今、描いてる後日談Ⅲで、王であるタリウスが味方に裁かれる局面があるのよ
真っ当な民主国家であろうとも、味方に対する恐さと緊張は常に存在している。
戦争責任の追及、失策を犯した指導者への糾弾、誰が死なせたか、
千々乱れる感情の矛先からは指導者こそ逃げられない。
制度が緩和してさえ、なお、人は感情と損失で動く生き物だ。
法も制度も脆いポストアポカリプスの時代。
血縁と武力が支配に直結する共同体の王であれば、
敵より味方が恐ろしい局面での対峙は、避けがたい帰結でもあった。
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ここまで描いて思ったんだけど、独裁でも民主でも、責任の追及が働くのは真っ当でもあるんだけどね。今はその視点はいらないよね。
でも読者の内には、こう考える人も絶対に出るんや。
『それは氏族がまともな証拠で、腐敗した民主制でも独裁でも、
責任取らないシステムはやり方、犠牲の羊は幾らでもあるじゃないか』
特に民主制は、デザイン的に局所的な腐敗は発生し続けるシステムでもあるからとか、突っ込みが脳裏に浮かぶと思う。
でも、敢えて描かないの!
余白を保たなければ、ならないんだよね。
先回りして真っ当な疑問は潰しつつ、
やや外れてるのは放置しなければならない。
地図を書くみたいに。コストも時間も限られてる中で。
描けないことも膨大にある。
で、全体優先して全体像として美しくしなければならない。
ううむ。グランドデザイン、と言う側面もあるのよね。
何を描くか
何を描かないか
空白を作る意味、思考する余地を形成する空白が逆に全体を構造的に強固にする。