私は子供の頃、国語の授業が嫌いでした。小4くらいの時だったか、
「この話を通して作者が言いたかったことは何ですか?」と先生に
問われました。
知ったこっちゃありません。それでも小学生です、「こうだと
思います」と自分の考えを言ったら、「違います」と言われました。
違うって何よ。今だったら先生に馬乗りになってぶん殴ってやりたい
くらいですが、そこは腐っても小学生、お母さんに怒られる方が怖い
ですから、先生が指導する「主題」を素直に受け入れました。
その後いろいろな本を読み、わかる話も、わからない話もありました。
大人になってもう一度読んで、今ならわかる気がする話も、わからない
ままの話もあります。
作者の意図を、ご本人でない一般読者が完全に理解することなど
未来永劫ないのではないかと思います。作者の力量、読者の理解力や
経験、様々な要因の折り重ねのうちに、作品ができあがるのだと思います。
作者は提案するのみ、それを作品として完成させるのは、読者という
書く者にとっては信仰対象のような存在あってのことです。
また作者も、読者の考えを操作することはできないし、する必要もない
と思います。そして私は国語の本に載せられるような話は書けません。
意味わからん、それも貴重な感想です。それを胸に、私は今日も明日も
書き続けます。わかってもらえなくてもいいのではなく、なぜわかって
もらえなかったのか、考えることが大事だと思うからです。
「つりばしわたれ」でしたか。あの話、もう一度読んでみようかと
思いました。