• エッセイ・ノンフィクション

ファジー

私の中には両極端なもう一人の私が居る。。

乖離なんていう言葉を知らなかった20代、30代、40代。。

特にまだ父が私に「愛人になれ!」等と言い出す直前、
父が薦める「精神世界(スピリチュアル)」の本を読んで気づいたのは、

この手の本を読んで。。要はどうすればより生きやすくなるか?
と言った知恵を私が持つと、それを逆手にとってより生きにくくするか?といった知恵を持つ私を感じるから、「知恵を持たない方が良い。この手の本は生きる邪魔になる。」と父にいった事を思い出した。。

「乖離」という言葉を知る前に私はもう一人の私「輩」の存在を明確ではないにしろ感じていた。。

今、私は自分の心の深くまで降りて行き、考え、生きにくさを生きやすくする為に努力をしているが、
努力をすればするほど、生きにくくしてやろうとする自分の
存在も感じていて、その自分を否定すると、まるで自分が殺されてしまうような恐怖も感じているのだ。。

それでも両極端。。
たやすく言えば、幸せになりたい自分と、不幸になりたい自分。。

実際に徳を積もうと努力すると、災いが舞い込んでくる。。
といった輪廻は、不幸になりたい自分の方が、潜在意識に存在しているからかもしれない。。
等と言う言葉がフッっと頭をよぎる事もある。。

今私が考えているのは、「もう一人作ろう。。もう一人人格を作ればいい。。。」だ。。。

それは「ジヤッジする自分。。」

そんな事を昨夜まっすぐ帰れば良いものを、、一人飲み、して帰る途中に考えていた。。

もう一つは。。
正気の時の私はいつも両極端な私のふり幅に苦しむが、
呑んで正気ではない私の時だけ、「心がファジーで居られる。。。」
どっちでもいいじゃん!って気楽になれるんだ~だった。。。

ふと。。美和子さん(自叙伝に登場する人物)を思い出した。。
彼女はいつも私を気楽にさせてくれる人だった事を思い出した。。
もう一つ思えば、父の暴力に恐怖を感じていた幼少期、私の支えだった母も私を気楽にさせてくれる存在だった訳で。。。
いかえれば、私はずっと母に会いたかったのだと思う。。

母こそがファジー(曖昧)な人だったのだから。。。

コメント

コメントの投稿にはユーザー登録(無料)が必要です。もしくは、ログイン
投稿する