もうずいぶん日にちが経ってしまいましたが、芥川賞の「東京都同情塔」を読みました。そして、なかなか手ごたえのある小説だったので、一言書き込んでおきます。
主人公の建築設計家が、何かしゃべるたびに、自分の中に検閲者がいて、言葉をどうしても検閲しないと使えないという設定になっていて、とても面白いな、と思いました。人の人格と、使う言葉のつながりというものを考えさせられるストーリーでした。
そして、この作品を読んだ後、ジョージオーウェルの「1984」を読みたくなって、40年ぶりに読んでみました。
この二作品に共通するのが、作品の中での意識的な「言葉」の取り扱いです。
「1984」というのは、言わずと知れたディストピアの世界を描いた小説で、「ビッグブラザー」が支配する監視社会において、人々が、外側から管理されるだけでなく、内的にも人格を操作されてしまうさまを描いています。それは、使う言葉を変えられてしまうということです。例えば、「悪い」という言葉を無くし「良くない」という言葉に統一してしまうなどです。それによって、反逆するという考え自体をできなくしてしまうのです。
「東京都同情塔」においても、登場する場面の人々は、使う言葉の変更によって思考回路の操作・変更がなされていて、巧妙に現実認識の変更がなされています。それは、使う言葉の変更が、すなわち人々の現実認識の変更につながっているということです。
言葉と思考との関係について、考えさせられました。