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近況ノート小噺 その5「忘れさせるおじさん」(改)

「僕の目を見て……」

 おじさんがささやくように私に告げる。その声には催眠術的な効果もあったのか、私は全く逆らえなかった。おじさんの顔はよくも悪くも普通で、あまり記憶に残らない顔だ。その普通の顔のおじさんの目は――まるで――宇宙のような広がりを見せていて――。

「あれっ?」

 気がつくと私は自室のベッドの上に横たわっていた。ちゃんと着替えているし、まるで何事もなかったかのよう。窓から差し込む朝日に小鳥達の声が賑やかに耳をくすぐる。

 何かが確実にあったはずなのに、その何かの記憶がすっぽりと抜けている。それは昨夜の帰り道の出来事だけじゃなくて――。

 何もかもいつも通りに始まった朝に、私は背伸びをして起き上がった。そうしていつも通りのルーチンワークをこなして自宅を出る。
 不思議な事に、朝起きてからする事全てが新鮮で楽しい。まるで全てが初めての体験のように。

 会社に出勤するとすぐに同僚の姿が目に入った。私はそれだけで嬉しくなって元気良く笑顔で声をかける。

「おはよー!」
「おお、元気になったじゃん。何かあったの?」

 同僚の言葉に私は昨日の出来事を改めて自分の記憶の倉庫の中から探し始める。
 けれど、不思議な事に昨日の駅から出た後の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。きっと何かがあったはずなのに、朝目覚めるまでの記憶が全くない。
 本来ならそれはとても不気味な事のはずなのに、不思議と私の心はスッキリと晴れ渡っていた。

「うん、全然覚えてないけど、今は色んな事が新鮮で楽しいんだ」
「そっか、良かった」

 同僚はそう言うとにっこり笑う。確かに私は何かを忘れていた。昨夜の事だけじゃなくて、覚えていても辛い色んな出来事を。記憶としては確かにあるんだけど、そこで感じた感情だとか、葛藤だとか、苦しみだとか、そう言うのがすっかりと消えていた。出来事は出来事だと冷静に捉えられていた。

 もうその理由は分からないけれど、今からはまたちゃんと前を向いて生きていこう。生きていける気がする。
 朝の明るい日差しの中、私の目の前の未来は静かに優しく微笑んでいた。

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