ぼくは悩んだとき、いつも自分の心に答えを聞いていた。
自分のことは自分が一番理解しているつもりだった。
自分の本心は誰にも分かってもらえないから、ぼくはずっとうつ病だったから、誰にも分かってもらえないと諦めていた。
ずっと一人でいろんな本を読んで、人間の心について勉強してきた。人間の心については誰よりも理解しているつもりだった。
だからこそ、僕は過ちを犯した。それを他人に当てはめてしまったのだ。
僕は、人に共感するのが得意だと思っていた。自分のことを偏見のない人間だと思っていた。
自分がたくさん苦しい思いをして、色んな哲学を考えて生きてきたからこそ…… 自分の経験を当てはめるだけで、その人の本心とか人間の本質が、ある程度理解できてしまっていたのだ。
だから、その程度で僕は、他人を理解するのが得意だなんて勘違いしてしまったんだ。
僕は、キャタクター作りで困ったら、まずは自分の心に答えを訊く。自分の経験から答えを探そうとする。
これまでずっとそうしてきたし、それでそこそこ良い小説が書けてしまっていたのだ。
でも僕は本質的に、人の話を聞けていない。
他人に自分を投影して、理解した気になっていただけだったんだ。
特にネットでは顕著になる。
現実世界では相手の表情が見えるから、僕も自分なりに相手を理解しようと頑張れる。
でもネットでの言葉だけの会話では、どうしても相手が見えないから、自分本位の受け取り方ばかりしてしまう。
しかし本質はきっと、ネットでも現実世界でも変わらないのだ。
僕は無意識のうちに、自分と他人との間に壁を作ってしまっている。それを取り払って出ていきたい。
「読書感想文や小説感想が、自分語りになってしまう理由」
自分の頭のなかで考えることは、何も悪いことじゃない。
小説家として必須のスキルであるはずだ。
けれど、作品の中に、「作者のエゴ」が入りすぎると駄目になるのだ。
自分の中にある感情だけで、今まで、これほどまでの小説を書けたのならば、
今日から自分の外の感情を学べば、僕はもっと心が豊かになるはずだ。
自分をその人に置き換えて考えるんじゃないんだ。その人に憑依するんだ。
その人のものの考え方で世界を見るんだ。
その技術が身につけば、創作活動でも無敵になれる気がする。
人の書いた文章を読もう。
自分が作者とか登場人物そのものになったつもりで、完全にまるごと入り込むんだ。
作家はある意味、誰よりも役者じゃないといけない。
だって全てのキャラクターのセリフを生み出さないといけないのだから。
キャラクターの口で作者が喋っちゃいけない。作品内のキャラクターが話すのだ。
自分とは違うものを、のみこまれるように理解しよう。
キャラクターと会話しよう。自分ばっかり書いてちゃつまらないでしょ。俺ならきっとできる。
自分以外の心を書く潜在能力は、持っているはずだ。
【具体的な行動】
・「人の文章を読む、人の話を聞く」
・「自分として読むのではなく、その人本人そのものになったつもりで読んでみる」
・「自分がその小説をエッセイとして書いているつもりで読むのだ。モーニングページと同じ要領で」
真に共感して読む読書は、自分が読むより何倍も面白い。
小説ごと、他人ごと読むのだ。
本当の読書には、自分なんてでてこない。