶対私と同じ行動を取るんですからね」
「それはない」
「いーえ、断言します。翔太くんは好きな子が出来たら、その子を目で追い掛け回し、今日も可愛いなーとか思いつつ、偶然目が合っちゃったりしたら内心サンバを踊るでしょう」
「それはない」
「経験者の体験談ですよ? かなり信憑性高いと思いますけどぉ……あ、そっか。翔太くんそんなことも分からないほどお子ちゃまなんだー。そっかそっかー。じゃあ信じられないのもしょうがないですねー、ふふーん」
……なんとなく、喧嘩を売られた気がする。
「あーぁ、かわいそうー。こーんなに素敵な体験がまだだなんて、人生の半分以上損してますよー? 人間として一歩も二歩も劣ってますよー?」
「……パグ如きが偉そうに」
「そのパグよりも人生経験下ってことですよ。あ、私翔太くんに勝っちゃった。いえーい」
この一言で、僕の中のなにかが、切れた。
「……じゃあ、人生経験豊富な麻美先輩に、その手腕でも見せて貰いましょうかねぇ」
「え、あ、あれ? 翔太くんどうしたんですか、急に敬語なんか使ったりして」
「人生経験豊富な麻美先輩なら、さぞ素敵な恋愛を幾度もなさってるんでしょうねぇ」
「え、え、翔太くん。もしかして怒ってます?」
「人生経験豊富な麻美先輩に怒るだなんて、お子ちゃまの僕がそんなおこがましい真似するはずないじゃありませんかぁ」
「いや、これどう考えても怒ってますよね。私、久しぶりに翔太くんのその顔見ましたよ」
黙れパグ。人の顔にケチつけるな。
「そんな尊敬すべく人生経験豊富な麻美先輩に、お子ちゃまの僕からお願いがあるんですよー」
「や、止めて下さいよ翔太くん。名前がいちいち長いし怖いし」
「尊敬すべく人生経験豊富な麻美先輩のおっしゃる『素敵な体験』というものが、お子ちゃまな僕にはいまいち理解が出来ません。なので今後の参考にする為……」
「す、する為……?」
一旦手を止め、挙動不審な彼女と真っ向から対面した。
そして満面の笑みとともに、この言葉をプレゼントしてやる。
「お前の告白、ちょっと見学させろよ」
「いっ、嫌ですよぉぉぉぉぉーっ! え、嘘、嘘ですよね翔太くんっ!」
「本気ですよー、尊敬すべく人生経験豊富な恋愛マスター麻美先輩。あー楽しみだなー。お子ちゃまな僕が想像もつかないような、そりゃあもう感動的な告白なんだろうなー」
「うおぉぉぉ止めてぇぇぇーっ! 考え直しましょう翔太くんっ! 人の告白シーンなんて見てもつまらないですよっ!」
「またまたー」
「またまたってなんだよぉぉぉっ! そ、そもそも、なんでそんな考えに至ったんですかっ?」
「一番効果的な嫌がらせはなにかと熟考した結果」
「無駄に頭を使いおってからにぃぃぃーっ! このドエスッ! デリカシーがないですよ翔太くんっ! 最低っ!」
よく吠える犬だこと。気持ちいいからもっと吠えろ。
「うぅ……、あの時調子に乗るんじゃなかった……。私のおバカさんめ」
「今頃気付いたのか」
「くぅぅぅっそぉぉぉっ! 前から知ってましたよっ! あぁ知ってましたともさぁっ!」
ヤケクソ気味の遠吠えを聞きつつ、僕は機嫌良くカスタードを伸ばしていく。
「……あ、あのぉ、翔太くん……さっきの、冗談ですよね?」
後ろから掛けられた不安げな声に、僕の口角は図らずとも持ち上がる。
「さーて、明日から気合い入れて件の彼を探すかー」
「ぎぃやぁぁぁぁっ! や、止めて下さいっ! 本気出さないでぇぇぇっ!」
「橋本にも手伝って貰うかー」
「話を広めようとしないでぇぇぇっ!」
「まぁ冗談はこのくらいにしてといて」
「え? あ、う、嘘だったんですかっ! 良かったぁぁぁぁぁーっ!」
「件の彼は、本気で捜すぞ」
彼女の声が、突如途切れた。
「僕が集めたアンケート結果。まだもう一つ残ってるだろ」
僕は振り返ることもせず、パレットナイフを操っていく。
「まずはそれを試してみる」
時折皿を回しながら、淡々と言葉を紡いだ。
「並行して文殊の知恵も絞り出す。取り敢えずはその戦法でいくぞ」
カスタードを塗り終え、一息吐く。
すると、彼女がなにか呟いた。
しかしよく聞き取れなかった。
「なに」
残りのリンゴのソテーを引き寄せて、後ろを振り返る。
「……あの……」
彼女は目線を泳がせ、言い淀むように手首のオレンジを弄っている。
僕は軽く眉を顰めつつも、急かすことなく待ってやった。
「……告白……しなきゃダメですか……?」
ようやく出てきた質問に、僕は眉どころか顔全体を顰めた。
甘い匂いの漂う台所に、大きな溜め息を轟かせる。
「……お前、本当に成仏したいのか」
「……そりゃあ、したいですよ」
「ならやれ。当たって砕けるつもりでやれ」
「……でも……」
「どうしても嫌なら、後回しにしてもいい。だがやらないなんて選択肢はないからな」
そう言い捨て、再びタルトに向き直り、菜箸を掴んだ。
「……翔太くんは、なんでそんなに告白させたがるんですか」
「じゃあお前は、なんでそんなに嫌がるんだ」
彼女はなにも言わない。
「僕は別に告白をさせたいわけじゃない。成仏する為の手段として、全く試さないのはありえないって言ってるんだ」
彼女は、なにも言わない。
「大体、最初に成仏を手伝えって言ったのはお前だぞ。自分の発言くらい責任を持て」
後ろからは、沈黙だけが返ってくる。
……深い溜め息を一つ吐いて、僕は彼女に顔を向けた。
案の定、左巻きの旋毛と対面する。
しょうがないな。内心もう一つ溜め息を零し、僕は彼女に近寄った。
「……おい」
「……はい」
「……僕には、お前を成仏させる義務があるんだ」
彼女の旋毛を睨みながら、どうにか言葉を絞り出す。
「荻原さんを殺すチャンスを奪ったのは、僕だ。もしかしたら、そのせいでお前は悪霊になるかもしれない。そのせいで、苦しむかもしれない。だから、僕がお前を成仏させないと、不公平だと思う」
自分でもなにが言いたいのか分からないが、思い付くまま口を動かす。
「僕は、やるなら妥協なんかしない。どんなに気の進まないことでも、やると決めたら絶対にやる。だからこれも手を抜くつもりはない。本当ならコンクールに集中したいが、今回は特別に、少しでも可能性がある以上、お前を殴ってでもやらせてやる」
彼女の頭が、のそりと動いた。赤縁眼鏡がこちらを向く。
「……そもそも、こんなの僕の柄じゃないんだ。見ろ、この鳥肌。今だって体中を虫唾が駆け巡っている。だからもう二度と、こんなことは言わない。これが最後だ。いいか、そのパグ脳にきちんと刻み込んでおけ」
一旦言葉を止め、深く息を吸う。
「……僕には、お前を成仏させる義務があるんだ。なにがなんでも成仏させてやる。だからお前は、難しいこと考えないで、ただ僕を信じてればいいんだあー反吐が出る」
頬にまで鳥肌が立った。痺れるような感覚を逃がす為に、手の甲で何度も擦る。
すると、それを見た赤縁眼鏡の奥が、ゆるやかに弧を描いた。
「……ちょっと感動したのに、最後の一言で台なしですよ翔太くん」
人が折角頑張ってやったのに、なんたる言い草だ。
僕は鼻を鳴らすと彼女に背を向け、少し早歩きで作業台へ戻った。
別になにか意味があるわけじゃない。たまたまだ。
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