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読書記録1「アレクサンダとぜんまいねずみ」

「アレクサンダとぜんまいねずみ」の作者は、レオ=レオニだ。この話よりは小学二年生にて学ぶ「スイミー」のほうがいささか有名であるようにも感じるが、私は、ぜひともこちらを読んでほしいと思うほどに好きな話である。

大学の講義にて、およそ13年ぶりだろうか。この物語に触れてそして、あらためてこの物語が好きだと感じた。

私がこの話と出会ったのは、それこそ小学二年生の国語の時間だ。上下巻構成の教科書のうちの下巻に載っていただろう。可愛らしいタッチのねずみのイラストと、世にも不思議なとかげの色は忘れられない。最初は「なにをやらされるんだ」と思っていた頃が懐かしい。

ねずみは、嫌われ者である。それは、作中のみならず現実でもだ。だが、アレクサンダだって生きるのに必死だっただけだ。しかしうまくいかない。もちろん、愛されたことなんてないんだろう。

そこで登場するのが、ぜんまいねずみのウイリーだ。
彼は、不自由である代わりに、アニーに愛されている。アレクサンダは自由だが愛がない。ウイリーは不自由だが愛がある。アレクサンダは、「自分も愛されたい」と思ってしまうのだ。(本文では可愛がられているとされているが、誇張して愛されていると表現している)

ウイリーは、アレクサンダにもぜんまいねずみとなってほしかったのだろうか。アレクサンダもまたぜんまいねずみになることを望んでいる。そこで出てくるのがまほうのとかげだ。むらさきの小石を探せばいいらしい。アレクサンダは探し続けるが、見つからない。

そして、ウイリーにも変化が訪れてしまう。
アニーは彼を愛と支配から解き放ってしまおうというのだ。アレクサンダは、悲しんだ。今の彼にとってウイリーは唯一の情なのだ。せっかく手に入れた唯一を、失うことになるなんて。そんなときに、ようやくむらさきの小石を見つける。

アレクサンダが本当に欲しいものは、「愛情」だ。ぜんまいねずみになることではない。自由に足りない唯一の情を得るために、ちいさなからだで小石を抱えて走った。そして、トカゲに言ったのは、……
「ぼくは……」
言いかける。彼は、自分の目的にここで初めて気づく。ぜんまいねずみになるのは、単なる手段だ。だから彼は、願いを変えたのだ。

「とかげよ、とかげ。ウイリーを、ぼくみたいなねずみにかえてくれる?」

自分を変えるのは自己責任だ。だが、他人を変えるのは他人にも迷惑が抱える。アレクサンダのそれがエゴだったのならば、ウイリーはどうするだろう。だが、きっと彼らの中にはそれが許される、もしくはお互いの望みが伝わるほどになっているのだろう。

とかげですら、驚いた。アレクサンダは、気づきを得たのだ。成長だ。ちいさなねずみのちいさな成長。彼は、戻る。

しかし、箱の中は空っぽだった。
「おそかった。」

しかし、住処にもどればもう一匹のねずみがいるではないか! ウイリーだ。アレクサンダは、ウイリーを抱きしめる。そして、小道へと出て二人は踊るのだ。

この短い話の中に、なんども読者を上げ下げする。ひまになる時がない。

最初は、騒がしい。激しい音が聞こえて、そしてウイリーと出会う。日常が描かれているかと思いきや、ウイリーがいなくなるといわれてしまいではないか。そして、その時になってようやくあれほど探していた小石が見つかる。はらはらしながらとかげの元へ行き、願いを言うが、遅かったらしい。悲しくなる。しかも戻れば、怪しい物音。何事か、ウイリーだ! そして大団円となっていくのだ。

心が揺さぶられ続けて、そして最後にはすとん、と落ちる感覚。これがなんとも爽快である。

それに、自由と不自由、嫌厭と愛情という二項対立の中、人間の一方的な放棄によって、変わってしまう。そこが一番の転換点となる部分、心がざわめくのだ。

ふつうに小説を読むのと同じような厚みを持って、この物語に入ることができる。半ば、アレクサンダとウイリーを見守る無力な神(すなわち読者)として。これがアレクサンダが孤独になる終わりであったのならば、私は自分の無能さに打ちひしがれていいたにちがいない。

私は、これからもきっと外の世界の人間として、二人がどう過ごしていくのか案じていくしかない。しかしそれでいい。そうであるかぎり、私は彼らのことを忘れないだろう。

思えば、私はそのころ読書が嫌いだったのであるが、この話が後に読書が好きになった理由へ最も影響しているのかもしれない、と思うことしばしば。

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