こんにちは、名無之です。
最近、タカラスタンダードのCMを見てSDGsについて「難しかったかな?」と尋ねる土屋太鳳さんに対して子役の子が「わかってたもんね!」と強気で反応するシーンに、オネショタを感じてしまった僕は、もう末期なんだと思うようになりました。
さてさて笑
話は百八十度変わりまして、「天才」という言葉についてお話ししたいと思います。
「天賦の才」、「才能がある」などなどの言葉も含みます。
例えば、あなたが友人から「お前、天才だな」と言われたら嬉しいですよね。でも、自分から「俺って天才なんだよね」って言ったら周囲の人はどう思うでしょうか?
多くの人が「気持ち悪い」と思うのではないでしょうか。
ここで「そうか、君は天才なのか!素晴らしい!」と手を叩いて握手を求めるような人は、一度、心理カウンセリングをお勧めします。多くの人は言葉にせずとも一歩引いてしまうに違いありません。
同じ単語なのに、どうして言う人によってここまで変わるか、これを論じ始めると言語の持つ特殊性にまで議論が及びそうなので、詳細は割愛しますが、どうやら言葉には
「自分から言っていい言葉」と「自分から言ってはいけない言葉」という2種類があるような気がします。
そんな中、つい先日、ある編集部のツイートが目に止まりました。
実名は伏せますが、まあまあ有名なところです。
そこには「冒頭を読んだだけで、この人の天才さがわかる」といった趣旨の文章とともに冒頭の画像が投稿されていました(特定を避けるために直接本文を引用することは避けます。気になる人は調べてください)。
そのツイートを読んでから、掲載された文章を読んで、僕はどうしようもない寒気を覚えてしまいました。
もしかしたら素晴らしい文章かもしれません。(いま、落ち着いて再び読み返してみると……、うん、そうだね……)けれども、それを発信する側が「この人は天才だ!」と言ってしまうのは違う。
言うなれば、カクヨムのキャッチコピーに「誰もが認める天才的な文章」と書くようなもんです。そんな小説、読みたいですか? 想像してみてください。今日はどんな小説を読もうかなって、検索かけてみてそんな小説が出てきたら……。そっと別の作品に目を移すのではないでしょうか。
それとも、「なんだって!? 天才的な文章!? 気になるから読んでみよう!!」となるのでしょうか。もし、そうなら教えてください。十人集まったら、オフ会でも開きましょう。
話は逸れましたが、やってることはそれと同じようなことです。
せめて著名な方のコメントとして発表するとか、「編集部全会一致の天才性」など、数で攻めるなどしないと天才性というところで売るには説得力が大幅に欠けると思います。
それほど、「天才」という言葉は主観的なものなのです。物語において言葉は等しく平等ですが、マーケティングでは違います。客観的でないといけないのです。
と、これ以上言葉を紡ごうとすると、再び言語が持つ特殊性に話題が移って行きそうなので今日はここまで。
実は今日、短編の締切で、それなのにまだ40分の3しか終わっていないのです泣
やばいですね、頑張ります。
というわけで、言葉って難しいよねって話でした。
それでは。