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近況ノート小噺 その5「忘れさせるおじさん」

 私は仕事帰りに同僚と一緒に帰っていた。最近は何もいい事がなくてぶっちゃけ退屈しながら日々を過ごしている。毎日同じ事の繰り返し。多分それは幸せな事なのだろうけど……。
 同じ電車に乗ってベンチシートに同僚と並んで座り、視線をスマホに向けたまま私はつぶやいた。

「あ~あ、なーんにもいい事ないなぁ」
「おお、どうした?」

 何気なく無意識の内に発したその一言に同僚が反応する。どうしたもこうしたも、それが今の素直な心情なのだから仕方ない。

「実際、何もいい事ないんだもん」
「生きていればこれからいい事もあるってぇ~」
「私もずっとそう思ってたよぉ~」

 この定番のやり取りを無難にこなすと会話は途切れ、私達はまた無口になった。同僚とは降りる駅が違うためここでお別れだ。1人になった私はいつものように駅を降りると、そのままどこにも寄らずに自宅を目指す。

 何も変わらない日々の生活。普通に過ぎていく季節。誰も待ってはいない部屋。家に戻ってもいつもの繰り返しを続けるだけ。無になった心にすうっと虚無の風が吹き抜けていく。

「もし……」
「わあっ!」

 それは公園の側を通り過ぎようたした時だった。暗闇の中から突然誰かに呼び止められたのだ。この街は治安は良い方だけど、それでもたまに事件が起こる。この間発生した通り魔事件はまだ犯人は捕まっていない。
 この突然発生したイベントに私の頭は最悪の想定ばかりを導き出していた。

 私を呼び止めた声の主は街灯の明かりに照らされてその正体を表した。それはそこらへんのどこにでもいそうな特徴のない顔をして見た目50代くらいのおっさん、いや、おじさんだった。

 このおじさん、身なりは割と普通で無難にスーツを着こなしている。怪しいっちゃ怪しいけれど、そこまで怪しい訳でもない。落ち着いていそうだし、初見の印象では割と常識人のようだ。ただし、面識はない。まるっきりの初対面。一体何者なのだろう。何が目的で話しかけてきた? 

 私が混乱していると、おじさんは更に話しかけてきた。

「君は、つまらなさそうな顔をしておるね」

 この語りかけから察するに、どうやらお節介的なおじさんのようだ。私の退屈な気持ちが表情に現れてしまっていたらしい。それがおじさんの好奇心に火をつけたとかそう言うのだろう。

「い、いえ~。あはは……」

 ここで変に反応をするのも面倒だと感じた私は、愛想笑いを浮かべると、その場を無難にやり過ごそうとする。

「待たれい!」

 おじさんの止める声を無視して私は早足で現場を立ち去った。触らぬ神に祟りなし。このまま遠ざかっていけば、おじさんはまた別のターゲットを探すだろう。これでまた平穏な時間が戻ってくる。
 5分ほど競歩レベルの早歩きをした後に振り返ると、視界におじさんの姿はもうなかった。安心した私はそのまま進行方向に顔を向ける。

「待てと言っておるに」
「わああっ!」 

 そこにはさっきに振り払ったはずのおじさんが立っていた。私は驚いて一瞬呼吸が止まる。それから何度か深呼吸して息を整えると、仕方がないので一応話を聞く事にする。

「な、何なんですか……」
「君は、実につまらなさそうな顔をしておる」
「はぁ……」
「つまらない原因は過去の記憶が邪魔しておるからだよ」
「はぁ……」

 おじさんの話ははっきり言って要領を得ない。真剣な顔で話してはくれるんだけど、何だろう、怪しい何かの勧誘だろうか? 
 そうだと仮定すればこの行動も納得出来る気がする。ノルマ的なものがあるからターゲットを逃さないとか? これはヤバイのに捕まっちゃったなぁ……。
 私が生返事を繰り返していると、ついに話は核心に到達する。

「僕がその記憶を忘れさせてあげよう」
「け、結構ですっ!」

 その言葉に危険なものを感じた私は即行動を開始する。その場からの離脱だ。脇目もふらずに一心不乱に駆け出すと、今度は一度も振り返らずに体力の続く限り走り続けた。記憶を忘れさせるって何? 怖い怖い怖い!

 特に体力の自信のある訳でもない私は、当然のように家に着く前に燃料切れになる。それでも確実に振り払ったと言う自信はあった。疲れ切った私は立ち止まり、そして呼吸を整える。
 ある程度落ち着いた後にゆっくりと顔をあげると、そこにはおじさんが立っていた。

「だから待たれよ」
「わあっ!」

 走り続けて体力をなくしていた私は全く動けなかった。目の前のおじさんは息ひとつ乱れてはいない。そこから考えてもやはり普通の人間じゃない。一体何者? 私だけを狙う理由は? 身体は動かない代わりに思考はぐるぐると高速回転を始める。
 おじさんは私が動かないのを確認すると、すうっと自然に顔を覗き込んできた。

「僕の目を見て……」

 その声には催眠術的な効果もあったのか、私は全く逆らえなかった。おじさんの顔はよくも悪くも普通で、あまり記憶に残らない顔だ。その普通の顔のおじさんの目は――まるで――宇宙のような広がりを見せていて――。

「あれっ?」

 気がつくと私は自室のベッドの上に横たわっていた。ちゃんと着替えているし、まるで何事もなかったかのよう。窓から差し込む朝日に小鳥達の声が賑やかに耳をくすぐる。

 何もかもいつも通りに始まった朝に、私は背伸びをして起き上がった。そうしていつも通りのルーチンワークをこなして自宅を出る。
 不思議な事に、朝起きてからする事全てが新鮮で楽しい。まるで全てが初めての体験のように。

 会社に出勤するとすぐに同僚の姿が目に入った。私はそれだけで嬉しくなって元気良く笑顔で声をかける。

「おはよー!」
「おお、元気になったじゃん。何かあったの?」

 同僚の言葉に私は昨日の出来事を自分の記憶の倉庫の中から探し始める。
 けれど、不思議な事に昨日の駅から出た後の記憶がすっぽりと抜け落ちていた。きっと何かがあったはずなのに、朝目覚めるまでの記憶が全くない。
 本来ならそれはとても不気味な事のはずなのに、不思議と私の心はスッキリと晴れ渡っていた。

「うん、全然覚えてないけど、色んな事が新鮮で楽しいんだ」

 私は笑顔で答えると、そのまま仕事に取り組んでいく。何かを忘れた分、新しく経験を積み重ねていく。知らない事を覚えていくのは楽しい。
きっと今日は最後まで退屈せずに済みそうな気がしていた。

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