古来から、シェイクスピアには3つの楽しみ方があると言われている。
笑い、恋、裏切り。大衆劇としての楽しみ方。労働者や農民、商人、船乗り。当時のちょっと懐に余裕のある庶民が楽しむもの。元々は、分かりやすい大衆文化で、それが歳月に耐える出来だから、今も見られてる。面白いから生き残った。
流血、ええと、それに成功や悲劇も大衆性として大きい。
成功とそれに続く、没落と言う二重構造も効く。
二つ目の演劇としても跨ってるけど。
二つ目の楽しみ方が演劇的な、人間関係の緊張、権力を巡る争い、感情の発露と宿命的な衝突を楽しむもの。これは最初の楽しみ方と密接に繋がっている。庶民だって普通に二番目の要素や構造を理解しているし、貴族や裕福な市民も、最初の感情の発露を楽しんでいる。だから、一つ目と二つ目は、乖離していない。
小まめな一つ目で客を退屈させずに楽しませながら、二番目のしばしば高尚とされる悲劇や悲恋、破滅で観客の感情を激しく揺さぶり、カタルシスや業を与える。
此処までが大半の人が楽しむシェイクスピア。
そして3つ目の要素。楽しみ方がやや難解な――
・時間 (押し寄せる状況と不可逆の変化)
・死 (永劫の静止)
・言葉 (選択肢、決断)
・自己認識 (自我?)
本来、シェイクスピアは歌舞伎の位置づけよ。
能やらバレエとは最初から違う。
都市の大衆娯楽として商業的な興行が行われ、
受けなければ容赧なく変更され、また打ち切られる。
結構、下品にも解釈され、社会の風刺は誇張され、恋と暴力が見栄を切る。
観客が内容を知っている前提でも楽しめるように作られている。
そもそも高尚云々言うべき代物でもないと思うのだが、しかし、奥の深さは確かに存在している。
よくある分析では、時間は、早すぎても、待ち過ぎても危険な、人の制御できないものであり、死は無様で突然でなんの意味も持たないものであり、言葉は時に人を欺き、認識を誤らせ、人を破滅に至らせる。
剣より言葉の方が多く人を殺すとオセローだったかな。白黒のゲームじゃないよ。
そして自我。人が己が何者かを定めるに至る経緯だと解釈してるが、シェイクスピアでは、しばしば、他者の【死】と【時間】、【言葉】に拠って押し流され、他者と状況によって決定される。
つまり、シェイクスピアの世界観では
人は確信を持てない
判断は常に不完全
勝利も敗北も、後から定義される
言葉は信頼できない
これを「存在論」「時間意識」「言語不信」などと呼んでいる人もいる。
死は、意味を与えてくれない終わり
時間は、判断を裏切る流れ
言葉は、真実を歪める道具
自己認識は、行為の後で固まる『自分像』に過ぎない
だから、シェイクスピアに人間の本質を見る人がいても、それは理解できる。
さて、作家と言うものは、例え木っ端なアマチュアなろう作家であろうとも、
他人の作品を読んでも素直には頷かないもので、
理解はしたし、時として偏差が生じるのも知っているが、
生、時間、言葉が味方になる流れもあるとも信じたい。勝手に信じる。
いや、敢えて、存在しうるギリギリの連鎖を描いてるところに
納得が生じるのは、シェイクスピアの筆力の妙味ではあるのだけれど。
しかし、シェイクスピアを読んで感じるのは、
自分がちまちまと積み上げた創作のやり方を
何百年も前にとっくに到達して、
当たり前のように行使していた人間がいるものだな、と。
今は当たり前の手法だけど、当時は先進的だが。
まあ、巨人の肩の一類だし、仕方ない。
フォレスターやコナンのハワード、マーティンなんかも当たり前にやってる。
日本だと古い軍記物に似てると言えば似てる。
太平記も、意味もなくいつの間にか死んでたり、
行為に意味が無かったり。まあ、史実の武将たちの生き死にだから仕方ない。
物語として取りとめがないとも評されがちだけど、
運命や宿命、生き死にに対して脚色せずに誠実だともいえる。
ただ、現代人として捻るならば、そして教養が残るポストアポカリプス世界ならば、人はおのれの生きざまに意味を持たせようと努力し、中には成功して死んでいくキャラクターがいてもいいのではないかな。と思う。
メタ意識を大勢が持てるのは、娯楽の力であり、娯楽が一般に膾炙した後の世界であれば、誰もが自我に拠っておのれを定義する瞬間を持っていていい。
スラムの片隅で死にかける乞食でも、あっさりと死ぬ盗賊でも、漫画やアニメくらいは見たことがある世紀末なのだ。