• エッセイ・ノンフィクション

比較の在り方

他者の被害と自分の被害を実は近親姦被害者たちは日常的に比較している。。

大事なのは比較の仕方。。。

何故被害者たちは他人の経験を聞いて考えるのか?
それは。。。
自分の被害の場合の心の回復の仕方を模索しているから。。
という事はこの事だけで実は他人の心の悩みと自分の場合とを比較している。
特に相手のその時の状態が自分よりはつらつとしているように感じて、過去の経験を話しているのをワークしたとする。。
どうやって元気になられたのか?何か自分に当てはめて見習う事はできるのだろうか?と考える事は十分に比較しているのだと思う。。

ましてそのワークでこうやって私の場合は乗り越えました。。なんて言われたら?どうやって?と益々興味がわいてくる。。

しかし、もし、そのワークの中で被害例のいろんなケースの話が出てきたとする。それをその人が比較して自分の場合は大丈夫!等とおもっていなくて、単に話を分かりやすくするための例文として話したとすると、被害者たちの何人かはあれは。。被害を比較している。そんな事で心は回復しない。。あの人が今元気なのは勘違いしているだけ。。あれは本当の回復ではない。。

等と言い出す被害者が居たな~~と思い出した。

きっと。。安堵したいのだと思う。。
この被害は一生続く。。なんていわれているのだから。。
自分の心の中でまだ悶々とするモノが重すぎる人は、
あれは本当の回復ではない。。と思い込むことで安堵感をえたいのかもしれない。。そこに妙な正義感が入ってくれば、益々頑なになるものなのかもしれない。。

大事なのは比較の仕方ではないか?と今になって思う。
比較の何もかもがいけないなら、、
何故?ワークや自助ミーティングで人の被害や人の悩みを聞きたいの?
ということになってくる。。

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