「初恋の君」を僅か二日で描き上げて数日が経ち
初恋の人に出会った感動の余韻が未だ残っています。
小説と言うには余りにも稚拙単純、安直レベルに
一笑されるのではと思いながらも。
でもこれは小説というより、本当に彼女との楽しい
会話を綴ったものでした。
きっかけはある日、通り掛かった田舎の街路樹の
銀杏が夕日に照らされ金色に輝いていた、感無量の
美しさに思わず息を呑んで佇むほどでした。
しかしそれで一段落でした。
彼女は未だ登場してきません。
それから数日経ってから、あの時に見た夕映えの
美しい情景が脳裏に焼き付いたまま離れず、思い
巡らせていた時に、ふっと彼女がその情景に現れて
来たのです。
あっという間にその時空に吸い込まれる様に僕は
彼女といきなり偶然に出会ったのです。
それからは嬉しさと感激の交錯する高ぶる心情の
中で、次々に会話が弾んでいきました。
本当に引き込まれたその時空の中で彼女と会話を
していたのです。
だからトイレに行く暇も無いほど一気に筆が走り
ました。(実際にはキーボードですが)
二日で仕上げたと申しましたが、実際は真夜中の
数時間足らずでした。
だって、喫茶店の会話が本当だったとしたら、
二日も掛かる訳が無い!ですね。
当然、徹夜と言う言葉は似合わない、睡魔なども
一切無く、ただ単に夢中で彼女と会話をしていた
のです。
そのまんまを速記して文章に留めていった記録?
かもしれません。
では二日目は何を・・・?
正直に言えば当初なら喫茶店での楽しい歓談で
終わったはずでした。
ハッピーエンドとは行かなくても「また会おうね」
で僅かな生き甲斐をそこに見い出せる予感の含みと
淡い期待を持たせたままで終わりたかったのです。
然し、何故作者はラストで自分自身を死に追いやって
しまったのか?この物語の中で最大の謎でしょう。
あんなに恋い焦がれた初恋の人に実際は出会うことも
無い、どこに居るかも知れない、どんなに待ち望んでも
叶わぬ心の片隅に咲いた高嶺の花、
この麻疹(はしか)に罹ってしまった15歳の少年に
とって、他に生き甲斐や張り合い、生きる喜びを見い
出すことなど、どうして出来よう・・・?
ならばせめてこの少年の心の行き着く先は、もはや、
・・・・・・・・
それしかこの少年の苦しみを救ってあげる道が他には
見当たらなかった・・・
それがラストでの「夢で逢えたら・・・」のまま、
大好きな初恋の彼女と菜の花畑でお散歩をする~
幸せを感じながら少年は安堵の眠りにつくのです。
純情で、清らかで、純心無垢に初恋の人をずっと
探し求め想い続けてきた少年の行き着く先でした。
穢れ無き純真無垢、清純さ、相手を労わるこころ
純朴な想い・・・
そんな温かさを大切にしていきたいと願います。
しかしこういう作風は、他にはたぶん出て来ない
でしょう・・・。
でも、もしいつか僕が倒れたら、手紙として託し
彼女に読んで欲しい、その時にやっと想いを伝える
ことが出来るかもしれないね。
夢中で書き終えた後になって、そんな願いも・・・
風の便りに乗って、クラスメイトが読んでくれて、
そしたら又聞きで伝わって、彼女の眼にも留まって
くれるかもしれない・・・そう願いました。
よく一般に言いますね、「初恋を終わらせました」とか。
それは違うと思います。それはあえて我慢し諦めて
終止符を無理やり打つという強制的な心の封印でしか
ありません。
僕の場合、そんなことは出来ない。出来るものなら
そうしたいけれど。
これからもずっと死ぬまで引きずっていくことでしょう。
「終わらせる」なんてことは恋が実り叶った時になって
初めて「終わり」になるのです。
僕はそう思います・・・。
「心に咲くエーデルワイスよ、夢で逢えたら」