悠鬼よう子さんから
https://kakuyomu.jp/users/majo_neco_ren 「泣き女と鍋」の哲学的なレビューをいただきました。
https://kakuyomu.jp/works/16817330657243093392/reviews/16818093088553394514 皆様にも「彼女」の存在を幾ばくか感じていただけているようで、この作品を世に出した時点ではまだ確立されていなかった存在が皆様の感想やレビューで輪郭が描かれ、作者と彼女は別の存在になった、ということが望外の喜びです。
会話を前提にした人間関係には、ヒトそれぞれの経験を元にした哲学と個々の常識による省略のうむ余白とプロトコルに基づいた会話がなされているはずです。
それは人が無限に生きることはできず、すべてを伝えるには言葉では物足りないもどかしさがあるからです。
当然に生きるために続けている食事という行為はヒトのこれまでの経験の基礎であるはずで、食事の場でなされる行為には人物の半生が示されていると探ることもミクロな観点ではあるものの形而下の分析的な哲学、互いのプロトコル把握には有意義です。
彼女は会話の内容から独善的な厄介な人物ではあるものの、出されたものを食べる所作や帰り際へ至る流れから一定水準のプロトコルを保てる人物である、ある局面において出来る女と評されることがあったとも言えます。ですが、作者がそこまでプロファイルをしたうえで所作を描いたわけではありません。所作からの演繹的なプロファイルによって、彼女はそこそこに出来る女である可能性があるというだけです。
改めましてレビューありがとうございます。