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小説とはどうあるべきか。

 どうも、羽衣石ゐおでございます。

 いやほんと、一応のモノカキとして、大変、言い辛いのですが、
「私はあまり読書が好きではありません!」
 ……ということです。
 どういうことかと言うと「小説ってマルチタスクには向かないし、正直アニメやドラマになっているんだったらそっちを流し観するんでいいよね」ということです。
 それは、最近の小説の、メディア化(あまり好きな言葉ではありません。ここでは、映像化として考えます)としてのポテンシャルの高さが挙げられます。
 ライトノベルというものが、メディア化するための踏み台になっている。これはもっともであり、また厳しい現実となっているのです。例えば、メディア化したいなら、突飛な設定(美少女がわんさかでてくる、非常にエロチック、グロテスクな描写が多い、絶対泣かせて見せるぞおら!感の強い話<重篤でも頑張って生きようとする女の子><最後に消えるヒロイン>)など。まあ、最後に消えるヒロインというのはやった手段ではありますがね(言い訳をさせてもらうと高専共通パスワードの有効期限設定をどうしても使いたかったので)。
 どういうことかと言えば、これらは、映像化しても、何ら遜色ない、エンターテイメント性を秘めているということで、それはもはや、先述したように、メディア化するための踏み台、いや、試練となっているのかもしれない。
 つまりこれらの殆どには、「小説としてあろうという気概がない」ように思える。
 ストーリーがたいそう面白い話というのは、別に小説である必要がない。つまり、勝手の良い、すいすいと進む、人間の発達した視野のうちに、嗜好品として高まってゆくメディアのほうがお似合いなのである。
 だとすれば、私は、ストーリーの面白さよりも、ちょっとした日常の不思議でもいいので、描写力に力を入れることこそが、小説としてあるべきではないか。と思う。
 最近は本の要約サービスなどが注目を集めている。殊にビジネス書なんかが多いような気がするが、まあ、普通の小説も多い。
 正直、大方のストーリーさえ知っていれば、あとはちょっと流し読みで十分である。難しい話を漫画に描き下ろしているものには、大変頭が下がる。だが、それを読んでから小説を読んでみて、特に変わらない、ちょっと主人公の考えていることがわかる、読むのが大変だった、程度にしか思わないなら、読書にかかる時間に対して、コスパが悪いような気がする。
 だからこそ、せわしない現代人にコスパが悪いだとか思われてしまう小説とは、「小説として生まれてこなければならず、また小説としての特異性を孕んでいる必要がある」のではないだろうか。
 長々失礼した。
(途中からテンションが上がってきて、常体になってしまったことには、お詫びを申し上げます。)

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