この小説を九名に捧げる。
二〇二三年六月四日 牟礼南極
1 天座の魔女が祈る理由
夜の垂れ幕が降りきった午前二時。東京都千代田区天座一の一には、周囲を囲むように天然樹が配置されていた。その遠くに見えるのは、人工の成せる現代建築物群だ。緑とコンクリートの計算されたコントラストは、見る者に感動を与えるためではなく、ただ天座を護るために用意されていた。
先の大戦で敗北し、未だ国際的に立場の弱い日本を支えるには、天座の守護が必須だった。独立した魔法陣としての山手線や、楔として穿たれた東京タワー、そして関東の鬼門を守る日光東照宮。どれもが日本の心臓の位置を明らかにしている。
天座はごく一部を除いて、日の曜を問わず、散策や遊歩などに訪れる国民に開かれていた。もし魔術を理解する者が鳥観図を見れば、天座には秘匿したい一角があることを読み取ることができるだろう。そこは中心に立つ象徴住居から南東にある森林で、隠されているのは座標そのものだった。
これは日本ではあり触れた手法で、例えば近場では明治神宮が、本殿ではなく外周の一橋の脇に真実を隠している。参拝客のほとんどは気付かずに通り過ぎるばかり。それはつまり正しい場所を知っていれば、願いが叶ってしまうことの証拠だった。
天座が隠したいものは天座。
天座とは名であり、位であり、匣である。しかし真に利口な者ならば、天座とは概念であることを見抜くことができるだろう。
その隠された座標には住居があった。丸太を幾重にも積んだ木造建築のそれは、蔦に絡まれ、草花に囲われ、人間の視線から意図的に閉鎖されている。
深夜二時の星灯りは、約八分の時間をかけて光を天座に運んだ。その降り立つ光の足元には、一人の女がいる。この住居の主であり、人々から魔女と呼ばれる存在そのものだ。
魔女は赤茶の外套を纏い、フードで顔を覆っている。顔立ちは西洋人の特徴を持っているが、その髪は漆黒であり、植物を煮詰めた香りを周囲に放っていた。閉じた目にはまつ毛が雪のように積り、引き結ばれた口はやや広い。色素の薄い白肌が、存在感まで希薄にしているかのようだった。
魔女は天座につないで、夜空を見ている。
これは彼女が生涯をかけている魔術で、日課の一部として日々くり返されてきた。それは文明が三回目の終わりを迎えたあの日から、ずっと今日まで。そして明日以降も。それはきっと深い悔恨と、それ以上の希望とともにある。
夜空を見上げるというだけの行為を、奥義だと知る者がどれだけいるだろう。信じることと、積み重ねること。その二つこそが、神により人に約束された魔術の基礎理念だった。しかし魔女の望みは叶わないと、神によって保障されている。
魔女はそれでも信じ続けていた。神が万能ならば、否定さえも否定できる。その全能のパラドックスに、生涯をかけると誓って。
途方もなく思えるこの屁理屈には、信じられるだけの根拠があった。これまで幾度となく不可能を可能にしてきた。そして結果的にいつも、神の約束は守られてきた。どんな矛盾も起きた後で考えれば、周到に用意された必然だったとわかる。
魔女は目を開けた。祈りにかける時間は一秒でも一時間でもよかった。自分の願いが叶うと信じられているか、それを確認できればよかった。
魔女は自分が信じていることを信じると、そろそろ床に入ろうと考えた。しかしそのとき、特に根拠もなく、もう少し外にいたほうが良いと感じた。
当たる場合の直感には、独特の輪郭がある。思い立って振り向くと案の定、背後に天使が立っていた。冗談のような翼を背中に背負っている。
追って夜空を見上げると、白光る螺旋階段が中空にまで降りてきていた。後光のような光が、足元の草花を灯していた。
『まさか顔を見にきたとは言うまい』
魔女は言いながら、皮肉を口の端で表現した。天使に関しては頼りに思う反面、自分たちの都合を押し付けてくる性質に嫌悪もある。警戒を見せたところで、どうせ天使は嫌な顔一つ見せない。
『愛する娘、私たちはいつもあなたを見守っています』
天使の決まり文句は簡潔だったが、十分に質問を返していた。
天使は中年の女性の姿であり、翼と共に簡素な布を体に巻いていた。これは魔女から見た結果であり、例えば他の者がこの天使を見れば、また別の姿に見える。その場合、自分の宗教に近い姿形に見えることが多い。
『そうだな、お前たちはいつも私を監視している。顔を見にくる理由がない。ではなんの用か』
『その答えをあなたはもう持っています』
『またそれか。なにかをさせたいならば、手順というものがある。もう少し肉体を持つ者に歩み寄るべきだ』
天使はその言葉に関心は持たず、また、魔女の身体が完全な実体でないことにも触れず、淡々と状況を進行させる。
『あなたの真の疑問はそれではありません。いまのあなたにとって、最も重要なことを質問するべきです』
これまで何度もこのやり口を経験してきた。質問するべきことなど思いつきもしないが、天使がこうまで言うのならば、質問を構成する材料は揃っていると考えていい。
魔女は直近で自分と関係がありそうなことをいくつか考えようとして、最初に思いついた単語に強い確信を持った。
『キョウト返還でなにかあるか』
『キョウトに奇跡が起きようとしています』
天使は返還には触れなかった。それはいくつかの可能性を意味する。例えば実に思いつきやすいのは、三年後の西暦二〇二〇年に予定されているキョウト返還の保護だ。イギリス政府の考えそうなことだった。
そして呼んでもいないのに、天使が自分の前に現れた。ならばこの直感はまず外れていないと考えていい。
魔女は弱気を隠した。
『たとえ今回の返還が失敗に終わっても、私の寿命なら問題はない。キョウトは必ずイギリス領から日本に戻ってくる。文明のスピンはもう日本に移っているのだからな』
『時間の秘密を知る娘、そのとおりです。近い未来、キョウトは日本領に戻ります。でもあなたならばわかるでしょう。なぜ人間に時間が与えられているのかを』
天使の言い回しは、時間に関して共通の認識を持っていることを認めている。その上で、魔女の言い分を否定していた。
『時間が与えられているとは良い表現だ。私はてっきり捕らわれていると思っていたからな。まあどうでもいい。つまりお前はこう言いたいのだ。いましかできないことがある、と』
魔女が言うと天使は頷いた。
『そのとおりです。そしていまのあなたでは、それに気づくことができません。ただ、強固にしているその偏見を崩すときがきました。これは福音、あなたの幸福であり、勇気を必要としています。ですが愛する娘、私はあなたならばできると信じて、いまここに約束と共に現れました』
天使が言った約束という単語は、一瞬で魔女の顔から余裕を奪った。自然と体は前のめりになり、ドーパミンが分泌しているのを自覚する。
『どういうことだ、私の願いは叶わないのではなかったか』
『あなたの願いは叶いません』
『ではなにをしにきた。お前たちはいつもそうだ、訳知り顔で、助言という名の混乱の種をまいているだけに過ぎない』
『本当にわかりませんか?』
言われた瞬間、魔女は確かに、意味のないことなどないということを思い出した。この世にある偶然とされること、それは観測者が意味を読み取れなかっただけに過ぎない。天使はいつだって導きを現象で用意し、死刑囚さえ含むすべてを愛している。
『結局、いつものありがたいお言葉の言い換えだ。お前たちは世界中にある経典にあれこれ書かず、正しい方法で頑張りなさいの一言だけを書けば良かった』
そう、天使は応援にきていた。近いうち魔女に起こる出来事は、それだけ正しい決断をするのが難しいということだ。
高位の存在は人間の自由意志を尊重し、明確な未来を語ることはあまりない。そのため、必然と遠回しな言い方が多い。
『そのとおりです。そして、いままであなたが辿り着いた真実の中に、いくつかの間違いが含まれています。ですが、確かにそれらは真実でした。いまのあなたは、次の段階へとアセンションする時期にいるのです。愛する娘、未知の闇へと進む勇気を持ちなさい』
それはもう何度も聞かされてきた、勇気の重要性だった。魔女も理解はしている、だが肉体持つ故か、どうしても納得しきれない部分でもあった。
『確かに不幸は人間を成長させる。そのためにいまも地球から紛争は消えず、理不尽な死が横行し、生き地獄のような環境まで完備されている。それでも迷える羊たちは誰もが、お前たちに救いを求めている。いい加減教えてやったらどうだ。学びを与えるために殺戮の準備をせっせとしているのが、お前たち天使だということを』
言葉に強い感情が混じってしまい、魔女は言った先に後悔をした。なにを言ったところで結局は肉体を持つ者という低次元の視点でしかなく、天使が正しいことも分かっている。
強い感情はつまり強いこだわりだ。こだわりは言い換えると偏見であり、偏見は未熟な視野から生まれる。
天使はそれらを知った上で、優しく言った。
『もし人間にそのことを知らせるのが重要だと思うなら、あなたがそれをやると良いでしょう。ですがその事実を信じる人間が何人いるでしょうか。また、強制的に与えられた真実に、どれほど深い理解があるでしょうか。浅い理解では、魂の成長はありません』
知っていることを説明された魔女は、ここでようやく少し冷静になった。
『そのとおりだ、少し感情的になりすぎた。肉体を持つとどうしても感情に引っ張られやすくて困る』
『そのための肉体です。愛と悲しみほど、体験なしに学べぬものはありません』
魔女は自分がなにを言ったところで、天使のペースを崩せないことをわかっていた。そして右往左往するのが自分だけということに、いい加減嫌気がさしていた。
『わかったわかった。お前たちの期待に添えるよう、せいぜい努力をしよう。そうすればきっと私の願いが叶う日もくるだろう』
魔女は言い切ると、もう行けと手を払った。だが天使はまだ帰ろうとしていなかった。
『何度も言いますが、あなたの願いは必ず叶いません』
申し訳なさなど微塵もなく、いつもの優しい微笑で天使は言った。その態度は願いの否定を強調しているようでもある。しかし魔女は、そうだとしても、という感情がカウンターのように心から溢れてくる。諦めることは絶対にない。
『なんとでも言え。先に約束したのはお前たちのほうだ』
『はい、応援していますよ、愛する娘』
言った次の瞬間には、天使はもう消えていた。夜空から螺旋階段も消えており、途端に魔女の耳には、木々や草花と風が擦れ合う音が蘇ってくる。いつもそうだった。天使に合うと、どんな内容の話をしたかに関係なく、心に安らぎが生まれてしまう。
魔女は夜空を見上げた。魔術の基礎としてではなく、ただの感傷で。
未だ自分が、闇の中にいるということを自覚するために。