またざっくりとした記憶と印象で雑文を書く。
大先生を敬称略で書くが、以下に名前の出てくる創作家たちを私が大尊敬していることを念のため書き添えておく。
最近この近況ノートで村上春樹について書くことが増えたが、誰か別の作家を取り上げてみたいとふと思った。村田沙耶香なんていいと思うのだが、再読・再々読が足りておらず、語るのはいささか荷が重い。
そこで思いついたのが谷川流。『涼宮ハルヒの憂鬱』でスニーカー大賞を受賞し、いまに至るまで『ハルヒシリーズ』を書きつづけている。書くペースがどんどん遅くなっていて、昨年久しぶりに『涼宮ハルヒの劇場』を発表した。
このシリーズ化の功罪について考えてみたい。
功は言うまでもなくハルヒシリーズを生み出したことだ。私は大ファンである。
罪について。仮説になってしまうが、もしハルヒを3冊くらいで完結させて、他の長編に注力していたら、天才谷川流ならいろんなタイプの傑作長編を書けていたのではないだろうか。村上春樹が多様な長編を著しているように。
上記を書いて、手塚治虫と井上雄彦についても書いてみたくなった。
手塚の時代、漫画は現代ほど(際限のないような)大長編を求められてはおらず、漫画家は完結すべきところで漫画を終わらせることができた。そして手塚治虫は数々の傑作を描き残した。
井上雄彦は現代の天才だが、手塚と比して作品数が少ない。『SLAM DUNK』『バガボンド』『リアル』はいずれも傑作だが、井上が超長期連載をせず、ほどほどの長編に取り組んでいたらどんな作品を描いていただろうか。
時代が変わってしまったので、無意味な設問かもしれない。
谷川も井上も俺はこれを描きたくて描いているんだと言うかもしれない。
しかし天才たちが大長編ではなくてほどほどの長編を書いていたら、ずいぶんと面白い作品をもっと読むことができただろうなあと私は思わずにいられないのである。
今回言いたいことはそれだけ。