人の本性は善か悪かという問を考えたことある人は多いかもしれません。
お釈迦さまよりも少し後の時代、紀元前4世紀から3世紀にかけての中国の思想家も性善説か性悪説かを議論していました。
結論からいうと仏教では人の本性は善でも悪でもないと考えているし、生まれつき悪人だとか善人だとかもないと考えています。
その理由が人という存在は「無我」であるからです。
初期経典のひとつスッタニパータにはこのような記述があります。
「生まれによっていやしい人になるのではない。生まれによってバラモンになるのではない。行為によって人はいやしい人にもなり、行為によってバラモンにもなるのだ。」
この場合のバラモンを善人または賢者、いやしい人を悪人または愚者に変えても意味が通ると思います。
つまり、生まれによって人の性質が決定しているわけではなく、人はその時々の行為によって善人(賢者)にも悪人(愚者)にもなると説かれています。これは、人が「無我」の存在だからこその性質です。
お釈迦さまは、99人の人を殺めたアングリマーラに対して、殺人鬼、悪人というレッテルを貼りませんでした。
それはお釈迦さまが人は無我であるという真理を悟った存在だからです。無我であるという真理を悟っていたからこそ、アングリマーラに対して嫌悪や恐怖という感情を抱かず、慈悲の手を差し伸べることができました。その結果、アングリマーラは改心し、当人も真理を悟ることができたのだと思います。