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痛みを知るということ

人は心が身体が痛い時、誰かに分かってもらいたくて話しますよね。
目に見える傷は共感してもらえても、心の傷はあまり分かってもらえないことはありませんか?
私はありました。
誰かに暴行を受けたわけでもなく、トラウマを負ったわけでもなかったからです。
ただ、本当に苦しくて辛くて、色んな人に訴えました。
原因は大したことではなかったかもしれませんが、ただ、とても辛かったことを覚えています。
けれど、分かってもらえませんでした。
もっと辛い人はいる、お前だけが不幸じゃない、そう言われてあまりの無力感に死んでしまいたくなりました。
そして、数年後、母親が同じ苦しみを味わって、ようやく私の痛みを理解してもらえました。
でも、それより苦しいことがあって、それを訴えようとした時に、「きっとわかってもらえない」と諦めてしまいました。
その時は、将来なんてもうどうでもいい、消えてしまいたい、と思ったり、なにか別のことでしか気を紛らわせなくて、やりたくもないゲームをして、大事なことが全て手につかない状態が続きました。
外に出るのも怖くて、学校に行くのもしんどくて、ずっと家にいました。
けれど、周りはそれを良いとは言わなくて、(当たり前ですが)それから逃げ続けていました。
人の痛みはあくまで人の痛みでしかなくて、いくら訴えても、実際に受けてみないと、その十分の一でさえ伝わらないのです。
私は、悲しみに暮れる友人の痛みを全て知ることができずにいて、とてももどかしい思いをしています。
でも、決してどちらも無駄ではないと思うのです。
痛みを訴える側も、理解する側も、どうか諦めないでください。
そして、理解する側は、どうか「貴方だけじゃない」とか「私だって」となるだけ言わないでください。
その時に深く傷付くのは痛みを訴える側で、理解する側は少しの優越感と罪悪感に捕らわれることと思います。
どちらも得をしないし、きっと、「この人は私の人生に必要がないんだ」と、それっきり話すこともない場合もあります。
どうか、みなさんが一人でも痛みを共有できる人に出会えますように。
そして、寄り添って歩いていける人に出会えますように。

*稚拙な文章で申し訳ありません。
言いたいことがまとまらず、乱雑な文章になってしまいましたが、伝えたいことを詰め込みました。

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