ライルが帰宅をするとコーディアはサロンで読書に励んでいるところだった。
ライルの入室にも気づかないくらい夢中になっているらしい。
手に持っているのは彼女の愛読書『探偵フランソワの冒険』シリーズだ。
先日ライルが贈ったものである。
自分の贈ったものをコーディアが気に入ってくれるのは嬉しいが、少しだけ複雑だ。何しろ、彼女が大好きだという小説に登場するのは御年三十五歳になる紳士探偵なのだ。
「コーディア」
ライルは婚約者に向かって声を掛けた。
彼女はライルの帰宅に今気づいたようで、顔をこちらに向けた。
「ライル様」
コーディアはしおりをはさんでぱたんと本を閉じた。
それから慌てたようにスカートのすそを直した。
ライルはコーディアへ近寄った。
さらりとした金色の髪の毛に触れたい衝動に駆られてライルはそれを必死に抑える。
彼女はライルの内心などまるで気づかないように、深い青色の瞳でこちらを見上げた。口元がほんのりと緩んでいる。
くつろいだ表情が可愛らしくてライルも自然と口元をほころばせる。
「今日は何巻を読んでいたんだ?」
「十五巻です。フランソワが列車旅行をする巻なのです。列車の中で殺人事件が起きてしまい、今は容疑者の一人と話をしているところです」
コーディアはあらすじを話した。ところどころぼやかしているのはライルに対する配慮である。
「そうか。私も頑張ってきみに追いつこう」
ライルはコーディアの隣にさりげなく腰を落とした。
「本当ですか?」
コーディアが目を輝かせた。
先ほどよりも生き生きとしているように感じられてライルも嬉しくなる。
コーディアと互いの話をするようになって、二人の距離はだいぶ縮んだ。
コーディアは徐々にライルへの緊張を解いていき、こうして笑ってくれるようになった。
野に咲く小さな花がほころんだような笑みをずっと眺めていたいと思う。
「ああ。きみと感想を語り合うのは楽しいから」
「わたしもライル様とフランソワについてお話ができて楽しいです。本の感想を言い合うのって楽しいですね」
コーディアは無邪気に言う。
最初はほんの好奇心だった。
コーディアがこれほどまでに夢中になる探偵小説はどんなものなのだろうか、と。
ライルも一応教養としてフランデール語とロルテームは読み書きできるし会話には困らない程度に習得している。婚約者が翻訳本ではなく原本を読んでいることもありライルもロルテーム語版を読んでみた。
読んでみた感想としては、面白いの一言だった。
ロルテームで評判になり、各国の言葉に翻訳されるわけである。ロルテームで出版された作品なのだが、フランソワは神出鬼没で、巻ごとに舞台となる国が違う。インデルクが舞台の巻もあり、コーディアが最初にケイヴォン散策で興味を持ったのも小説の舞台を実際に自分の目で確かめることだった。
「しかし、きみがフランソワのことをたくさん褒めるから……すこし複雑だ」
「複雑?」
コーディアはきょとんとした。
しまった。これはライルの完全なるやきもちだ。
「ええと、婚約者の前で他の男を褒めるのはどうかと思うんだ」
ライルは取り繕うように言うが、まったく取り繕えていない。ただのやきもち全開の発言だ。
コーディアは探偵小説の主人公、フランソワに心酔しており、ライルにも彼のすばらしさについて熱心に語った。
フランソワは紳士で、誠実で明るく、知識も豊富で思慮深く、しかも運動神経にも秀でた完璧な男性なのだそうだ。
そんな完璧人間いるわけないだろう、と心の中で突っ込んだが、声には出していない。今のところは。
「でもフランソワは小説の中の人ですよ」
「そうだが……」
コーディアはあんなおっさん探偵のほうががいいのか、俺よりも? とかいう狭量発言をどうにか堪えるライルである。
そもそもコーディアにとってライルは完全にただの婚約者なのだ。今のところフランソワの方が若干上のような気もする。あくまで若干だが。
「ライル様、キャロラインのような女性をどう思いますか?」
コーディアが名を上げたキャロラインは『探偵フランソワの冒険』シリーズに登場する謎多き美女だ。フランソワの行く先々に姿を現す変装の達人。年の頃は二十代中頃。しっとりとした大人の女性で、性格は大胆不敵、男をもやりこめるくらいに弁が立つ。
「キャロライン? 彼女の正体が掴めないからフランソワはもっと彼女に警戒心を持った方がいいんじゃないか?」
「……」
ライルが正直な感想を言うとなぜだかコーディアが生暖かい視線を送ってよこした。
「……彼女、美人じゃないですか。褒めないんですか?」
「別に……」
二人の間に沈黙が漂った。
ライルはコーディアが言いたいことをなんとなく理解した。男性読者に人気のあるキャロラインを引き合いに出して、自分がフランソワを褒めるのは普通のことだと言いたかったのだろう。
しかし、ライルは別にキャロラインに対して特別な好感を持っているわけではない。あんな神出鬼没な豪胆女に気を許せるはずもない。フランソワは彼女のことを少し気にしているみたいだが。
「わたしはキャロラインも好きです。彼女きれいだし、明るいし」
「そうか」
「ライル様は……、ああいう女性はどう思われますか?」
コーディアはもう一度キャロラインについて尋ねてきた。
彼女はキャロラインのことが好きなのだろう。だったら否定するのも憚られる。
「自分の意見をはきはき言うところは好感がもてる」
「ですよね」
「行動力もあるから、それもいいんじゃなか?」
「そうなんです。誰にでも意見できちゃうところが素敵なんです。特に第五巻で好きなシーンがあって。あ、ライル様読みました?」
「いや、まだだ」
「では、ライル様が読み終わったらわたしの好きな台詞を言いますね」
ライルはとりあえず早くコーディアに追いつこうと決心する。
「キャロラインみたいに、自分に自信がある女の人、憧れます。ライル様は……その……いえ、何でもないです」
コーディアは何かを言いかけて、少し逡巡してから結局一人で完結させてしまった。
「どうした?」
「いえ……。いまのは忘れてください。つまるところ、わたしはキャロラインも好きって言うことなんです」
「そうか」
あまり深く追求しても彼女を頑なにしてしまうだけだろうと思い、ライルはあっさり引き下がった。
「そうだ。土産を買ってきたんだ。このあいだきみが食べてみたいと言っていたチョコレートでコーディングされたケーキだ」
スポンジケーキをチョコレートでコーティングをし、中に木苺のジャムが挟んであるという。
帰り道に菓子店に立ち寄ってコーディアのために買ってきた。
コーディアはライルの言葉にぴくんと反応した。
「わあ、本当ですか。わたし一度食べてみたいって思っていたんです。フランソワも好きなケーキなんですよ」
にこりと無邪気に言うものだからライルは「そ、そうか」と答えるしかなかった。
やっぱりおっさん探偵はお邪魔虫でしかないと彼は心の中でフランソワを目の敵にした。
ライルと『探偵フランソワの冒険』の話をしているとなぜだかおかしな方向に話が転がった。
コーディアがフランソワを褒める好意がいただけないらしい。淑女が決められたパートナー以外をよく言うのはあまりいいことではないということだろう。
しかし相手は小説の登場人物。
そこでコーディアは件の小説に登場するヒロインを引き合いに出してみた。
男性なら、キャロラインのような魅力的な美女を褒めると思ったから。
しかしライルの反応はコーディアの想像とは違った。それはそれで悔しくてコーディアはキャロラインをほめちぎった。
同性から見ても彼女は魅力のある女性なのだ。それにコーディアに無いものをたくさんもっている。例えば積極性だったり、物怖じしない性格だったり。もちろん美人ということも忘れてはいけない。
そしてライルからようやく自分の意見をはきはき言うところは好感がもてるという言葉を引き出して、もう二、三話した。そうしたらなんだか心の中がもやもやした。
やっぱりライル様もキャロラインのような明るくてさっぱりした女性が好きなのかしら、と思ったらどうにも胸の奥が重く感じられた。まるで食べ物を噛まずにそのまま飲み込んだように、お腹のおくが重くなった。
だから、ついそのまま訪ねてしまいそうになり、慌てて言葉を飲み込んだ。
ライルにとってコーディアはただの婚約者で。親同士が決めた縁談だからこうしてコーディアに歩み寄ろうとしてくれている。
それをちゃんとわきまえないと。
わきまえていれば、コーディアはライルと楽しく話を続けられるから。