『小説家になろう』に載せていたエッセイ (作品に対する注釈) です:)
物語を読んでもらうにあたって、あまり読んで欲しいものではないんですが、念のために置いておきたいと思います。
掲載日:2026/07/12
物語の続きを、暇さえあれば書いています。
PCか携帯さえあればできる素敵な趣味ですよね。世界のどこにいてもできる。
今日はXで書くにはちょっとな、と思った内容をここに記してみようと思います。
Xの方は最近、ちょっとネガティブなことを呟きすぎたかな、と反省していたので。消さないけど。
幸か不幸か、あんまり読者のいないアカウントですし(読んでくださったことのある方、ありがとうございます)、こっそり呟くにはここはぴったりそうです。
あんまり見られたくはないけど、吐き出してしまいたいような事を書いてしまおう、と思い立ちました。
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絵画。光のゆらぎ。木漏れ日。水遊び。夏休み。
普段、そうした自分にとって綺麗なものをたくさん物語に詰め込みたいと思っています。
カラスみたいですね。
なぜかなに書いても現実の重さがそれを下に引っぱってくるんですが。
でも綺麗なものも、辛さも、両方あるのが人生なので、両方とも私の物語世界には必要なんだと思っています。
私の書く物語って結構なろうのテンプレの『強者と弱者』の構図が多いけど、どうしても強者の視点はよく分からないんですよね。
その分、特別なだれかに見られたい、助けてほしい、そんな人の気持ちは分かる。
だから、主人公が奴隷を助けて気持ちよくスカッとなるどころか、奴隷の方がウジウジと考え始めてしまう。しかも、貶められた姫君が貴公子に救出される物語にもできない。
なぜなら、歪んだ体験をしている人間が出力する行動って、必ずしも真っ直ぐで清らかで、わかりやすいものじゃないことが多いと思うんですよ。貶められても、心が清らかでいられる姫君の気持ちはよく分からない。
綺麗に救われてしまう姫君を見ると、疑ってしまう。新しい主人に気に入られるため、生存本能から阿っているのではないか。分かりやすく「救われた人」を演じているのではないか、と。
虐げられてきた人間は、優しい主人に気に入られるためなら、救われたように錯覚するくらいしてしまうでしょう、きっと。私なら錯覚する。
救われた後に、気力が落ちて鬱になって寝込んでいる姫君に、それでもやさしく手を差し伸べるヒーローなんて想像できます?
なろう的な物語の文脈からはずれてしまうから、そんなシーンを書く作家さんはいないかもしれないけど。
ついでに、行動をせずに貴公子が助けに来てくれるのも想像ができない。
なにもしない、言葉も言わない受動的な人間に惹かれる男性というものが信用できない。それは都合のいい存在に対する支配欲となにが違うのか。
だから、私の登場人物たちはみんなやたらと考え事をしています。
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今書いている物語、最初に書いたのが高校生の時で、子供時代と近かったから、かなり容赦なく赤ずきんに自分の過去の要素を詰め込めたんですよね。
作者ページからは見つからないけれど、なぜか検索すると出てくる一番最初のバージョンも、その次のバージョンもわりとコメディに寄っていたはず(昔すぎて内容忘れちゃった)なんですが、それでも赤ずきんの行動の不穏さを心がけていたのを覚えています。
それが、当時に比べたらすこしは大人になったもんだから、私の大人になった部分が騒ぐ騒ぐ。「子供になにさせてんの」「いや、子供のこんな描写書いちゃダメでしょ」って。
でも、書かずにはいられないんですよね。
だって、辛くて辛くて仕方なかったのは子供の時代だったから。
(それ以上に物語上の意義、ここから先、赤ずきんの過去が明かされていくわけですが、そういう設定にしたのは、倫理的な疑問に対するある種の問いを自分自身に課したいと思ったからでもあります)
辛くて仕方なかったあの頃、漫画の中の大人たちが颯爽と現れて、この子は俺、あるいは私のお気に入りの子です、って周囲に見せつけてくれないかなあって妄想していました。声の出し方、喋り方も忘れてた頃。
なぜかクラスルームではなく、体育館の集会でそんな事を考えていました。
暇だったからかもしれません。
当時の私は無力でした。
というか平均的な能力、一般的な才覚の子供ってあまりに無力で、あまりにできることが少ないんですよね。
特別辛いことはなくても、いつも従うべき規範、大人から強制される普通みたいなものがある。
いまだにこういう考えがすらすら出てくるあたり、いい年して未だ反抗期なのかもしれません。
大人や親や権力者というものが信用できない。だって、彼らはそれが当然って顔をして、彼らの『普通』を強制してくるから。
私は一回もそれをしたい、って言わなかったかもしれないのに。
だれか、助けてくれないかなあ、って思っていました。だれか、こっちを見て、褒めてくれる大人。いないかなあって。ちょっと変なことをしても、変な子供、気持ち悪い子供として扱わず、分かるよって言ってくれる人。
結局、そんな都合のいい大人は存在せず、ひとりぼっちでいた私のところにやってきたのは、ある一人の同級生でしたが。
物語を書いていながら、そして最近友人の結婚式に参加して、ふと自分の人生の不規則な道のりを思い出して、あの当時のしなびた気持ちを思い返し、どこかに吐き出したくなっちゃいました。
私は、多分ほかの多くの子供がそうであったように、風変わりで変で、無力な子供でした。
特別な能力も持ってなかったし、あまりにも生きるのが辛くて、ストレスで狭められた思考力でずっと同じような鬱々とした考えを反芻していた。
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でも大人になって分かったんですが、子供って無力だけど、強烈な力も持っているんですよね。
ちょっとした行動が、大人の認識にとんでもないパラダイムシフトをもたらす。
だから、今書いている物語の赤ずきんには、二層あるんですよね。
1 : 私が知っている、私が経験した地獄に対する感情。虐げられた子供。
2 : 私が見てきた子供たちや、友人たち。可能性の象徴。人間性の輝いている部分。未知性。
一つの人間の中に、私がとんでもなく惹かれる人間の部分と、「あー……、どっかで見たことある子供だな。私か。あの哀れな子供の」という部分がある。
でも、その「あー……」ってなってしまう部分にも、きっと子供としての強さはあるんです。
当人には全く分からないけれど、大人から見たら、思わずハッとなるような。
私の書く物語の想定読者って基本的に、子供時代の私なんですよね。
当時の私の気持ちがわかるよ、全然上手くできなかったね。って。
でも、そのうち大丈夫な日が来るかもしれない。って。
縮こまって怯えていた子供の時の私では見えなかった、大人の私が今まで見てきた綺麗なもの、可能性、そうしたものを、物語にこめていけたら、そう思っています。
(もしや、私は自分の物語のネタバレをここでしているのではなかろうか)